6 契約締結せず
翌日、光雄は右手に包帯を巻きつけ、会社に出社した。
いや、智花がピンセットでガラスの破片を丁寧に取り除いて、消毒して巻いた包帯なのだが。
光雄が目覚めた時、智花は光雄のベッドの脇で寝ていた。
昨夜の会話の事もあり、とても礼を言う気にもなれず、起こさない様に静かに起きて、そのまま家をでてきたのだ。
昨日の阿部のいやらしいにやけ顏から類推するに、社長から告げられるのはただ一つであろうと光雄は確信していた。
人生のターニングポイントであの電流は走る。だとすると、次呼び出された時に、くるはずだ。
予想通り光雄は社長から呼び出しを受けた。
「おはよう、中林さん。どうしたの?その包帯?」
「語るまでの事ではありません。ところでご用は何でしょう?」
「あまり心配させないでよ。全く。」
会話がかみ合っていない。
社長は光雄を舐め回す様な視線で言葉を続けた。
「阿部から聞いてる?契約の話。」
「具体性が全く無く、何の事だか?」
「私と個人的に契約しないかっていう話なんだけどさ。」
「恐れながら、理解致しかねます。」
言葉を選びながら光雄はやはりこうきたか、と思った。
「この会社は私の会社。社員は私の宝、私のモノ。人事異動の時に私、貴方に言ったわよね。ビジョンの一つだって。。?、何怖い顔をしているの?」
「失礼ながら申しあげます。結論から仰って頂けないでしょうか?」
胸の奥に怒りを感じながら、しかし至って冷静に。そしてきっと来るであろう電流に備えて光雄は声を震わせながら答えた。
「はいはい、流石に氷の中林だね。つまりはね、あたしと愛人契約をしないかって事。
お子さんが二人いて、中林さんの年令、奥様だってオシャレの一つだってしたいだろうし、ね?
こちらに来てから中林さんの給料もダダ下がりでしょ?」
確かにその通りである。
基本的に保険の営業とは、客の入っている保険の全否定から入る。
それがどうしても光雄には許せなかった。
従って、本当に必要と感じている人にしか、契約は貰えなかったのである。
「貴方の性格からいうと、保険の営業は無理だろうし、悪い話ではないと思うよ。初めのうちは、週に1回位、1回で5万円で……」
あれ?電流が来ない。
自分の予想と違う。
という事は、これは考えるまでも無く、自分の思った様に回答すべきなのか。
「……お断り致します。」
「あれぇ?賢明な回答じゃないわね?
お金は必要でしょ?このまま嫌がっている保険の営業を続けるの?
それよりも、ね?」
「もう一度申しあげます。辞退させて頂きます。」
ふっ、と社長は光雄を見つめ、見下した様な視線を投げかけた。
「貴方の頑固さには屈服します。その選択を尊重します。」
思ったよりもあっさりと解放される、そう思いながらも意思をはっきり伝えなくてはいけないと思い、社長の目をしっかりと見つめる。
社長は続ける。
「ただ、その頑固さがこの会社での貴方を殺し、その余波は貴方の家族を苦しめる事になる。それだけは覚えていた方がいいわ。」
何て冷たい目なのだろうか。
その日一日、光雄は研修待機を命じられた。
研修とは名ばかり、別室で保険関係の資料を読むだけの時間である。
トイレに行くのも社長室長の許可が必要だった。
定時になり、室長が部屋に入って来た。
「あなたは新規事業で成功したにもかかわらず、何でわざわざ本社に転属の希望なんか出したのですか?
本社のポストはふさがっているというのに、誰かを蹴落としてまで社長に取りいるつもりだったのでしょう?
全く軽蔑してしまいますね。」
30歳くらいのその女性室長は、冷淡に、心の底から軽蔑する様に光雄に語りかけた。
「なッ!」
どこでどの様にしたら、その様な話になるのだろう?
「業績不信を部下のせいにして、別のポストを社長に要求するなんて、人として外れてると思いませんか?」
光雄は一瞬反論しようと思ったが、相手は社長室長である。
社長と一介の課長の述べる事が食い違えば、どちらを信用するかは火を見るよりも明らかな事。
「中林課長の処遇は社長から私に一任されています。悔い改める事を切に希望します。
今日は帰宅してください。」
帰宅途中、光雄は虚ろに車窓へ目を配る。
あの一つ一つの灯りのもとに、それぞれ家庭があるのだろう。
トラブルとかは無いのかな?
みんな幸せなのかな?
40歳にもなって、色魔事に巻き込まれるとは。
拒む事で家族はどうなってしまうんだろう?
無意識のうちに、一駅先にある市役所の時間外窓口に足を運び、とある書類をもらって来ていた。
とにかく正直に智花に話そう。
そして、結論次第でこの書類を使う事もあろう。
足取り重く、マンションのエントランスをくぐった。




