第9話 ずっと探していた 前編
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「ただいま、イネス」
わたしの家に来るとき、エステルはいつからかそう言うようになっていた。
「おかえり」
ただいま、おかえり。
このやり取りをするのも先生がいたころ以来だ。
そもそも人と会話をすること自体がそうなのだけれど、ここを"家"だと思っている人がいるのは、やはり特別だった。
クルが実体化して尻尾を振りながらわたしの足元にまとわりつくので、持ち上げて食卓に上げた。
エステルはこれを見ると嫌そうな顔をする。どこを歩こうとクルの足が汚れることはないのに。
いつものように、クルの頭に額を近づける。
意識を集中して魂に触れると、クルが記憶したすべての感覚が流れ込んでくる。
机の下から見るエステルの脚。
猫なで声で語りかけてくるエステルの声。
湯上がりのエステルの匂い。
エステルに頭を、顎の下を撫でてもらう感覚。
"至福"というやつだ。
いったん、クルから額を離す。一気に見てしまうのはもったいない。
「はあ……」
「なぁに、その顔」
思わずため息が漏れ、エステルが呆れたような笑顔を浮かべる。
今のクルはエステルの魂に寄生させていて、勝手にわたしのもとに帰ってくることはない。記憶を共有できるのはエステルが来たときだけだ。
だから、どうしても彼女に緩んだ顔を見せることになる。
もう一度、クルに額を当てる。
クルは他人がいるときは隠れているから、ほとんどエステルに関係する記憶ばかりだ。不純物が少なくて良い。
ただ……一瞬、窓越しにエステルと誰かが話しているところが見えた。
あの男だ。
"舞踏会"というのでエステルと踊っていた奴。
額を離す。
噛み締めた奥歯が、ぎり、と音を立てる。
「どうしたの?」
「嫌なものを見た」
「なに?嫌な……」
言いかけたエステルが、察したように目を伏せる。
「アルベールね」
「結局あいつはなんなんだ?」
「……婚約者。言ってなかったかしら」
「婚約……結婚の約束をしてるのか」
婚約。結婚。その言葉は、確か本で読んだ。先生から聞いたことはなかったと思う。
女と男が一生を共にするという契約。同じ家に住み、子を作り……
エステルが、あの男とそういう約束をしている。
想像すると胸がむかむかしてきた。手を繋いだり、踊ったりしているのを見るのとは比べ物にならないくらい。
「そいつと結婚するのか。わたしがいるのに」
「それは……これから何も起きなければ、そうなると思う」
外の世界の話をするとき、エステルはいつもこういう言い方をする。
そうなる。そうらしい。そうしたがっている。
まるで他人事だ。
エステル自身のことで──それはつまり、わたしのことでもあるのに。
「お前にとってわたしが何なのか、今まで一度もはっきり口にしていないな」
エステルに詰め寄る。目を見ると、自然と見下ろす形になる。
こんなに小さくて、ローブの中にまるごと隠せてしまいそうなのに。なのに、そうすることができない。肌身離さず持っておきたいのに離れてゆく。
それが、胸を引き裂きたくなるくらいにもどかしい。
「あの男と結婚するまでの遊びか?一緒にいると言ったのはそれまでの話か」
「違う!私は……そうじゃないわ。わかるでしょう」
わかる……けれど、わからない。
エステルの意思では決められないことがたくさんあって、だから彼女は嫌なことばかりしている。それを強いる敵がいる。
わかっている。けれど敵が具体的にどんな形をしていて、どうして抵抗できないのかを、わたしは知らない。
きっとわたしが魔術師で、エステルが貴族だからこうなっているのだろう。
そのズレに、そして自分の無力に苛立つ。
「私だって……別に彼と一緒にいたいわけじゃないわ」
「じゃあ、手を繋いだり、顔を近づけたり……ああいうのは、ほんとうは嫌なんだな?」
「そう。そういうことをしたいのは、貴方にだけ」
わたしの目を真っ直ぐに見つめて、エステルは言う。前の、ひたすらに丁寧だったころの彼女はしなかったことだ。
そのままわたしの背中に手を回し、抱き寄せた。
最近気づいたことだけれど、わたしはこれが好きらしい。エステルもそれを知っているのか、私を怒らせたあとは決まってこうする。
からかわれて怒ったときは笑いながら、軽く短く。本気で喧嘩をした後は強く、長く抱きしめる。
それが強ければ強いほど喧嘩の原因も根深い。そして根深い問題は、たいてい抱擁では解決していない。
今日のは今まででいちばん強く、長かった。
初めて会ったとき──彼女を気に入ったと言ったときは、自分のエステルへの感情の意味なんて深く考えていなかった。
先生のように、わたしのそばにいてくれるかもしれない、としか。
ただ、今は違う。
エステルがわたしのもとを離れるかもしれない。わたしとしたことを、他の誰かとするかもしれない。
そう思うだけで頭が煮えたぎるように熱くなって、魂がバラバラになるような痛みを覚える。
ずっと一緒に暮らすと思っていた先生が、いなくなってしまったときのことを思い出す。
わたしは、また失うのだろうか。




