第16話「剣と青年」
仮面の男の合図と同時に、黒い影の群れが、一斉に襲いかかってきた。地面を這うようなその動きは、生者のものとはまるで違っていた。
「フレイムバレット!」
エルザの炎が、先頭の影を飲み込む。だが、影は怯む様子もなく、燃えながらも真っ直ぐに迫ってきた。
「効いてない?」
「くっ……浄化!」
ルナリアの光が、別の影に直撃する。今度は、影が苦しむように身をよじった。
「物理と炎は効きにくい。浄化の方が効く、多分、元は人間だったからだ」
詰み目に頼れない今、断片的な観察だけが頼りだった。それでも、状況を整理する頭は、まだ辛うじて回っている。前世で叩き込まれた、限られた情報から最善手を探す癖が、こんな時にも役立っていた。
「ルナリア、浄化中心で頼む。俺とエルザで、時間を稼ぐ」
「わかった」
俺は腰の剣を抜き、迫る影の一体に斬りかかった。ローデン市で護身用にと買った、何の変哲もない片手剣だった。手応えは頼りなかったが、動きを殺すには十分だった。
ルナリアが、影の一体一体に丁寧に浄化を浴びせていく。だが、影の数は多く、彼女の魔力にも限りがあった。息が上がり、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「アレン、私の魔力、そろそろ厳しいかも」
荒い息の合間に、ルナリアが呟いた。額には、既に玉のような汗が浮かんでいる。
「もう少しだけ耐えてくれ」
「言うのは簡単だけど」
軽口を叩く余裕すら、少しずつ失われていくのがわかった。仮面の男は、木の上から、面白そうにこちらを見下ろすだけで、動く気配がない。まるで、実験でも観察するかのような、冷たい視線だった。
「そろそろ、飽きてきたな」
男が、指をもう一度鳴らそうとした、その時だった。
「――そこまでだ」
聞き覚えのない声と共に、森の奥から一陣の風が吹き抜けた。次の瞬間、影の群れの半数が、一撃のもとに斬り伏せられていた。
現れたのは、逆立った灰がかった金髪の青年だった。腰に提げた剣は、既に鞘に納まっている。だが、その一振りの余韻だけで、只者ではないと分かった。鋭い目つきと整った顔立ちには、どこか近寄りがたい静けさが漂っていた。
「お前は」
「通りすがりの剣士だ。名乗るほどのものじゃない」
青年は、油断なく仮面の男を見据えながら、淡々とした口調で言った。
「この森で不穏な気配がすると聞いて、様子を見に来た。……どうやら、正解だったようだな」
仮面の男が、初めて表情らしきものを動かした。
「これは、これは。まさか、"斬る者"が、こんな辺境まで出張ってくるとはな」
「知り合いか」
「いや。だが、噂には聞いていた。人ならざるものを、一方的に狩り続ける剣士がいる、と」
青年は、それには答えず、ただ剣の柄に手をかけた。
「エルザ、ルナリア。あいつが影達の相手をしている間に、態勢を立て直すぞ」
「了解!」
「わかったわ」
残った影の群れが、青年に向かって殺到する。だが、その剣速は、俺たちの目でも追いきれないほどだった。瞬く間に、影たちが次々と斬り伏せられていく。エルザが、呆然とした様子でその光景を見つめていた。
「見事なものだ。だが」
仮面の男が、両手を広げた。
「私自身と戦う気は、あるのか」
その言葉と共に、男の輪郭が、急速に禍々しい気配を帯び始めた。仮面の下から覗く目が、赤黒く光っている。
「アレン、あれは」
「わからない。だが、さっきまでとは、明らかに格が違う」
青年が、静かに剣を構え直した。
「お前たちは下がっていろ。あれは、俺一人で十分だ」
「一人で、って」
「心配するな。……こう見えて、この手の相手には慣れている」
その落ち着き払った態度に、俺たちは思わず顔を見合わせた。まだ十代半ばに見える青年が、これほどまでに肝の据わった物言いをするとは、正直予想していなかった。
仮面の男が、地面を蹴って距離を詰める。青年の剣が閃き、交錯する瞬間、辺り一帯に衝撃波にも似た風が吹き荒れた。木々の葉が舞い、一瞬視界が白く霞んだ。
「詰み目、使えるか」
戦いながら、青年が唐突に尋ねてきた。
「……いや、もう使った。森に入る時に」
「そうか。なら、自分の目で見るしかないな」
青年の声には、落胆よりもむしろ切り替えの速さが感じられた。詰み目に頼らず前に出る時のために、この数ヶ月こっそり素振りだけは続けてきた。その成果を試す時が来たらしい。
「エルザ、ルナリア、俺も前に出る。少しでも、隙を作る」
「アレンが前に?」
「心配するな、死なない程度にはやる」
影の一体に斬りかかり、動きを殺す。戦う二人の動きを、必死に目で追う。
「仮面の男の動きが、胸元を庇うように不自然に偏ってる」
浮かんだのは、詰み目の表示ではなかった。ただ、前世で何度も繰り返した、原因を切り分ける作業の延長線上にある、ただの観察結果だった。力に頼れなくても、目を凝らせば見えるものはある。それを、俺はこの数ヶ月で学んでいた。
「胸元だ!動きが、そこを庇ってる!」
「わかった」
青年の剣が、一直線に走った。仮面の男の胸元を、正確に貫く。
「――ば、馬鹿な……」
男の体から、黒い靄のようなものが立ち上り、悲鳴のような音を残して霧散していった。後には、力なく倒れ伏す、痩せた男の体だけが残された。禍々しい気配は嘘のように消え去り、ただの一人の人間の姿がそこにあるだけだった。
戦いが終わると、森に静寂が戻ってきた。
「助かった、な」
俺が声をかけると、青年は剣を鞘に収めながら振り返った。
「礼はいい。俺も、あいつを追っていただけだ」
「名前くらい、聞かせてくれないか」
青年は、少し考えるような間を置いた後、静かに口を開いた。
「ノアだ」
短く名乗ったその声には、これ以上詮索するなという、無言の圧力が込められていた。だが、俺は、この出会いが、ただの偶然では終わらない気がしていた。
「ノア、あんた、さっき"斬る者"って呼ばれてたが」
「気にするな。ただの二つ名だ」
「人ならざるものを狩り続けてるって、本当か」
ノアは、しばらく黙り込んだ後、短く答えた。
「……訳あってな。それ以上言うつもりはない」
その口ぶりには、簡単には踏み込ませない、深い事情が滲んでいた。ルナリアが、気遣うように口を挟んだ。
「無理に聞くつもりはないわ。でも、良かったら、一緒にローデン市まで来ない?怪我の手当てくらいは、させてほしいの」
「怪我はない」
「あなたはなくても、村の人たちは違うでしょう」
ルナリアの指摘に、ノアが初めて虚をつかれたような顔をした。森の奥、まだ捕らわれていたはずの村人たちのことを、思い出したらしい。
「……そうだな。案内、頼む」
短い返事だったが、そこには確かな変化があった。
倒れていた行方不明者たちは、幸いにも、まだ息があった。憑依が解けたことで、元の姿に戻れたらしい。ルナリアが、残った魔力を振り絞って、一人ずつ丁寧に手当てを施していく。
「もう大丈夫よ」
エルザが、汗だくになりながらも、笑顔で言った。
ノアは、そんな俺たちのやり取りを、少し離れた場所から、黙って見つめていた。その表情には、どこか懐かしむような、複雑な色が浮かんでいた。
森を出る頃には、日はすっかり傾いていた。前世では、こんな濃密な一日を過ごした記憶は、一度もなかった。異世界というのは、本当に、退屈とは無縁の場所らしい。
宿場町に戻ると、住人たちが安堵の涙を流しながら、俺たちを出迎えてくれた。行方不明だった家族との再会に、あちこちで泣き声が上がっている。
その光景を、ノアは少し離れた場所から、静かに見つめていた。
今回、アレンが初めて剣を抜きました。詰み目一本で戦ってきた彼ですが、パーティの攻撃役がまだ少ないこともあり、今後は自分の手で斬り込む場面も増えていく予定です。地味な剣筋も、どこかで育っていけば嬉しいです。




