第8話「丘の上の廃墟」
昨夜はほとんど眠れなかった。ドルトンの警告と、ガレスという男の存在が頭から離れなかったからだ。
俺たちは街の北に位置する森を抜け、丘を目指した。セレナには、念のため事情を伝えもし夕方までに戻らなければギルドマスターに報告するよう頼んでおいた。
「本当に、大丈夫なの?」
出発前、セレナは何度も心配そうに聞いてきた。
「わからない。でも、行かないという選択肢はもうない」
丘への道は、思っていたよりも険しかった。生い茂った雑草をかき分け、崩れかけた石段を登っていく。額に滲む汗を拭いながら、俺は昨日のドルトンの言葉を思い返していた。頂上に差し掛かった頃、木々の間から古い屋敷の輪郭が見えてきた。
「あれか」
かつては壮麗だったであろう屋敷は、今や蔦に覆われ、窓は割れ、屋根の一部が崩れ落ちていた。長年放置された廃墟特有の重く沈んだ空気が漂っている。鳥の声すらこの場所だけは避けているようだった。
「入り口、封鎖されてるはずじゃ」
近づくと正面の門には、確かに鎖が巻かれていた。だが、その鎖は比較的新しいもので切断されていた。
「誰かが既に入ってる」
「詰み目、使う?」
「ああ。ここで温存する意味はない」
俺は、屋敷全体に向けて詰み目を発動した。
「――『詰み目』」
【対象:ヴァレンフォード家旧邸】
【内部に人の気配あり:地下に一名】
【罠の存在を検出:玄関ホールの床に踏み抜き式の落とし穴】
【推奨経路:右手の廊下から使用人用の階段を経由】
「地下に誰かいる、、」
「罠もあるみたいね」
「教えられた経路で行けば、避けられる」
俺たちは、慎重に屋敷の中へと足を踏み入れた。埃をかぶった家具、崩れかけた壁、割れた食器の破片。かつての生活の痕跡が、そのまま時を止めていた。壁に掛けられたままの肖像画が朽ちかけた額縁の中で、こちらを見つめているようだった。
詰み目が示した通り右手の廊下から使用人用の階段を下りていく。石造りの階段は、湿った空気と共に地下へと続いていた。一段ごとに足元から冷気が這い上がってくるようだった。
地下室に近づくにつれ、何かを唱えるような低い声が聞こえてきた。
「……あれは」
扉の隙間から覗くとそこには、黒いローブを纏った初老の男が、床に描かれた複雑な魔法陣の前に立っていた。陣の中心には小さな水晶球のようなものが置かれている。壁際には、見覚えのある羊皮紙の束が無造作に積まれていた。おそらくあの偽装依頼書の原本だろう。
「ガレス・ヴァレンフォードだな」
俺は、扉を開け放って声をかけた。
男がゆっくりと振り返った。
落ち窪んだ目、青白い肌。まさに亡霊のような佇まいだった。年齢はドルトンの言った通り、五十を超えているように見えた。
「……侵入者か。教会の手先にしては、随分と早く辿り着いたものだ」
「教会?」
「とぼけるな。……いや、その顔は、本当に知らないようだな」
会話が噛み合っていない。だがそれを問い質す前に、男の視線が、俺の背後――俺自身に注がれていることに気づいた。
「その目……お前、"詰み目"の持ち主か」
心臓が跳ねた。この男が、俺のスキルのことを知っている。
「なぜ、それを…」
「ヴァレンフォード家は、代々"視る者"に関する記録を蓄えてきた。詰み目もまた、その一つだ。数百年前、我が祖先が同じ力を持つ者と対峙した記録が書庫に残されている」
「数百年前……?」
聞き覚えのない話に俺は思わず眉をひそめた。この男は明らかに何か俺の知らない事情を知っている。
「三十年前、我が家は不正の罪で取り潰された。だがあれは仕組まれたものだった。当時のギルド上層部と王家の一部が結託し、我が家の力を恐れて排除したのだ」
ガレスの声には、長年積もらせてきた怨念が滲んでいた。
「私は、失われた家名を取り戻すため、"魂の器"の研究を再開した。若い魂を器として使えば、失われた力を再現できるはずだった。だが、質の良い魂はそうそう見つかるものではない」
「だから新人冒険者を狙ったのか…」
「その通りだ。だが、お前ほどの上物には、なかなか出会えなかった」
「まあいい。どちらにせよ、お前がここに来たのは好都合だ」
ガレスが水晶球に触れると、魔法陣が禍々しい光を放ち始めた。
「"魂の器"の完成にはもう一つだけ、質の良い魂が必要だった。強い力を宿す者の魂ならばこの上ない供物になるだろう」
「アレン、危ない!」
ルナリアの叫びと同時に、魔法陣から黒い触手のようなものが伸びてきた。
咄嗟に飛び退いたが、触手の先端が俺の腕をかすめた。焼けるような痛みが走る。前世で味わったどんな痛みとも違う、異質な感覚だった。
「くっ……!」
「今日の詰み目は、もう使えないの?」
「一日一回だ。さっき屋敷全体に使っちまった…」
「じゃあ、私が時間を稼ぐ。あなたは隙を見て動いて」
ルナリアが、短剣を構えて前に出た。
「一人で無茶するな!」
「無茶なのは、お互い様でしょう」
そう言い返しながらもルナリアの目には、確かな覚悟が宿っていた。あの村での取り立て人相手とは、比較にならない強敵だと彼女自身もわかっているはずだった。
「面白い。人間如きが、この私に逆らうか」
ガレスが嗤いながらさらに魔法陣の力を高めていく。地下室全体が、禍々しい光に包まれ始めた。壁に描かれた古い装飾までもが、その光に照らされて不気味に浮かび上がっていた。
「アレン、詰み目がなくても頭は使えるんでしょう?」
ルナリアの言葉に俺は唇を噛んだ。前回、ギルベルトに言われたことを彼女は覚えていたのだ。
「ああ。……見てろ」
詰み目に頼れない今、俺にできることは限られている。だが何もできないわけじゃない。魔法陣の構造、ガレスの動き、水晶球の位置――目の前の情報だけを頼りに俺は必死に突破口を探し始めた。
前世で原因不明のシステム障害と何度も向き合ってきた経験が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。焦らず、一つずつ、目に見える事実だけを積み上げていく。魔法陣の光は、水晶球を中心にして、規則的な間隔で明滅を繰り返している。何かの周期がある、そう直感した。




