9.さようなら
シュトリさまの口が弧を描いて、背中の大きな羽根が開いた。視界が揺れる。
「わぁ!?」
そのまま空高く舞い上がっていくけれど、シュトリさまの腕がしっかりと抱きしめてくれているから落ちない。
雲を突き抜け、上へ上へと進んでいく。
シュトリさまが小さく息を吐き、石畳の上に降り立った。
「ここは……もしかして、熾天使さまの宮殿ですか?」
上位天使たちのいる宮殿には行ったことがあるけど、その建物の大きさも、装飾も全然違う。
空気すらとても神聖で、少し居心地が悪いくらいだ。
腕に私を抱えたまま、シュトリさまはゆっくりと宮殿の中へと入っていく。
「誰もいない?」
こんなに大きな建物なのに、気配がない。
硝子でできた装飾照明が反射して、その輝きに見惚れてしまう。
「とっても綺麗ですー」
「趣味はいいよね」
目の前にある胸元を掴む。
シュトリさまの声が硬くて、なんだか緊張してきた。
長く続く階段を上ると、突き当たりに重厚な扉が現れた。私やシュトリさまでも押し開けることができないと思うくらい大きい。
その扉は触れてもいないのに、鈍い音を立てながら左右に開いた。
「おや? 誰かと思えば、シュトリじゃないか」
凛とした声に顔を上げれば、複数の羽根を持つ天使が玉座にいた。顔は羽根に覆われていて見えない。
「老翁たちと随分とやり合ったと聞いていたが。――その子をどうするつもりだい?」
肩が跳ねる。……私のこと?
シュトリさまは相手を見据えたまま、喉を鳴らした。
「僕が貰い受けようと思いまして」
何の話……?
私のことを話しているようなのに、ちっとも理解できない。
「よりにもよって、その子をか?」
「ええ、ツムギでなければ意味がないので」
「……この、出来損ないめが! そんなことを許すはずがないだろう!」
ゾクッと身体に震えが走った。
おそらく熾天使である、目の前のお方が怒気をあらわにしたからだ。
出来損ないって言われた? でも、なんだか私に向けられてはいないような……。
「シュトリさま……!」
恐怖を感じていると、シュトリさまは囁いた。
「大丈夫だよ。絶対に離れないでね」
「その男から今すぐに離れろ!」
反対の言葉を向けられて、交互に見比べた。
……熾天使さまであろうと、シュトリさまが言うことが間違っていたことなんてない。
いつも私に寄り添ってくれたのは、シュトリさまだ。
「離れません」
喉の奥から絞り出した声は小さい。
けれど、ちゃんと届いたらしい。
シュトリさまは私にだけ聞こえるように名前を呼んで、そして愉しそうに言った。
「そろそろ行きますね。……さようなら」
羽根が広がり、これまでにないほどのスピードでシュトリさまは跳んで行く。
「神への冒涜だ!」
聞こえてきた言葉に、私は怖くなった。
神への冒涜……それは堕ちてしまうと聞いたのに……。
シュトリさまの風圧で装飾照明が落ちて粉々になった。
止まることなく宮殿の外へと出ると、フッと身体が落ちていく。下へ下へと落ちていく。
「シュトリさま、一体どうしたのですか!」
「ツムギ」
掴んでいる指が、私の身体に食い込んだ。
痛みに上げた声は、シュトリさまの口の中へと消えた。
白銀のまつ毛がすぐそこにある。
「――これで、君は僕のものだ」
「え?」
「やっと……」
その言葉の先は聞こえなかった。
真っ黒な何かに全身が包まれて、何も見えないまま堕ちて行った。




