40
そんな疑いを持つのは、聖紋の本来の色についてルシエル様に教わった時以来だった。何が本当で、何が嘘なのか。ここへ来て、私は今まで知らなかったことをたくさん知った。知ったからこそ、同時に疑念も抱いてしまう。大主教たちの言葉の全てが真実であったのか、それとも悪意のない嘘だったのか、はたまた欺く為のものだったのか。
でもそんなこと、今の私には分からないし、今後も分からないままだろう。そもそも私には、それを知る術がない。あの地へ戻ることはもうないだろうし、だから、大主教や枢機卿たちや、エリオット殿下や陛下にも、二度と顔を合わせることはないだろうから。
しかし、それにしても――。いつの間にか、窓の外からルシエル様へと視線を戻していたベル様の横顔をじっと見つめ、私はざわめく胸をどうにか落ち着かせようと努める。聖力の一部を預けた“聖女”と、ルシエル様の為に“死ぬ”ということに、いったいどういう関係があるのだろう。そう疑問に思いながら。――いや、疑問に思うふりをしながら。
だからこそ、と言うべきだろうか。考えれば考えるほど、葉擦れの音のようなざわざわとした嫌な感覚が、胸の内に少しずつ広がってゆく。必死に落ち着かせようと努めた甲斐もなく、それは胸から肺へ、肺から首へ、首から肩を通って腕へ、身体全体へと伝播してゆく。ぞっとするような、骨の髄まで凍てつく冷たさを伴って。
考えれば考えるほど分からない、というより、考えれば考えるほど分かりたくない、と言った方が正しいのかもしれない。聖女とは、いざという時の為にルシエル様の聖力の一部を預けられた“器”だ。故に、その時がくれば、その力を彼へ返さなければならない。
ではいったいどうやって、ルシエル様の身体へ聖力を戻すのか――。頭の中に浮かんだその問いに、ベル様の声がすっと重なる。たった今耳にしている最中のような鮮明さで。
――じゃあ君は、ルシエルの為に死ねる?
あの言葉は、本当に“そのままの意味”だったのだ。ルシエル様の為に死ぬことが出来るかどうか、という。それ以上でもそれ以下でもない。言葉通りの、まるで他意のない率直な言葉。
「その様子だと、もう分かったみたいだね」
じわじわと目を見開かせながら愕然とする私を一瞥し、ベル様はくつりと喉を鳴らして笑った。それは即ち、肯定だった。私の考えていることが正解だ、と、言外に伝える笑み。
そう理解した瞬間、背筋を震えが走った。まるで鈍器で殴られたみたいに、頭が鈍く脈打つように痛み、視界がぐわりと歪む。理解が、恐怖に変わる瞬間だった。それは私を、足元から崩折れさせようとする。
ふらりと身体が揺らめき、思わず倒れ込みそうになるけれど、それでも必死に両足を踏ん張らせ、どうにか持ち堪えることが出来たのは、傍らにルシエル様がいるからだった。こんな状況でも、こんな状況だからこそ、彼の前で情けない姿を晒したくはない。
「ルシエルに聖力を渡すには、神に“溶ける”必要があるんだよ」
私へ目を向けることなく、ベル様はいつもの飄々とした口調で続ける。ベッドの上で眠るルシエル様を、声とは裏腹に、複雑な面持ちでじっと見下ろしたまま。
「例えば聖女に宿る聖力を、“氷の器に入った水”としよう。……ああ、器といっても、皿とかじゃなくて、箱みたいなもんを想像してね。じゃあそれを、ルシエル――巨大な湖へ返すには、どうするべきだと思う?」
箱のように四方を閉ざされた“氷の器”の中にある水を、巨大な湖へ返すには、どうするべきか――。頭の中でそれらを想像し、私はゆっくりと目を瞬かす。悩んだり、考えたり、そんなことをするまでもない。だから答えを見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
普通に注ごうとしても、器は氷で出来ているのだからとても硬い上に、四方は冷たい氷の壁で覆われている。そんな状態から中身を取り出すには、氷の器そのものを壊すしかない。では、どうやってその器を壊すのか。硬いものにぶつけて割るのか、それとも湯などを浴びせて溶かすのか――。
「お前はいつまで、まどろっこしいことをしているつもりだ」
不意に、聞き覚えのない女性の声が耳に届き、私はぎょっとして、肩を跳ね上げる。いつの間にか俯けていた顔を、まるで弾かれたように勢いよく上げ、声の聞こえた方へと慌てて目を向ける。入口脇の、あの青い小鳥がとまっていた、小ぶりなゲリドン。そのすぐ傍に、美しい容貌をした女性が佇んでいた。緩くウェーブのかかったブロンズの長い髪の毛、豊かな睫毛に囲まれた涼やかな目、ルビーを思わせる澄んだ紅玉色の瞳。
天空を司る女神・アス――。宗教に関する書物の中で何度も目にしたその麗しい姿を、一度たりとも忘れたことはない。彼女もまた、ベル様と肩を並べるほどの、重要な――人間にとっても、ルシエル様にとっても――女神なのだから。
彼女はベル様を一瞥し、それから私へ視線を移すと、まるで花のようにふわりと微笑んだ。一見やさしそうな、けれどその実、胸の奥をきゅっと掴まれるような、底知れぬ恐怖を感じさせる笑み。
「答えは簡単だろう? 明けの子。中身を得るには、氷の器を溶かせば良いだけなのだから」
ゲリドンにとまっていたはずの青い小鳥は、いつの間にか姿を消していた。羽音もなく、静かに、どこかへと。
「つまり、肉体を葬ることで、聖力の宿る魂を捧げるんだ。……それがどういうことか、分かるかい?」
そう問いかけながら、アス様はふっと目を細める。やわらかく、でも、ひどく冷淡に。そんな彼女の視線に捉えられた私は、どうすることも出来なかった。瞬くことも、呼吸をすることも。手足を動かしたり、口を開いたり、耳を塞いだりすることも、何もかも。
「“聖女”というのは、本来――」
だから、彼女が淡々と発した言葉は、何にも遮られることなく、まるで冷たい刃のように、容赦なく鼓膜に突き刺さった。
「――神に捧げられる“生贄”ということだ」




