第8話 ずっとひとりで 中編
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遠くの木陰から、丸みを帯びた角が顔を出した。
「鹿だ」
かがみ込んだイネスが、私の肩に手を置いて囁く。
昼下がりの森には、昨夜の雨で湿った土の匂いが立ち込めていた。
好きな匂いだけれど、今はその匂いを吸い込まないように息をひそめる。
「追いかける?」
「いや。動くな」
「ここからでも届くの?」
「ああ」
肌がざわつく。イネスが魔術を編んでいるときの感覚だ。
近くで何度も見ているうちに、それを肌で感じられるようになってきていた。
以前見た、杯を吹き飛ばした魔術ではない。
色のない衝撃だけが放たれたあちらとは違って、目に見える光──青い光がイネスの人差し指に留まっていた。
腕を振ってそれを打ち払うと、彗星のように尾を引いて光が放たれる。
光の矢は真っ直ぐに飛び、鹿が気づいて振り向いた瞬間──その首を貫いた。
甲高い悲鳴を上げた鹿は前脚を揃えて駆け出し、そのわずか数歩の後によろめき倒れた。
イネスは静かに立ち上がり、倒れた鹿に歩み寄る。私もその後に続く。
鹿は、まだ水音混じりの咳に似た荒い息を繰り返している。首には赤黒い穴が空いていて、あの魔術は文字通りの矢だったのだと気づく。
彼女は鹿の目を覆い、いつの間にか抜いていた短剣を胸の真上あたりに差し入れる。
鹿はひときわ大きく震え……やがて動かなくなった。
私は、大きく息をついた。
狩りを邪魔せずに終えられた安堵と、動物の死を初めて間近で目にした衝撃から出たものだった。
「疲れたか?だからついてこなくていいと言ったのに」
「でも……見ておきたかったから」
今日の昼食で備蓄していた肉が切れたそうで、狩りに出るイネスに頼んで同行したのだった。
彼女がこの森でどう生きているのか、私がそこに関わる余地があるのか。それを知っておきたかった。
ただ……今までひとりでやっていたのだから当然だけれど、私が出る幕などなかった。
近場の川で鹿の身体を洗って内臓を抜き、家に帰ってきた。
こんな重さのものを女性ひとりでどうやって運ぶのかと思ったら──魔術で鹿の身体を宙に浮かせていた。
家の裏手に石畳の作業場があって、私たちは……というかイネスは、そこで鹿を解体する。
「これも、先生に教わったの?」
吊るされた鹿に短剣の刃を入れてゆくイネスに尋ねる。
喋りながらでも問題ないほど慣れた手つきに見えた。
「直接教わってはいない。生きるために必要なことは、すべてこの本に書きのこしてくれた」
イネスは肩に提げた本を下ろし、近くのテーブルに置いた。彼女が鹿に目を遣ったまま指を振ると、表紙がひとりでに開き、ページがはためく。
狙いすましたようにぴたりと止まったページを覗くと、点線で区切られた鹿の図が描かれている。
ここを切れ、という大まかな指示だろうか。次のページは、より生々しい解剖図だった。
「本を読んで、自分で……?」
「先生には、わたしに全てを教える時間がなかった。亡くなったのはわたしが8つの頃だったから」
8歳の頃といえば、私なら"花嫁修業"を始めたばかりのころだ。教師から必要なことを手取り足取り教えられ、生活に不自由することなどなかった。
私が安全な屋敷の中で見当違いの努力を重ねていたときから、彼女は自分の力で生きていたのだ。
ずっとひとりで。
私が勝手に沈んでいるうちに、イネスは解体を終えていた。
生の面影を残していた鹿は、見慣れた──比較的見慣れた"肉"の姿になっていた。
イネスはそれを藁に包み、指でつついて浮かせてゆく。
「また運ぶの?」
「ここに置いておくとすぐ腐ってしまう。保存するのは地下だ」
作業場の端に、石畳を四角く切り抜いたような穴があった。イネスについてゆくと、暗闇の中に階段があることに気づく。
一段一段と降りるたびに、確かに気温が下がってゆくのを感じた。
下りた先の扉を開けると、冷気が吹き込んでくる。
そこは整備された地下室ではなく、洞窟になっていた。
階段は暗かったのに、洞窟の中は明るい。この冷気を象徴するような青い光に満たされていた。
その光源は、乱れ咲くように屹立している結晶たち。透き通るその表面から光を放っている。
これは──魔石だ。
この結晶の存在自体は、古くからウェルディエで知られていた。
時折銀鉱に生えているけれど、砕くとその青さは失われてしまうから宝飾品にも使えない。だから使い道のない鉱物だと思われていた。
それが魔素を溜め込む、利用価値のあるものだと判明したのは、ごく最近──父の代になってからのことだった。
ということは、この洞窟も元は銀鉱だったのか。
人の寄り付かないイネスの家に繋がる道が、どうして整備されているのか不思議だったけれど、これでわかった。
あの道は銀鉱に繋がるもので、イネスの家はそれが廃坑になった後に建てられたのだ。
「ねえ、イネス。この結晶……」
「魔石だ。魔素を溜め込む石」
知っていたらしい。
もしかしたら、"先生"がここに家を建てた理由がそれなのかもしれない。魔術に利用しているとか……
「貴方はここの魔石を使っているの?」
「いや。先生から手を触れないように言われている。奥にもっとたくさんあるらしいが、そこには入るなとも」
イネスが指差した先には、もうひとつ扉があった。
たぶん、あの先が廃坑なのだろう。
何か、嫌な予感がした。
ここに魔石があること──それがとても不都合なような。
その危機感の正体を確かめたかったけれど、肉の整理を終えたイネスが洞窟を出ていくのを見て、私は思考を打ち切った。




