第14話「呼びかけ」
温泉宿の一室、消灯間際。エルザとルナリアが寝静まったのを見計らって、俺は一人窓辺に立った。障子の隙間から、丸い月が覗いていた。
「フィオナ、聞こえてるか」
反応はなかった。しばらく待っても、静寂だけが続いていた。窓の外では、名も知らぬ虫の音だけが規則正しく響いている。
「聞こえてるんだろう。ガレスが言ってたこと、詳しく話してほしい」
それでも何も起こらない。都合の悪い時は無視を決め込むつもりかと、少し苛立ちが募った頃だった。
「――随分と直接的な呼び出し方するのね」
声と共に、部屋の隅に淡い光が滲んだ。光の中から、見慣れた銀髪の少女が姿を現す。フィオナだった。
「本当に来るとはな」
「まあ、名指しで呼ばれたら、無視するのも悪いし」
いつもと変わらない、飄々とした態度だった。だが、俺は今日ばかりは引く気がなかった。
「ガレスは、お前のことを知ってるような口ぶりだった。それに、俺がここに来たのは偶然じゃないとも言ってた。どういうことだ」
フィオナの表情が一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬だったが、俺はその揺らぎを見逃さなかった。
「……そこまで、気づいちゃったか」
「誤魔化すなよ」
フィオナは、しばらく黙り込んだ後、小さくため息をついた。
「わかった。少しだけ、話す。全部は無理だけど」
窓の外の月明かりが、フィオナの表情を薄く照らしていた。いつもの飄々とした笑みは、まだ完全には消えていない。
「この世界には、大昔、"詰み目"と同じ系統の力を持つ者が何人かいたの。人間の理を超えた存在――例えば、古い時代の魔物や、堕ちた神々に近い者たちに対抗するための力として、そうした持ち主たちが選ばれ、遣わされてきた歴史があるの」
「対抗するための力?」
「ええ。この世界には、人の手に余る脅威が、時々目を覚ますことがある。詰み目は本来、そういう存在の"詰み"を見つけ出すために作られた力なの」
思っていたよりも、遥かに大きな話だった。ただの便利なスキルだとばかり思っていたが、その根底にはもっと深い理由があったらしい。前世でシステムの仕様書を読んだ時のような、じわじわとした重みが胸に広がった。
しばらくの沈黙の後、俺は改めて核心を尋ねた。
「なら、俺にこの力が渡ったのは、本当にただのミスだったのか」
フィオナは少しだけ目を伏せた。長い睫毛が、月明かりの下で微かに震えて見えた。その仕草には、いつものポンコツな雰囲気とは違う、年経た者だけが持つ重みが滲んでいた。
「……手違いだったのは、本当。でも」
「でも?」
「あなたの魂が、この力に耐えられる器だったことも、事実。手違いだったけど、結果的には、悪くない選択だったと思ってる」
歯切れの悪い答えだったが、それ以上は聞き出せそうになかった。
「まだ何か隠してるな」
「鋭いところは相変わらずね。でも、今はこれ以上言えない。約束事、みたいなものがあって」
「約束事?」
「うん。……ごめんね」
申し訳なさそうに笑うフィオナに、俺はそれ以上、追及の言葉を継げなかった。
「一つだけ、忠告しておく」
フィオナの声が、急に真剣なものに変わった。それまでの飄々とした空気が、一瞬で消え失せる。
「この世界には、まだ眠ったままの脅威が、いくつか残ってる。ガレスが触れかけていた"魂の器"も、その残滓の一つ。……いずれ、もっと大きなものと向き合う日が来ると思う」
「もっと大きなもの、か」
「そう。だから――」
フィオナは、俺とルナリア、そして眠っているエルザを、順番に見渡した。
「大切な人を、たくさん作っておいて。一人じゃ、いずれ限界が来るから」
その言葉には、単なる助言以上の、何か重みのようなものが感じられた。
「ちなみに、その炎の子、悪くない仲間ね。見る目あるじゃない」
「勝手に品定めするな」
「褒めてるのに。……それと、その隣で寝てるルナリアのことも大事にしなさいよ」
不意打ちの一言に、俺は言葉を返せなかった。フィオナは、悪戯っぽく笑うと、それ以上は何も言わずに、光と共にすっと姿を消した。部屋には、また静寂が戻ってくる。
フィオナが光の中へ姿を消した後も、俺はしばらくの間、一人静かに窓辺に立ち尽くしていた。眠ったままの脅威。約束事。彼女の口から出た言葉の一つ一つが、頭の中で反響していた。
「まだ、何もわかってないんだな」
小さく呟いた声は、誰に届くこともなく、静かな部屋に吸い込まれて消えていった。布団に横になっても、しばらく眠気は訪れなかった。前世で締め切りに追われていた夜と似ているようで、決定的に違う緊張感があった。あの頃は、ただ追い詰められているだけだった。だが今は違う。誰かのために、何かに立ち向かおうとしている。その違いが、不思議と悪い気分ではなかった。
翌朝、朝食の席で、俺は昨夜のことをルナリアとエルザに話した。
「大きな脅威、ね」
ルナリアが、真剣な顔で呟いた。パンを持つ手が、途中で止まっている。
「なんだか、随分と壮大な話になってきたわね」
一方でエルザは、意外にも楽しそうな顔をしていた。
「怖くないのか」
「怖いけど、面白そうじゃない。天才魔導士として、そういう大舞台、望むところよ」
強がりのようにも聞こえたが、その目には、確かな覚悟の色があった。
「俺たちの目標、決まったな」
「目標?」
「この世界の"詰み"を、いつか全部解いてやる。フィオナの隠し事も、眠ってる脅威とやらも、全部だ」
大それた宣言だったが、なぜか口にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなった気がした。
「いいじゃない、それ」
「私も乗るわ」
ルナリアとエルザが、揃って頷いた。三人分の視線が、窓の外に広がる朝の空へと向けられる。
「でも、大きな目標を立てたはいいけど、当面はどうするの?」
ルナリアの現実的な問いに、俺は少し考えて答えた。
「まずは、地道にランクを上げていく。フィオナの言ってた"眠ってる脅威"とやらに立ち向かうにしても、今の実力じゃまるで話にならないだろうからな」
「地味ね」
「地味で悪いか」
「悪くはないわよ。あなたらしいと思っただけだから」
そう言って微笑むルナリアの表情には、以前のような刺々しさはもう欠片も残っていなかった。
エルザが、二人のやり取りに割り込んでくる。
「私は、もっと派手な依頼がいいわ。ドラゴン討伐とか」
「気が早すぎるだろ」
「夢は大きい方がいいでしょう」
軽口を叩き合いながらも、三人の間には、確かな一体感のようなものが生まれていた。宿の窓から差し込む朝日が、テーブルの上を明るく照らしている。
前世では、目標と呼べるものなど、何一つ持っていなかった。今、初めて心の底から目指したいと思えるものができた。それも、一人ではなく、隣に誰かがいてくれる状態で。それだけで、この世界に来た意味が、少しだけ分かった気がした。
食事を終えた俺たちは、荷物をまとめてローデン市への帰路についた。次に何が待っているのか、まだ何も分からない。それでも、不思議と足取りは軽かった。三人分の影が、朝の街道に長く伸びていた。




