5-4 令嬢の秘密
床に引き摺る靴裏の音。コトン、と机に何かが置かれた音でシレーヌは目を開けた。
白髪混じりの黒髪の男性は、存外若々しくまだ三十代くらいに思える顔立ちであった。
「ホットミルク、飲めるかい?」
「ああ、ありがとう」
シレーヌはスンスンと鼻を鳴らし、そのまま口を付けた。独特な風味と程よく温まったミルクが胃の中で熱を主張した。徐々に熱を帯びる体に、安堵の息が漏れる。
店主はシレーヌの態度に安堵したのか、そのまま何も言わず足を引き摺って席を後にした。
「店長、会計をお願い」
「承った。予約の分も一緒に会計するよ」
「お願いするわ」
会計をするアルテミス。そのまま紙袋を受け取れば、無表情のままシレーヌの横へと腰をかけた。
「顔色は少し良くなったわね」
「すいません」
「私の不手際よ」
「いや、本当に。アルテミス様が悪い訳じゃなくて、私が今も馬鹿みたいに引き摺ってるだけだ。だから」
身を乗り出し早口で捲し立てるシレーヌに、アルテミスは目を丸くする。やってしまったとシレーヌは冷静になった瞬間、冷水を浴びたような感覚になった。
何かある、と言っているも当然の言動だ。
「すいません。忘れてください」
「私、ここの本屋に通い始めて五年くらいになるの」
「え?」
「うちの使用人に、とても読書家な女性がいたの。その方が、休日にどこに行くのか気になってしまって後をつけたの」
随分と貴族令嬢らしからぬストーカーチックな行動だ。
「店の前で見つかってしまったから、バレてしまったのだけれど。あの人は少し困った様子で笑って、私を本屋に案内したの。連れて帰られると思ったのに、変な人でしょう」
アルテミスの身分を考えれば当然連れて帰るのが妥当だろう。しかし、その使用人は連れ帰る事はしなかった。
「私はそこで様々な本を見たわ。王宮内や家にある本はどれもつまらないわけではなかったけど、刺激が無かったの。だから、不思議とフィクションの物語に興味を持ったわ」
アルテミスが紙袋の封をあけ、シレーヌに中身を渡す。シレーヌは本を受け取って表紙をマジマジと見た。
【悪役令嬢と意地悪狼】
【恋が始まる推理ショー】
【ショッキング・ラブ】
「……なんですかこれ」
「ロマンス小説よ」
随分と俗っぽいタイトルの本ばかりだ。
人の趣味嗜好に兎や角言うのもナンセンスなので、シレーヌは曖昧に返事をする。
アルテミスは淡々と語りを始めた。
「正直、ベイリー公爵家の娘として、アルテミス・ベイリーにとっては似つかわしくないものだとわかっているわ。大衆小説であるロマンスものを読んでいるだなんて知られたら、きっと幻滅されてしまうわ」
確かに、シレーヌの知る面では寡黙で貴族令嬢らしい姿だ。
しかしシレーヌが知るのは別の一面もある。
キッチンにいる時のアルテミスは気まぐれな猫のようであった。
「そうなのか、じゃなくてそうでしょうか」
「そうなのよ。周りは、公爵令嬢として私に完璧を求めるわ……でも、そんな風にはとてもなれないから。これたちは、わたくしにとって安寧の場所でもあるの」
シレーヌは貴族のことにあまり興味無い。
ただ、平民よりも泥臭くて薄暗く、煌びやかな世界で生きている事は知っている。足の引っ張り合いだけでなく、背負ったり背負われたり。面倒くさく人間らしい人ばかりだ。
大切な人がいるのも、大事なものを失うのに恐怖心があるのも平民と同じだ。
所詮は人間。環境差があるだけで、種族が違うわけではないのだ。
アルテミスで知る事と言えば、シレーヌはほとんど無い。ただスイーツが好きで、あまり喋らず目で語る人だという印象が強い。
「貴女は、私がこういったものを好きでいても可笑しいとは思わない?」
「それはまぁ。趣味は人それぞれです。それで言うなら私の趣味だってあまり理解されませんよ」
以前もゼロスと話したが、シレーヌの趣味は万人に理解を示されるものではない。貴族の中でも、そこまでこだわる必要はないだろうという意見もある。
それでもシレーヌが料理をするのは、やはり父の影響が強いだろう。
「理解されなくても、認められているわ」
「幸いな事に。周囲の人間に恵まれていますから」
サラリというシレーヌに、アルテミスは目を細めた。
手元に戻された本に視線を下ろしながら考えを巡らす。
「……貴女は強いわね」
「情けない姿を見せた以上、そう言われるのは不思議です」
「私は、周囲の人間が怖くて仕方ないもの。傲慢だと言われるだろうけれど、怖い」
「怖い?」
アルテミスは小さく首を縦に振った。
その横顔は普段の凛々しさなど影を潜めた、普通の少女がそこにいる。
シレーヌは綺麗な横顔だなと素直に思った。




