5 罠の予兆
光雄にとって、本社の業務は周りの人のフォローもあって、順調とは言わない迄も何とかこなしていた。
心配していた阿部との関係も、阿部が拠点長兼1課長、光雄が2課長だったので、接点も会議の時位でトラブルはなかった。
二つ目の心配、給料も住販セクション時代よりは減ってしまったが、家族4人が何とか食べていける位はもらっていると感じていた。
最後の懸念、社長の上目遣いであったが、ここまでの間、普通のフォローこそあれ、業務の範疇であった。
「お疲れ様でーす。」
自分の部下が帰っていく。
気づくと阿部と二人となっていた。そちらの方をチラッと光雄が見ると、阿部は席を立ち上がり、
「なかばやしぃ、話したい事がある。」
と近づいてきた。
「何かご用でしょうか?」
「おいおい、何をぶっきら棒に対応しているんだよ。これはいい話なんだからさ」
大体こいつの話で良かった事なんか、会議の場ですら無いだろうよ。
そう思いながらも拠点長相手なので光雄は話を聞く事にした。
「お前も噂で聞いた事があるかもしれないが、社長とある契約を結ぶと、いい事があるんだな。」
噂?一体それは?
光雄は当人がその場にいないのに、アレコレと話が作られていく噂というものが大嫌いであった。
当然そういった輪の中には入っていかず、そのイメージが、真面目一筋で、付き合い辛いという会社での光雄の印象となっていた。
ましてやそれが、嫌っている人間から発せられた言葉であれば尚更である。
光雄がしばらく黙っていると阿部は続けた。
「お前は興味が無いとしても、そのうち社長から直接話があるだろうよ。明日にでもな。」
「一体何なんですか?その契約って。」
「俺の口からは言えないよ。まあ、楽しみにしてろや。」
年下であるこいつの無礼さ加減には正直腹が立つ。怒りを抑えながらもあくまでも上司に接するという最低限の礼節を踏まえて光雄は対応する。
「判りました。社長の指示を待ちます。」
帰宅してからも何かモヤモヤとした気分で眉間にシワをよせていた。
智花とはあの異動の一件以来、夫婦の営みはなかった。
それどころか、会話もまばらになっていた。
もちろん次女の誕生もあった。
智花のたっての希望で出産にも立ち会った。
はたから見たら、仲の良さそうな夫婦に違い無いだろう。
しかし、光雄が求めても、何かと理由をつけて断り続けたのである。
今日も帰宅したらしたで、チラッと光雄を見た智花は、寝るからという一言を残して床に就いてしまった。
何だっていうんだよ、どいつもこいつも。
光雄のイライラがピークに達する。子供が産まれてからやめていたタバコも再び吸い始めていた。
イライラから脱するために、居てもたってもいられなくなり、マンションの1階の広場に降り、タバコに火をつけて、深く煙を吸い込んで考えてみた。
今までの記憶を整理してみよう。
40年の人生を振り返ると、幼少期、学生時代、社会人その一、その二に別れる。
しかし、知識?としてはそれらの出来事を事象として認識できるが、果たしてこれを記憶と呼べるのだろうか?
光雄は自分自身が何者で何の為に生きているのか判らなくなってきた。
もう一本、タバコに火を付ける。
ふぅー、何でこんなものが美味んだろう、いや、旨くないよ。身体にも悪いし。
このタバコは言わば智花への当て付けの為に吸っているようなものだ。何だかな?つまんない人生だな。
そう思った時、知識ではない、記憶と認識出来る事象が鮮明に蘇ってきた。
智花との出会い、結婚式、転職する直前、転勤の時。
いずれもあの電流が流れた時だ。
もう一度深く煙を吸い込んで落ち着いて考えた。
どれもこれも選択をしなければいけない時。
誰の仕業?神が居るならきっとその仕業だろう。
じゃあ、それぞれの場面で別の選択をしたらどうなっていただろうか?
光雄は空恐ろしく感じた。
眠れない。
タバコには覚醒作用があると言われているが、それだけではない。
次の電流は何時なのか?
これまでは、特に意識もしていなかったのだが、次に電流が走った時、僕はどの様な判断を下すのだろうか?
そして、それは正しい判断なのだろうか?
そういえばタバコを吸ったのに歯磨きをしていなかったな。流石にそのままだと眠れないな。
のそのそと洗面台に向かうと、智花が電話をしている様子だった。
引き戸は閉まっていたので、その外で待っていた。
洗面台の電気はつけていない様であった。
『……それだけは……愛してます。だから……確かにそうです。ご主人様……』
所々声を潜めている為によく聞き取れない。
これは聞かない方がいい話なのだろうか?
むしろ知らなければ良かったという話なのではないだろうか?
その脇のキッチンでコップに水を入れ、一気に光雄は飲み干した。
コップをあえてゴトっと音がする様に置いた。
刹那の後、洗面台から大きな音に気付いた智花が出てきた。
その瞬間である。
光雄の右半身に電流が走った。それも今までなかった様な衝撃であった。
智花の顔は引きつっていた。
どうしてこの時間に光雄がここにいるの?聞かれた!?
目の前の光雄は左腕で右半身をかばう様に崩れ落ちている。
「ねえ、聞いていたの?」
光雄からの反応は無い。
「ねえ、聞いてるんだけど?…おい、何をしているの?」
自分のやましい行動で、罪悪感を感じながらも、光雄の行動を問い詰めようと智花は光雄の方を見ると、砕けたコップ。そのコップは、結婚式の時に購入したペアグラスの片方であった。そして血だらけの右手。
「ねえ、どうしたの?ねえってば、起きてよ、ねえ、どうしたのって聞い……」
既に光雄はその言葉を認識していなかった。




