第8話 ずっとひとりで 後編
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「じゃあ、またね」
「ああ……」
叶うならばずっとここにいたいけれど、そういうわけにはいかない。……少なくとも、今は。
外まで見送ってくれたイネスに別れを告げて家路につく。
……はずだったけれど、家から数歩歩いたところで異変に気付いた。
「貴方……どうしてついてきてるの」
あの黒い狼が、堂々と背後を歩いていた。
家を見ると、イネスもまだドアの前からこちらを見ている。
私はイネスのところまで戻り、黙って見つめる。
すると彼女は俯いて、小声でつぶやきはじめる。
「ずっと考えていた。お前は毎日来られるわけじゃないし、わたしは森を出られないし、だから……」
「この子を、貴方だと思って可愛がればいいのね」
イネスは、下を向いたまま頷く。帽子のつばで表情は見えないけれど、真っ赤になっていることは想像がついた。
この子のこういうところに、私は弱い。
「そうしたいところだけれど……」
「ダメ、か?」
「見た目が嫌。私たちが出会ったときのこと、忘れた?」
「……あ」
イネスの表情が固まる。
出会ったとき、私は狼に襲われて死にかけていたのだ。使い魔だとわかっているとはいえ、そばに狼がいて落ち着くはずがない。
たぶんイネスに悪気はなくて、ただなんとなく……私と併せて印象に残っていた狼の姿にしただけなのだろう。
「ごめっ……すまん、忘れていたわけじゃなくて、本当に──」
「わかってるわ。気にしないで」
「……じゃあ……姿を変えればいいか?」
「ええ。そうしましょう」
イネスは狼に手をかざし──また私に向き直った。
「どんなのにすればいい?」
「えっ、そう言われても……かわいい感じ?」
「それこそわからん。お前が作ってくれ」
そう言うと、イネスは私の手を取って狼の頭に押し付ける。
二人分の掌を乗せられた狼は小さくくしゃみをして、それでも大人しくしている。
「作り方なんてわからないわ。魔術の勉強はまだ始めたばかりだし」
「姿を思い浮かべてくれればいい。わたしがそれを、こう……いい感じに編んで流し込む」
「いい感じに……」
ひどく感覚的な言い方だけれど、ちゃんと説明されてもわからないだろうから深掘りはしない。
目を瞑って、とりあえず考え始めてみる。
狼は嫌だけれど、まったく別の生き物に変えてしまうのもしのびない。仔犬とかなら、今の面影を残しつつ怖くなくなるだろうか。
ふわふわで目が丸い、黒い仔犬の姿を思い描いてみる。
イメージが固まると、胸の奥に覚えのある感覚が迫ってきた。これは──魂に触れられる感覚だ。
イネスの方を見ると、彼女もこちらの顔を窺っていた。さっきと同じように、顔が固まっている。
「……いいよ」
言葉少なに許すと、おずおずとイネスの触手が魂に這い寄る。この前とは打って変わって、くすぐるような意地悪さはなく、探るような気遣いが感じられた。
……やっぱり、あのときはわざとやってたのね、この子。意味がわかっていないのは本当だろうけれど。
潮が引くように、足早に触手が去る。
今回の触れ方でも微かに暑さを感じていた私は、静かに息を吐き出した。
「できた」
簡潔な報告を受けて目を開くと、狼の頭に置いていた手はいつの間にか宙を撫でていて、その下には黒い仔犬がいた。
いや、狼かも?仔犬ではあまり区別がつかない。
ただ……可愛い。この子が近くにいても怖くない。そう思えるだけで十分だった。
「名前は?」
「そうね……貴方は何か案、ある?」
「あるが、とても長くて普段使うようなものじゃない。お前が決めてくれ」
変な口ぶりだ。名前に関しても、なにか魔術師特有の風習があるのかもしれない。
名前……今まで何かに名前をつけたことがない。家では動物を飼ったことがなかった。
よく聞く話では、毛色をもとにした名前が多いとか。この子の毛色も珍しい。
「……クル」
「それが名前か?」
「昔の……すごく昔の言葉で、"黒"って意味らしいの」
それくらいしか思いつかなかった。黒いから、黒。言語を変えることで、それをすこしひねっただけだ。
けれどイネスはしきりに頷いている。
「わたしは気に入った」
「そう……?」
「その言葉をわたしは知らない。お前に聞かなければ知らなかったことだ。だから、いい」
共感できるような、できないような……けれど、とにかく熱のこもった言葉だった。
私の方も、いつかきっとこの名に愛着を持てるようになるだろう。名前とは、そういうものだと思う。
「クル」
しゃがみ込んで、つけたばかりの名を呼んだ。遊びたい盛りの仔犬に姿を変えてなお、律儀にお座りをしている。
よく見ると、前脚に鋏が突き刺さった痕が残っていた。どういう理屈で生まれてきた存在なのかはわからないけれど……私の中に、あのときの印象が刻み込まれていたからだろうか。
私はそれを、できる限り優しく撫でる。
「私を、許してくれる?」
傷痕を撫でる私の手を、仔犬は小さな舌で舐めた。




