第7話「図書館の老人」
「ヴァレンフォード家……」
事典に記された家名を、ルナリアが小さく読み上げた。ページの端は黄ばみ、長い年月を経てきたことを物語っていた。
「聞いたことあるか」
「ないわ。廃絶されたのが数十年前なら、私たちが知らなくても無理はない」
前世の記憶にも、当然そんな家名の情報はなかった。俺たちはどちらも、この世界の歴史については、赤子同然だった。
「セレナは?」
翌朝、俺たちは改めてセレナに紋章のことを尋ねた。彼女は事典のページをじっと見つめ、やがて首を振った。
「ごめんなさい、私も知らない。……でも、こういう古い家系のことなら街の図書館に詳しい人がいるかも」
「図書館?」
「うん。もう何十年もあそこに勤めてる、頑固な老司書がいるの。街の歴史にやたら詳しいのよ」
セレナの言葉には、どこか懐かしむような響きがあった。子供の頃、この街で育った者なら、誰もが一度はその老司書の世話になったことがあるのだろう。
ローデン市の図書館は、ギルドから少し離れた、街の中心部にあった。石造りの重厚な建物は、周囲の喧騒から切り離されたように静かだった。入り口の扉を押すと、古い紙とインクの匂いが、俺たちを迎えた。
受付にいたのは、白髪を後ろで束ねた痩せた老人だった。分厚い眼鏡の奥で、鋭い目がこちらを値踏みするように動いた。長年、この場所で本と向き合ってきたのだろうと一目でわかる佇まいだった。俺たちが用件を切り出す前から、既に何かを見透かしているような視線だった。
「ヴァレンフォード家について、知りたいだと?」
老人――ドルトンと名乗った司書は、俺たちの用件を聞くなり、露骨に眉をひそめた。片手に持った杖で、コツリと床を突く。
「今更、あの家のことを掘り返してどうする」
「ある事件に、この紋章が関係してる可能性があるんです」
「事件、ね」
ドルトンは、しばらく俺たちを観察するように見つめた後、ため息をついて書庫の奥へと歩き出した。杖の音が、静かな図書館に規則正しく響いた。
「ついてこい。立ち話するような話じゃない」
案内された小部屋には、古い書物と、埃をかぶった資料が山のように積まれていた。窓から差し込む夕方の光が、埃の粒子を照らし出していた。ドルトンは、その中から一冊の記録帳を取り出した。
「ヴァレンフォード家は、かつてこの地方一帯を治めていた由緒ある貴族家だった。だが三十年前、当主の不正――具体的には、領民から不当に税を搾取していた件が発覚し、王家によって取り潰された」
記録帳のページには、当時の様子を伝える簡素な挿絵が添えられていた。取り壊される屋敷、連行される使用人たちの姿。三十年前の出来事とは思えないほど、生々しい記録だった。
「不正、ですか」
「ああ。当時、まだ若かった当主の息子は財産も地位も、すべてを失った。……その息子が今、どこで何をしているのか私は知らん」
ドルトンは、記録帳のページを指でなぞりながら続けた。
「息子の名前は」
「ガレス・ヴァレンフォード。もし生きているなら、今は五十を超えているはずだ」
ルナリアが、俺と顔を見合わせた。年齢的には、フードを被った依頼主の体格と、矛盾はない。
「ドルトンさん、この家が新人冒険者を狙う理由、何か心当たりはありますか」
ドルトンは、しばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。部屋の空気が、一段と重くなったように感じた。
「……一つだけ、思い当たることがある。ヴァレンフォード家は代々、"魂の器"と呼ばれる特殊な儀式の知識を持っていたと言われている」
「魂の器?」
「詳しいことは、私も知らん。ただ、若く、力の弱い者の魂を、何らかの目的のために利用する儀式だとか、そんな噂を聞いたことがある。真偽のほどは、定かではないがな」
背筋が冷たくなった。もし本当にそうなら、新人ばかりを狙う理由にも、説明がつく。ミアが襲われた時の光景が脳裏をよぎった。あの少女が、もし間に合っていなかったら――そう考えるだけで、拳に力がこもった。
「その儀式について、もっと詳しい記録は」
「ない。あるとすれば、ヴァレンフォード家の旧邸だろうが……あそこは、取り潰しの際に封鎖されて、今は誰も近づかない廃墟のはずだ」
「場所は」
「街の北、森を抜けた先の丘の上だ。……だが、忠告しておく。もし本当に、あの家の残党が動いているなら、生半可な覚悟で近づくものじゃない」
ドルトンの警告に、俺は静かに頷いた。その声には、単なる年寄りの説教とは違う、実感の伴った重みがあった。長年この街で生きてきた者だけが持つ、経験に裏打ちされた重みだった。
図書館を出ると、日はすでに傾きかけていた。石畳の道に、二人分の長い影が伸びていた。
「アレン、どうする」
「明日、その旧邸に行ってみる。詰み目もその頃には回復してるはずだ」
「一人で行かせるつもりはないから、私も行くわよ」
「わかってる。それに――」
俺は、握りしめていた紋章の写しを見つめた。羊皮紙の端に刻まれた消えかけたインクの跡。三十年という歳月の重みがそこに滲んでいるように見えた。
「これが本当に儀式に関わる話なら、ミアみたいな被害者をこれ以上出すわけにはいかない」
ルナリアが、少し驚いたように俺を見た。
「なに?」
「ううん。……ちゃんと、人を助けたいって顔してる。安心した」
その一言に、俺は何と答えていいかわからず、ただ視線を逸らした。あの全能感への未練が、完全に消えたわけではない。それでも今は確かに、別の想いの方が強く胸を占めていた。
夕暮れの街を歩きながら、俺たちは明日の準備について、静かに言葉を交わし続けた。ドルトンの警告が頭の片隅で静かに響き続けていた。
――生半可な覚悟で近づくものじゃない。
その言葉の重みを、俺はまだ正確には理解できていなかった。宿に戻る道すがら、ルナリアがふと足を止めた。
「アレン、明日は無理な行動は控えて。詰み目が使えても相手が何を仕掛けてくるかわからないんだから」
「わかってる。……お前こそ、魔力の使いすぎには気をつけろよ」
「お互い様ね」
そう言って笑うルナリアの顔には、いつもの強気な色が戻っていた。それを見て、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。明日、何が待ち受けているのか、まだ何もわからない。それでも、隣に彼女がいてくれることが今の俺には何よりの心強さだった。




