第十三話 自由への意思
「ヴェンデン伯号の正当を主張するヨアヒム・ヴィ・ヴェンデンの血統を代表するシエル・フローラ・ヴィ・ヴェンデンに対して、私、リエナ・アントーニア・シュトラント・エニグマ・エル・トワネット・マグナブルク・ヴィ・ヴェストリアは、新ヴェンデン伯の正当性を認めさせるために、双方が主張するヴェンデン伯号の資格を賭けて決闘を申し込む!!」
本館の屋根の中ほど辺りに立つリエナ・アントーニアは高らかに宣していた。透き通るような少女の声はその場に居合わせた全員を驚愕させるのに十分だった。
召喚された木人形たちに屋根の上で組み敷かれているシエル・フローラも自分の耳を疑った一人だった。
確かに自分は”力”を求めている。しかし、それはあくまで家族と一緒に平穏無事に生活をするためであって、リエナ打倒を視野に入れての事ではない
。しかし、事態は深刻だった。
爵位を持つ貴族にとって先祖伝来の家宝と領地所有権の裏づけとなる家系図、そしてこれに加えて武具などに入れる紋章は三種の神器に等しく、そのうちのどれが欠けても爵位と領地の相続の正当性に傷が付く。
ヴェンデンの宝刀がシエルの右手に握られている以上、リエナのヴェンデン伯号の相続を妨害して自分がその正統を世間に訴えるために旧勢力を糾合しようとしている、そうみなされても仕方がない。
今さら、リエナに家宝を献じて恭順を誓うために一時的に拝借したのだ、と言ったところで誰も信じてはくれないだろう。
もっともリエナ自身がそれを信じないだろうとシエルは思っていた。
「きっと怒っているに違いありません……だから……ぐすっ……」
だから、あの猛女は決闘で全てを白黒付けようなどと突飛なことを言い出しているのだろう。取り押さえられている今のシエルは涙をぬぐう事すらできないでいた。
しかし、この時、ある意味でシエル以上に驚愕していたのはグラハムだったかもしれない。決闘の二文字をリエナから聞いた彼はポカンと口を開けていた。
な、なにがどうなってるんだ……
馬で城の中を駆け回るような非常識人ですら戸惑うのだ。まして一般人には度し難い狂気の沙汰と言う他ない。決闘で全てが解決出来ると言い放つ意味がまったく分からなかったのだ。
好対象にグラハムの隣にいるネルの様子は普段となんら変わらなかった。恐らく興味が無いのだろう。
「おい、馬キチ」
返事がない。ネルは杖でグラハムの向う脛を殴りつけた。
「いってええええ!!おい!!おまえ何するんだ!!」
右の脛をさすりながらグラハムはネルを睨む。
「聞きたい事がある」
「普通にものが聞けんのか!!貴様!!なんだよ!!」
「いや、ただでさえ間抜け面なのに更に惚けたような顔をするからだ。正直言ってキモ過ぎる。そんなに驚く様な事があったか?」
「当たり前だ!!聞いてなかったのか?」
「いや、決闘を申し込むまで聞いたが?」
「全部聞いているじゃないか……」
グラハムは大袈裟にため息をつくとネルから視線をリエナの方に向けた。リエナはさらにスカートの裾を短く切って、それを二つに裂いて長いリボンを作っている所だった。風に洗われている長い髪を結うつもりらしい。
「そんなにリエナとあのヴェンデンの娘との決闘が驚くに値することか?私はあのスィーツ女にしては珍しく常識的かつ現実的な選択をしたと思ったが、お前たちはそうは思わないのか?」
ネルの言葉を聞いたグラハムは急に真顔に戻る。
「と、いうことはリエナの意見にお前の意見が一致したという事だな?」
「そうだ(ドヤア)」
ネルの言葉にグラハムは確信したように力強く頷く。
「そうか、だったらリエナが間違っているという何よりの証明だな」
ゴツッという鈍い音が響く。返事代わりにネルは自分の隣の大男の脛を再び杖で殴りつけていた。
「ぎゃあああ!!」
「とにかく、ここはリエナとヴェンデンの娘の舞台を整えるとしようじゃないか」
「な、なんだって?整えるって……どうするつもりだ?」
両膝を抱えるようにしてしゃがんでいるグラハムの視線の先には、長い金髪をアップにしたリエナと50mほど離れた屋根の上に鎮座している飛竜の姿があった。飛竜はリエナの方にぎょろっとした大きな目を向けている。
「あんなのがいるんだぞ?どうするつもりだ?ネル……」
「竜のことを言っているならそれはもう問題ではない。あいつとはすでに話が付いているからな」
「は?」
飛竜の対処がもっとも厄介だと思っていたグラハムは、ネルの言葉を意外そうな顔つきで聞いていた。
「竜種はお前たちが考える以上に聡い生き物だ。私が放った一撃でどちらに与するのが一番賢い選択なのかをすでに理解している。あの三等導師よりもよっぽどか利巧だ」
「そ、そうなのか?それは信じていいのか?大丈夫なのか?」
今までが今までだけにグラハムは露骨に疑いの視線をネルに向ける。
「大丈夫だ。あの竜はフレイア王国軍に年間150ディカット(3000万円)で雇われていたらしい。これに色を付けてこちらで雇い直してやると言ってやったらホイホイ乗ってきた」
「ひ、150ディカット!?え、えっと……すると1500ターナーってことか!!騎兵1個連隊が2年……いや3年は養えるぞ……竜は高いとは聞いていたが……まさかこれほどとは……」
途方もない金額にグラハムは驚くというよりも半ば呆れたような声を上げる。
この時代において騎兵1個連隊は部隊の立ち上げに1500ターナー(3000万円相当)の費用がかかり、年間維持費は副え馬や馬丁、そして飼葉などの兵站の一切を含めて500ターナー(1000万円相当)前後がかかると言われていたからだ。
財源の裏づけがなければ騎兵の編成ですら躊躇するような世の中だ。幾ら航空戦力や空輸能力が期待できる飛竜が存在していても、それらが軍事や物流の方面で主流にならないのはすべて経済合理性によるものだった。
こいつ……財布が自分じゃないからってこんな財政が傾きかねないことを勝手に決めて大丈夫なのか……
自身も300ターナーの借金を抱えて二進も三進もいかない状態に陥っている旗本の三男坊は、その金額の重みが骨身にしみている。小領主なら一発で国ごと吹き飛びかねないような金額の取引を独断でするネルの小さな背中を不安そうに見る。
「これで分かっただろう?あの竜はもうこちらの味方だ。自分に餌代を提供してくれるご主人様に手を出す筈がないってことだ。それに加えて私に丸焼きにされる危険からも逃れられるわけだから、これほどの好条件は向こうにとってもない。だが、問題は悪竜の手先になっている魔導師の方だ」
ネルは、先端に小さなマデライトが埋め込まれた木製の杖を握りしめたまま、その場に凝固している顔色のすこぶる悪い男の方に鋭い視線を送る。
「あの魔法使いか……かなり厄介なヤツなのか?」
「ある意味で、な。リエナのやつに’生け捕れ‘と言われた。いろいろ聞き出したいことがあるのだろうが、はい、そうですか、などとこちらの思い通りになるような人種ではなかろう。火達磨にする方が百倍楽に決まっている」
「相変わらず物騒なヤツだな……お前は……」
「魔導師とはそういうものだ……」
その効果のほどはともかくとして、脅威が一つ減ったことで少し緊張が解けたグラハムは、精神的に幾分か和らいでいたが、それでも予断を許さない状況が続いていることに変わりはなかった。
太陽は遠く離れた西の空に僅かばかりの光を残すのみだ。間もなくここにも漆黒の闇が襲ってくる。城内に篝火が次々に灯されていく。
ギョームも反対側の尖閣の屋根の上にある人影に鋭い視線を送っていた。眼下の明かりに照らし出されている長身の男の隣に、ひときわ体の小さい少女の姿を認めると彼は額に脂汗を滲ませる。
「な、なぜ……なぜこんな……こんなところにおまえがいるの!」
裏切り者の、あばずれレアの弟子……
グラハムは隣で不敵な笑みを浮かべるネルにぎょっとする。
「知り合いなのか?ネル」
「まさか、私が知るわけがなかろう。あんな雑魚」
ネルは吐き捨てるように呟いた。
「だか、三等導師なら列強の宮廷魔法使いにも招聘される程度だと聞いたことがある。お前やリエナが言う通り本当に三等なら雑魚はちょっと吹かしではないか?」
遠慮がちにではあるが、長身の大男はマグナブルク大公国に仕えている主席宮廷魔法使いの方を見た。
「お前たちの一般基準にはまったく興味も関心もないが雑魚は雑魚、それ以上でもそれ以下でもない。そんなことより馬野郎」
「グラハムだ」
「転移術の経験はあるか?」
グラハムはえ?という顔をする。
「転移術?転移魔法のことか?いや、聞いた事はあるがさすがにどういうものかまでは知らん。それがどうかしたのか?」
ネルの質問の真意を測りかねてグラハムは怪訝そうな表情を浮かべる。
「そうか……それは気の毒にな……」
いきなりソフトボールくらいの大きさがあるマデライトの結晶が青白く輝き、たちまち直径1m程度の魔法陣がグラハムの前に浮かび上がってくる。
嫌な予感しかしない……それも飛び切り嫌な予感だ……
「おい、ネル。だいたい、なぜそんなことを僕に聞……ぎゃああああ!!」
グラハムの言葉が終わらないうちに、ネルは彼を後ろから蹴り飛ばす。2m近い大男の体はあっという間に魔法陣の中に吸い込まれた。
「真理の深遠に住まう時空の番人サールヴェラは言った……ゲシュタムの門を潜りし時、汝、万里を見聞す……私も実に同感だ。馬愛好家新規ご一名様ご案内、そんじゃいってら~」
青白く輝く円形の魔法陣に向かって一歩を踏み出したネルは思い出したように本館の屋根の上を再び歩き出していたリエナの方を見る。
「リエナ、私の声が聞こえるか?」
大声を上げるわけでもなく、ネルは普段と変わらない抑揚の少ない声で話しかける。すでに二人の間には100m以上の距離があったが、リエナがゆっくりと振り返る。
「あ、あれ?さっき話しかけてきたのはネル、なの?」
「そうだ、私だ。私と馬男はこれからヴェンデンの娘のところに向かう。お前は後からゆっくりやってくるといい。お前が付く頃には全てのお膳立てが終わっているだろう」
ネルは、向こう側の屋根の上で進退窮まった様子のギョームを見てわずかに口元を綻ばせた。
「で、でも、何で私には貴女の声やあの怪しい魔法使いっぽい人の声が聞こえるの?二人から30トルム(90mに相当)は離れてると思うんだけど……」
「本来、魔導師の間で会話は不要なんだ。私たちは自分たちの意思をすべて念話で伝えるからな」
「ね、念話!?私、魔法使いじゃないわよ!?」
「そのうち説明する。今はお前でも分かるように説明するのが超めんどい」
「なんかそれってひどくない?」
「だから、あとで話すと言っている……」
なぜ、お前の体の中に“外山ショウ”がいて……
また、今のお前の瞳が金色に輝いているのか……
話すさ……いや、話さなければならないんだ……
これは私の責任なのだから……
深い紫色のローブととんがり帽子を被っている小柄の少女が、魔法陣の中に入っていた。まるで流砂に足を踏み入れたかのようにゆっくりとネルの体が沈んでいく。
「それからお前の目の前にいる竜な、今日からお前のペットになるから」
「は、はあ!?なによ!!それ!!」
「名前とスリーサイズをさっきそいつから聞いたんだが、あまりにどうでもよかったんでつい忘れてしまった……それじゃのちほど、バイバイキン」
ネルの姿は完全に消えていた。リエナはそんな便利な方法があるなら先に言えと言いたげな表情をしていたが、新たに自分のペットになったらしい飛竜の方をおずおずと見る。
飛竜も両の目でじろっとリエナの方を見ていた。
「ちょ、ちょっと……あなた噛みついたりしないよね?」
飛竜はふんっと鼻を鳴らす。
「最初に言うことがそれか?マグナブルクの娘よ」
「しゃ、しゃべったー!?あなたヴェストリア語が話せるの?」
また鼻が鳴る。
「竜と人とでは声帯の構造が違う。オレに人語などしゃべれる道理がなかろう。お前と同じでオレは念話で話している」
「念話って……あなた達竜も魔法が使えるの?」
リエナはゆっくりと飛竜に向かって歩いていく。その姿を見た城兵や侍女たちはパニック状態で口々に叫んでいたが、今のリエナの耳には彼らの言葉がほとんど聞き取れなかった。どうやら念話中は外界の音が聞こえにくくなるらしい。
「こいつは驚いた。オレ達のことを知らない魔導師がいたとはな」
「私、魔法使いじゃないわ」
わずかに飛竜の顔色が変わった。いや、鱗に覆われているため実際にそうなったわけではないが、リエナには明らかにすぐ近くに立っている飛竜の表情が険しくなったように見えた。
「魔導師じゃない人族が念話を操るとは面妖なこともあるものだな……お前の言うことが本当ならば300年生きてきたオレでも知らないことがあるらしい」
「へえ、あなた300歳なの?若そうに見えるけどすごい年寄りなのね」
「ははは!面白いことをいうメスだな、お前は!人族のメスは、オレを見れば顔を真っ青にして逃げ出すと相場は決まっていたが気に入った。オレの名前はゲラ・ル・ダヴェス・リューガン・ダヴェンだ」
「ゲラ・ル・ダ……えっと……ごめんなさい、よく分からなかった」
「ふるさとの言葉で“グリフォンを狩るもの”という意味だ。オレのことを仲間はダヴェン、“狩人”と呼んでいた」
「へえ、ヤガー(ヴェストリア語で狩人の意)っていうの?なんか男らしいかっこいい名前ね。じゃあ私もあなたをそう呼ぶことにする。私はリエナ・アントーニア・マグナブルク・ヴィ・ヴェストリアよ」
「そうか、ならオレはお前のことをアントワネットと呼ぼう」
「なんで私をフレイア風に呼ぶの?」
僅かにリエナの片方のまゆがつり上がる。
「お前がオレをヴェストリア風に呼ぶからだ。オレはフレイアで生まれ、飲んだ暮れだったフレイアの竜飼(鷹匠のようなもの)に育てられた。一応、その恩義は感じている」
リエナは少し不満そうな顔をしたが、ヤガーの言葉に大きく頷いた。
「フレイアで生まれたらどうやら竜や魔物もなんか鼻持ちならないフレイア人っぽくなるみたいね。じゃあそうなさい。でも私は絶対にフレイア風にあなたを呼んだりなんかしないからそのつもりで」
「はっ、いかにも頭の固いヴェストリア人らしい言い草だ。ああ、言われなくてもこっちはこっちで勝手にするさ。言っておくがこれはあくまで契約であって主従関係じゃないんだからな」
リエナは思わずヤガーを振り返る。
「は、はい?あなた今、契約って言った?」
「ああ言ったとも。悪いがオレは人族の言葉は信用しない。後で雇用契約を書面にしてもらおう。あっちでは年150ディカットをもらっていたんだ」
「150ディカット!?せ、1500帝国ターナーってこと!?」
途方もない金額にリエナは目を白黒させる。
い、幾らなんでも私個人の収入でどうにかなる額じゃない……
ペットっていうか、これはもう常備軍を抱えるのと同じレベルじゃないの……
「うーん……それはっきりいって無理ね……」
ヤガーとの間に不穏な空気が流れる。
「おい!!さっきのちっこい魔導師が言っていた話とずいぶん違うじゃないか!!ふざけるな!!」
城内のあちこちから悲鳴が上がる。いきなり首を持ち上げたヤガーはリエナのドレスの背中を咥えた。吊り上げられたリエナの体は宙に浮く。
「アントワネット!貴様、まさか払えないっていうんじゃないだろうな?」
リエナの全身はまるで蒸気のように熱い鼻息にさらされる。ヤガーの目は明らかに騙すつもりなら容赦しないと言っていた。それを見たリエナは人並みに緊張した。ヤガーが今離せば地表に叩きつけられてしまうことは明白だ。
しかし、体長3mの飛竜を恐れるような雰囲気はまったくない、いや、むしろ顔を高潮させて彼女は怒り出した。リエナ・アントーニアには一時の方便であっても、一先ず表面上は理不尽を飲み込んでおいてお茶を濁す、という器用さの持ち合わせがなかったのだ。
「ふざけているのはどっちなの!そんなの知らないよ!ネルとあなたで勝手に決めた話にどうして私が従わなくちゃならないの!それにペットにしてはあなた高すぎ!1500帝国ターナーの重みがあなたに本当にわかってるの?いったいどれだけのことができると思っているの?ペットの分際でそんな法外な金額を要求するなんて恥を知りなさい!」
ぎょろっとした目で鋭く睨みつけるヤガーを睨み返したかと思うと、リエナは竜の顎先を思いっきり裸足で蹴り上げた。まるで踵をおろし金でこすったような痛みだった。
「いったぁーい……なんて頑丈なのかしら……」
ヤガーは目を丸くする。呆気に取られている様子だった。
「ぺ、ペット!?オレをペットにしようとしていたのか!?アントワネット!!」
「そうよ!それ以外に何の使い道があなたにあるの?どんな貢献が国家に対してできるの?図体ばかり大きくて、相手を無駄に威嚇するようなことしかできないならはっきり言ってあなた要らないわ!でも、まあ、いきなりなかったことにしろというのも不義理よね。ネルは何と言っても殿下お抱えの宮廷顧問なわけだから、あなたの怒りも正当だとは思うよ。マグナブルクの宮廷顧問の言だから信じたと言われたら私も何もいえないもの……」
リエナは額に手を当てるとうーんと唸り始めた。
「算術は苦手だから今は適当な数字しか言えないけど……せいぜい払ったとして……そうねえ……ざっと300帝国ターナーってとこでどうかしら?」
「さ、300帝国ターナー!!」
まったく逆の意味で法外な数字にヤガーは目を丸くする。彼の頭は著しく混乱していた。
「それでかまわないならここに置いてあげてもいい。でも、何にも公職に就いていないのに私から金銭援助を受けている、となると網規が緩々になってしまうから、あなたに特別に肩書きをあげる。ペット兼中隊長待遇の私兵隊長ってことでどう?そうよ!これってかなりいいアイデアだと思わない?私個人の兵隊さんならヴェンツェルにも文句は言われないでしょうし、女官じゃないからリューネに関節を決められることもない」
リエナはヤガーに背中を向けたまま宙に向かって一人で手を叩いていた。
な、何なんだ……
この人族のメスは……
恐ろしさのあまり気が触れたのか……
それとも本当に……
300年生きてきた彼だったが、人族の、しかもメスの方が、目も眩むような高さの場所で竜族の自分に襟首を咥えられているにも関わらず、恐れ戦いて命乞いをするどころか、逆に説教をたれた挙句に値段交渉を仕掛けてきているのだ。
しかも下がる方向にである。
「それは本気で言っているのか?アントワネット……」
「そっ!それ以上は逆立ちしても出せないよ?これでも奮発しているんだから。家中の経営予算外の私個人の収入のすべてをあなたの餌代として提供してもいいって言っているのよ」
「お前の収入の全て、だと……何を言っているのか分からないな。人族のメスは何かと出費がかさむと聞いたことがある。その全てを俺にくれてやるというわけか?」
「確かに年間300ターナーは無意味に財務官が私にくれているわけじゃない。でも私が……私が……伯父様に会うことはもうないから……」
急に言葉が詰まる。
ヤガーはわずかに目を細めた。
「竜族は一族の絆をこの上なく大切にする。人族もオレ達と同じ価値観を持つならそれはきっとお前にとって耐え難いことだろう」
荒々しくリエナはごしごしと自分の顔をぬぐった。ヤガーからは背中しか見えない。
「ようするに!帝都に足を運ぶ機会がないなら使い道がほとんどないお金ってことよ。なら生きた使い方をすべきでしょ?幸い、こう見えて私、身の回りの品には困ってないの。丁重にお断りしているけど毎月のようにハイデルンの殿下からドレスや靴とか送られてくるのよね。靴なんてね、この間、ついに百足を越えちゃったのよ?本当に笑っちゃうでしょ?私の足は二本しかないのにね。ふふふ」
リエナがヤガーを振り返る。美しい笑顔だ、ヤガーはそう思った。しかし、どこか寂しさを感じさせるものでもあった。
「お!どうやらネルとヨハンがシエル・ヴェンデンの救出に成功したみたいね。なんか、ヨハンが吐いてるっぽいのが気になっちゃうけど……大丈夫なのかなあ……」
何かを誤魔化すかのようにリエナは手で庇を作って尖閣の方を見ている。リエナに引き続いてヤガーは視線だけを近くにある尖閣の屋根に向けた。
シエルを取り押さえていた木人形たちは全て燃え上がり、自分がここまで運んで来たギョームという名の魔導師が、5m程度の距離をとって例の小柄な魔導師と睨み合っているところだった。屋根に膝を突いているヨハン・グラハムの隣に元気なシエルの姿もあった。
「あいつ……まったく勝算のない戦いを挑むなどバカがすることだろうに。大人しく降伏すればいいものを……」
「あなたみたいに?」
小意地の悪そうな笑みを浮かべてリエナがヤガーを見る。
「オレは降伏した覚えなどない。それに大義も信念もなく勝ち目のない戦いを挑む竜を竜族は竜とは認めない。あいつを突き動かしているのは”狂気”と”恐怖”に過ぎん。一緒にされるのは心外だな」
「冗談よ。ねえ、あいつとあなたはどういう関係なの?それから……」
リエナは視線をヤガーの胸に向ける。ゴンドラを固定するための大型のバックルに3つの薔薇をあしらった紋章がレリーフされていた。
「鉄壁の盾に3つの薔薇……これって東アルヴィオンの雄、フレイア王国軍の紋章よね?」
「そうだ。オレはフレイアに生まれ、もう300年そこに住んでいる。飛べるようになってからはずっとフレイア空挺団の一翼を担ってきた。特殊な任務があると言う団長にやつを紹介されただけだ。確かあいつの名前はギョームといったはずだ。それ以上のことは知らん」
「ギョーム……さっき向こうの尖閣にいる時に聞いた名前と同じね……じゃあ、あなたはあいつを単にここへ運んできただけってことでいいわけね?」
「まあ、平たく言えばそうなる」
「もう一つ質問いいかしら?」
「なんだ?」
「あのギョームって人、フレイア王国の関係者なの?」
「それは知らんな。団長に紹介された時が初対面だったからな」
「ふーん……」
再びリエナは思案顔を作った。
ヤガーが嘘を言うとは思えない……
知能は人間並みに発達しているけど竜族も何だかんだ言って魔物の域を出ない……
私たちと違って忠誠とか倫理とかいう曖昧で無形なものに価値を見出さない生き物なんだから……
まあ、分かりやすいっていたら分かりやすいわよね……
ヨハンみたいに……
ふふふ、と手を当ててリエナは微笑んでいた。
ヤガーたち竜が言う大義の中身は”仲間を裏切らない”こと……
例え些細なことであっても仲間に不利になるような行動は取らないし、
買収も普通はできない……
つまり……
そこから導き出される答えは、ヤガーはギョームを”仲間”とは認識していないということであり、それはギョームの存在が必ずしも”悪竜”と”フレイア王家”を結びつける証拠にはならない、ということを示している。
そして、フレイア側の内情も隠すような素振りもない。
リエナはわずかに口元を綻ばせた。つまり、そういう契約なのだ。
「じゃあ、私たちがあいつを捕まえても文句はないってことね?あなたのお友達じゃないんでしょ?」
「勝手にすればいい。俺の役目はあいつをマグナブルクに運んで、その指示に従うことだけだからな。あいつはあのちっこい魔導師が放った雷を見て完全に自分を見失っている。何かを俺に命じたところでそれがまともなものとも思えん。だが、あんなものを見せ付けられてはオレも下手に動くわけにはいかない。帰るに帰れず、どうしようかと思っていたら、あのちっこい魔導師からお前がオレを雇いたいと言っている、と聞いたというわけだ。お前もこっちに来るからてっきり契約の話かと思ったんだが……くっくっく……」
「な、何がおかしいのよ?」
「いきなり、噛みついたりしないよね?と来たもんだ。挙句の果てに、自分は素寒貧になるけどたったの300ターナーでオレをペットにしてやると……くっくっく……腹が痛いぜ……」
「ねえ、その話なんだけど……」
「なんだ?」
「やっぱり、あなたを雇うのやめにする」
「まあ……そうだろうな。その方がより現実的な判断だろう。で?どうするつもりだ?あのちっこいのに命じて俺を消し炭にする魂胆か?悪いがオレもこの歳で死にたくないんでね。残念だがお前にはフレイアまで来てもら……」
全てを言い切らせないためにわざとリエナは相手に言葉を被せる。
「ねえ、ヤガー。どうせこのままフレイアに帰ったって、あなたはフレイア空軍の兵隊として戦い続けるわけでしょ?それがあなたが望んでいた生き方なの?」
「何が言いたい……」
「私、一つだけ見落としていたことがある。それはあなたとフレイアが契約関係にあったってこと。そんなあなたを私が例え私兵であっても引き抜いたらまずいわよね?そんなことをしたらマグナブルク、いいえ、たぶん、この帝国内の混乱に介入したくてしょうがないフレイア王アンリ3世に格好な口実を与えちゃうわけだしね」
目をパチクリさせているヤガーを見てにやっとリエナは笑った。
「人が悪いよね、あなたの団長さんも。1500ターナーっていう金額にすっかり舞い上がっちゃってて、私うっかりしていた。だからヤガー、今はあなたに感謝しているの。あなたが思慮深くなくて二つ返事だったら今頃、私は取り返しのつかないことをしていたんだもの」
「まあ、それ以前にあんなふざけた条件を飲むやつはいないだろうがな」
「ふふふ、そうかもね。そこで私ね、考えたの。どうすることがあなたにとっても、もちろん私にとっても一番いいんだろうってこと」
「なんだと……?」
リエナを見るヤガーの目にはもう険しさはなかったが、依然として胡散臭いものを見るような視線を向けていた。
「お前と話しているとこっちの頭がおかしくなりそうだ……お前が言うことはいつも突飛で理解の外にあるからな……」
「再提案がある。ねえ、ヤガー、あなた私の民になりなさい」
「え?」
まったく予想だにしていなかった提案内容に、ヤガーは危うく咥えていたリエナを落としそうになった。
「何を言っているのか、まるで理解できない……オレの頭がおかしいのか……いや、きっとお前の方がとんでもないことを言っているに決まっている。俺は竜族だぞ?竜を自分の民にすると言った人族など、この300年で見たことも聞いたこともない」
「それはそうよ。だって、ヤガー。あなたはこのゲヴェルナ(世界)で”自由”を手に入れた最初の竜になるんだから」
「じ、自由……自由だと!?正気なのか!?アントワネット!!」
「そっ!自由!あなたは竜族出身の自由民となるの!あなたは雇用主との契約を破棄して私の民に改めてなるってわけ。帝国領内だけじゃなくて列強の間ですら、相続できる農地を持たない農家の次男一家が行き来していても誰も咎めたりしないのよ?わざわざフレイアから”自分の意思”で移民してくる”民”を私が拒む理由がないじゃない?ふふふ!どう?面白いでしょ?」
ヤガーは完全に言葉を失っていた。
な、なんてやつだ……
「おっと!まだまだ!このお話には続きがあるの!自由民となったあなたは、今度は”たまたま”私の領地内で開拓者を目指したい、って思うの。その私の許可をもらいにここまで来ましたってことね。開拓者志望の自由民が領主を訪ねるのって全然おかしくないよね。例えそれが、竜であってもね」
リエナはいま、まさにヴェンデン伯の縁者が引き起こした騒動を超法規的措置である”決闘”で、また、この飛竜の飛来による国内外で広がるであろう波紋を”契約”で、それぞれ”方便”として利用することで解決を図っているのだ。
神算か、鬼謀か、あるいは狂気か、リエナの披瀝する内容は齢300年の竜をもすっかり吞み込んでしまっていた。