第9話 ずっと探していた 後編
2
「エステル!よい報せだぞ」
帰ってくるなり、父は喜色を満面に浮かべて言う。
父にとってのよい報せは、たぶん私にとってはそうではない。
「なんでしょうか?」
「入籍の日取りが決まった。来月の頭だ」
──ああ。
やはりそうだった。
父は入籍を急き、対するガルニエ伯は先延ばしにしようとしていた。それも限界が来たらしい。
魔石の件を発表して以来、王がガルニエ伯に圧力をかけていると聞いたことがあった。早くウェルディエを彼の保護下に置かせたかったのだろう。
その圧力に屈したのかもしれない。
アルベールは領地を相続しないからウェルディエに住むことになるだろうし、軍を指揮する彼は領地を離れていることが多いだろう。
だから結婚した後もイネスのもとに行くことはできる。
それでも……もうすぐ引き返せない一線を越えてしまう。イネスに"私"を差し出せる、その可能性を保っていられる最後の一線を。
「近く、アルベール様が我が領まで教会の下見にいらっしゃるそうだ。そのときはご案内してさしあげろ」
胸に鉛でも詰め込まれたように、身体が重い。
それでも辛うじて口角を上げる。
この絶望を、気取られぬように。
「はい」
──こんなことをする意味があるの?
もう時間切れだというのに。
3
町の中央に、教会はある。
この国の──いや、砂漠の西側にあるほとんどの町に共通の特徴といっていい。
神の眼差しと恵みがあまねく町の隅々まで届くように。そう町を造るのが領主の使命であり、ある種の格式でもあった。
けれど、望まぬ結婚に立会い証すのがその神なのだから、私にとっては恵みではないらしい。
もう日は落ちて、聖堂に人の姿はない。
司祭が気を利かせたのか、点いたままになっている蝋燭が聖堂の中を薄く照らしていた。
この建物は高所に窓が多く、微かだけれど月明かりも差し込んでくる。
「立派なところだね。手入れも行き届いているし」
長椅子の背に触れて、アルベールは言う。
確かに、今のウェルディエの街並みに比べてこの教会は豪奢だ。
もともとが銀で潤っていた頃の産物だし、市壁すら維持できなくなった街とは違って、ここは教会の手と金で支えられているから。
「古い教会ですから。クワルツ山が銀鉱として賑わっていた頃の富で建てられたものです」
「僕たちが立派な教会で式を挙げられるのも、当時の民のおかげか。有難いことだね」
「ええ……」
貴族の若者として理想的な感想を、淀みなく答える。
彼がそういう……立派な振る舞いを見せる度に、私はなにか心に重くのしかかるものを感じる。
私だって、周囲から求められるような人格を演じているのに。
「有難い……僕はそう思っているけれど、君は?」
彼の深刻な声色に気づいて、しまった、と思った。
仮面が外れていたかもしれない。
「正直なところ、無意識に当たり前だと思っていたかもしれません。民に支えられている貴族として、お恥ずかしい限りです」
「いや、そうじゃないよ」
「……」
「僕との結婚自体を、どう思っている?」
真剣な……そう見える目だった。
彼は、私が思っている以上に核心に近づいていたのかもしれない。
でも、それを指摘する意味はなんだろう。彼自身はこの婚約をどう思っているのか。
本気で疑問に思っているのか、それとも婚約を破棄する糸口として、私が乗り気でないことを指摘しようとしているのか。
ただ、少なくとも「婚約を喜んでいる」という体で話していることは確かだ。
ならば……やはり、彼に合わせるしかない。
「もちろん、とても嬉しく思っております」
「そうだろうか。こんなことを言うのは女々しいけど、最近の君はそう見えない」
最近──イネスに出会ってから、おそらく私の演技は下手になった。
彼女に惹かれてゆくうちに、そして望みが満たされてゆくうちに、望まないものを隠すのが下手になった。
彼には見抜かれていたのだろう。
「以前の、婚約したばかりの頃はそうじゃなかった。本当に僕と一緒になることを喜んでくれているように見えた」
それは……勘違いだ。彼が本当にそう思っているとしたら、当時の方が私の演技が上手かったというだけだろう。
あの頃の私も、喜んでなどいなかった。
それだけじゃない。喜びも怒りも悲しみも、何も無かった。
空っぽだった。
空っぽでいたかった。
今だってそうだ。
イネスがそばにいないときは、何も感じたくない。
「思っていることを聞かせてくれ。君はいつも僕の話を聞いてくれるけど、自分の話はしてくれない。もしこの結婚が嫌なら──」
「嫌だったら、どうなるというのですか?」
嫌だろうとなんだろうと、何も変わらない。
私たちは馬車に揺られていて、行先は御者にしか決められない。
そのまま座っているか、あるいは飛び降りて道端で野垂れ死ぬか。私たちに許されるのはそれくらいだ。
隣に座っている者に愚痴を言ったところで馬車は止まらない。多少居心地が悪くなるだけだ。
だからただ黙っていたのに。
飛び降りる瞬間が訪れるまで。
「これはウェルディエとガルニエの縁談です。私たちの意思など関係ない。貴方にとっても、お父上から与えられた役目なのでしょう」
言ってから、正気に戻った。
また抑えが利かなくなっている。彼は、イネスとは違うのに。
「ごめんなさい。誤解をなさっているようなので、つい──」
「確かにこの縁談は父に与えられた使命だ。だから初めて君に会ったとき、君を好きになろうと思った。そして、そうなった」
言い訳を遮ってアルベールが言う。
距離を詰められてたじろぐ。
「僕は、君が好きだ。いつも見せてくれる優しい笑顔も、僕の話についてきてくれるときの聡明さも……美しさも。これは僕自身の想いだ」
身体を庇うように胸元に置いた手を取られる。
彼の手は、イネスとは対照的に温かい。
「もしかしたら今は……僕よりも興味を引かれる人がいるのかもしれない。それでも、いつかは僕と夫婦になってよかったと思ってもらいたい」
体温が伝わってくるほどに、顔が近い。
こんなに近くで彼を見たのは初めてだ。
私を真っ直ぐに見つめてくる、熱の籠った目。
イネスと同じ目だった。
ああ……そうだ。
あの子と比べて初めて気づいた。
彼は、ずっと嘘なんかついていなかったんだ。
あの笑顔も、私の容姿や教養を褒める言葉も、結婚した後の展望も。全て嘘偽りない真実だった。
父親に決められたことを心から喜び、言われるままに相手を好きになり、何も偽ることなく幸せに生きてきたのだ。
素晴らしい人だ。
彼は"この"私を、父とこの家とこの町に造られた私を、欺瞞で造られた私を好きになった。その私を、全力で幸せにしようとしてくれるだろう。
優しい私を愛し。
賢明な私と家庭を営み。
貞淑な私と子を成す。
私の隣で、笑顔で馬車に揺られ続ける。
「だから僕と──」
私にはそれが──
気持ち悪い。
月に雲影がかかるように、仄かに暗く、そう思った瞬間だった。
「うわっ!?」
長椅子の陰から白い獣が飛び出してきて、
アルベールの喉笛に喰らいついていた。
「なっ……やめろっ!!」
獣と人の影はもつれあって倒れる。鈍い音がした。
アルベールは腕を振ってもがくけれど、拳が当たっても獣はびくともしない。
呻き声と、喉を鳴らす凶暴な唸り声が一体となって聖堂に響く。
獣は首を振って、深々と沈めた牙で肉を食い破った。
「かふっ、がっ……」
老人の咳に似た奇妙な音を立てて、首筋から血が噴き出す。
磨きあげられた石の床が、赤黒く色を変えてゆく。
獣は悠々と立ち上がり、仕留めた獲物をじっと見つめている。口から雫を滴らせながら。
私は他人事のように、ただそれを見ていた。
人が獣に噛み殺される様を。
どこか見覚えのある、その光景を。
アルベールは弱々しく顎を震えさせながら、私を──いや、私の背後を見た。
「魔……女……」
金縛りが解けたように、私は振り向く。
いつの間にか開いていた聖堂の扉。
月明かりの逆光に、ローブととんがり帽子の輪郭が黒く浮かび上がる。
表情は見えず、ただその影だけが私を見つめている。
魔女。
忘れていた、魔術師の真実に反する姿を。
人々が恐れる半人半妖の姿を、私は思い出していた。
影は音もなく私に歩み寄り、両手を伸ばす。
動けない。
長い腕で包み込まれると、その冷たさと慣れた抱擁の感触で、かろうじて彼女がイネスだとわかる。
あれは貴方がやったの?
いま──いったい何を考えているの?
疑問に満ちながらも声を出せずにいる私の視界を、黒い影が覆う。
暗闇の中、唇になにかが触れた。
つめたく、やわらかい。
私が正体を解釈するより早く、それは離れる。
そして影は、どこか恍惚としたように呟いた。
「たからもの、見つけたよ。先生」




