41
今でもはっきりと憶えている。まるで昨日の出来事のように。手の甲にそっと触れた指先の感触を。その冷たくもやさしいぬくもりを。眩いほどの、強烈な鮮やかさで。それらは長い年月を経た今も尚、頭の奥に、心の奥にくっきりと焼き付いている。アメシストのように美しい、深紫色の澄んだ瞳とともに。――その瞳に、子どもながら見惚れたことも、明瞭に思い出すことが出来る。胸の中に溢れた喜びや、懐旧のような不思議な感情も、何もかも。
最初は、幽霊だと思った。或いは、死神に。あまりにも静かに、空気がほどけるようにすうっと姿を現したものだから。それに、当時の私にはもう、自分の命がそう長くないことは分かってもいたから。遂に“その時”が来たのだろう、と、高熱のせいでぼんやりとした頭で考えたものだ。“その時”が来たから、幽霊か死神が迎えに来てくれたのだろう、と。
けれども、不思議と怖いとは思わなかった。悲しいとも、苦しいとも、嫌だとも。寧ろ、わくわくしていた気がする。こんな私を、あの世へ連れてゆく為にわざわざ迎えに来てくれたことが、とても嬉しかったような気も。じっと見下ろしてくる深紫色の瞳が、ひんやりとしていながらも、どこかやわらかく感じられたせいかもしれない。こんなにも美しい幽霊――或いは死神――が棲まう世界なら、きっととても素敵なところだろう、と思った。死期の近さを察してからというもの、ろくに――無駄金は出せない、という理由で――薬も飲ませず、大人どころか子どもひとりすら見舞いにも来ないこんな世界よりも、もっとずっと。たとえそこが、永遠のゲヘナであったとしても。
だから、連れて行ってほしかった。彼の棲まう、きっととても素敵であろうその場所へ。このまま導いてほしかった。短い人生ではあったけれど、思い残したことなんて何もなかったし、最後にひと目会いたいという人も誰もいなかったから。彼と一緒に、もしかしたら永遠のゲヘナかもしれないそこへ、連れて行ってほしかった。
そして何より、彼の傍にいたかった。何故だか分からないけれど、私はずっとそれを望んでいたような気がしたから。だから多分、“彼の棲まう素敵な場所”でも“永遠のゲヘナ”でもなく、去りゆこうとする彼の傍にいさせてほしかった、そこにいることを許してほしかった、故に連れていってほしかった、と言った方が正しいのだろうと思う。
けれども彼は、そう望む私に向かって、
――生きろ。
と、ただ一言、そう言うだけだった。感情のまるでないような、澄んだ深紫色の瞳で私を見つめながら。高熱に魘され、頭はどろどろに溶けてしまったみたいに、輪郭がないほど朧げだったけれど。それでもあの時どうして、その一言を“突き放し”と察せられたのかは、今でもよく分からない。置いてゆかれる、と思った。迎えに来てくれたはずなのに。折角傍にいられると思ったのに。でも、このままだと彼に置いてゆかれてしまう、と。
お願いだから私も連れて行って、と、言いたかった。私をひとりにしないで、と。こんなところに置いてゆかないで、とも。貴方の傍にいたいから。たとえ向かう先が地獄であったとしても。それでも貴方の傍にいたいから、私も連れて行って、と。
――また会える?
それなのに、どうしてあんなことを訊いてしまったのだろう。まるで鉛でも詰め込まれているみたいに重たい腕を持ち上げ、彼の方へゆっくりと伸ばしながら。「置いてゆかないで」でもなく、「連れて行って」でもなく、「ひとりにしないで」でもなく。どうして、「また会える?」と、そんなことしか言えなかったのだろう。
「まあ、そういう反応になるよねえ、普通は」
あの時、ルシエル様は――。小さく息をこぼし、肩を竦めて立ち上がるベル様の横顔を見つめながら、けれどその実、遠い昔の懐かしい記憶をぼんやりと眺めながら思う。あの時ルシエル様は、とても驚いた顔をしていた。長く濃い睫毛に囲まれた切れ長の目を見開かせて。ほんの一瞬のことで、それはすぐに仄暗い陰の裏に隠れてしまったけれど。
「一日だけ、時間をあげるよ、すぐに受け入れることは出来ないだろうから」
そう言って私を見下ろしたベル様の、憂いを含んだ赤褐色の瞳。深く、やさしげで、それでいてどこか哀しみを滲ませたその眼差しを、私は半ば呆然と、ただ受け止めることしか出来なかった。衝撃のあまり言葉を見つけられず、何を言えば良いのか分からないから、というより――今この胸の内に湧き上がるたくさんの想いを、考えを、どう言葉にすればちゃんと伝わるのか分からなかったから。次々に浮かんでは揺蕩う感情たちを、ひとつ残らず掬い上げ、それらを正しく言葉に出来るほど、私の思考はまだ現実に追いついてはいなくて。
そんな私の様子を、どうやらベル様は、“死の事実に動揺しているのだ”と、そう受け取ったらしい。ほんの少しだけ口元を和らげ、まるで慰めるようなやさしい微笑みを見せたかと思うと、ふわりと衣の裾を揺らしながら、静かに背を向けた。これ以上の言葉は不要だ、とでも言うように。
「わざわざ時間をやる必要などないだろう? 受け入れようが受け入れまいが、結末は同じなのだから」
冷ややかな声でそう言いながら、アス様は眉を顰め、呆れたように肩を竦める。無駄な情は非効率的だ、と、そう切り捨てるかのような口調には、一片の感情も宿ってはいない。落ち着いているというより、冷淡というのだろうか。
そんな彼女に、ベル様は苦笑とも自嘲ともつかない小さな笑い声を、喉の奥からくつりと漏らした。
「そうだけどさ。でも、少しくらい良いだろ? ……ルシエルの為に」
穏やかな声音だったけれど、そこには空虚な響きが混じっているような気がした。敢えて言葉にすることで、自分自身に言い聞かせているような。自分自身を誤魔化しているような。
受け入れる為の時間、という、あたかも“私の為に”と与えられたそれは、でも結局のところただの建前なのだろう。私は所詮、“神の力を保管した器”に過ぎない。彼らにとって最も大事なのは、ルシエル様だ。ルシエル様以外にいない。
でもそれは、ベル様やアス様だけでなく――私もまた同じことだった。
「……あ、あのっ!」
思わず声が漏れた。考えるよりも先に。勝手に唇が開いて。
足を踏み出そうとしたベル様の左手を、咄嗟に伸ばした右手で握り締めていた。ぎゅっと、きつく。引き留めるというよりも、縋り付くように。
その瞬間、息を呑む気配がした。私の周りに流れる時間だけが、ほんの一瞬とまったような気も。
少しの沈黙を挟んで、ゆっくりと振り向いたベル様の双眸は、瞳そのものが零れ落ちてしまいそうなほどに、大きく見開かれていた。驚愕と、戸惑いが綯い交ぜになったような、信じがたいものを見るような目。
ぎょっとした表情を浮かべる彼のかんばせを、私は右手に力をこめたまま静かに見上げる。今出来うる限りの、強い意志をこめて。真っ直ぐに、じっと。
「私の命で、ルシエル様を助けることが出来るのなら……受け入れる時間なんて、必要ありません」
不思議と、怖くはなかった。ルシエル様と出会った、あの夜のように。死が目の前に迫っていながら、怖くも、哀しくもない。ただ胸の中を満たすのは、懐かしいぬくもりだった。やさしく、とろりと蕩けてしまいそうな、懐かしいぬくもり。
今でもはっきりと憶えている。今でも、はっきりと――。
手の甲にそっと触れた指先の感触を。その冷たくもやさしいぬくもりを。生きろ、と囁かれた、その一言を。眩いほどの、強烈な鮮やかさで。思わず見惚れてしまった、あの美しい深紫色の瞳とともに。
私の中で、それは何よりも確かな、“光”だった。
「――ルシエル様の為なら、この命を惜しむ理由など、ひとつもありませんから」




