3 こいつ、完全に正気を失ってやがる!
「ね〜、鏡太朗〜。このめっちゃつまんない授業って、まだ終わらないの〜?」
着席して英語コミュニケーションの授業を受けている鏡太朗の隣に立つリリィは、鏡太朗の耳元で言った。
「ク、クロリリィちゃん。お願いだから、大人しくしてて……」
鏡太朗は、他の人には見えないリリィに向かって小声で言った。
「屍くん!」
教科書に書かれた英文を流暢に音読していた六十歳近い男性教諭が、教科書から顔を上げて鏡太朗の名前を呼んだ。
「は、はいっ!」
驚いて返事をした鏡太朗に向かって、男性教諭が不愉快そうな声色で言った。
「君は授業に遅れて教室に入ってきて、しかも、授業中にお喋りするとは、先生のことをバカにしてるのかい?」
「そ、そんなことはありません!」
鏡太朗は大声で答えた。
「真面目に授業に集中するように」
男性教諭は鏡太朗に向かって注意すると、再び教科書の音読を始めた。
リリィは鏡太朗の机に腰掛けると、大声で叫んだ。
「もおおおおおおおおおおーっ! 退屈うううううううううううううーっ!」
鏡太朗の顔から一気に血の気が引き、教室中の生徒がざわめいた。
男性教諭は右の眉をピクピクさせながら、今にも爆発しそうな怒気を孕んだ声で、鏡太朗に訊いた。
「し、屍くん……。せ、先生の授業は……、そ、そんなに退屈なのかな……?」
鏡太朗は真っ青な顔で、しどろもどろになって答えた。
「い、いや、その……。そうじゃなくて、え〜と……、そ、そうだ、『モ、モー太は何歳かなぁ?』って……」
さくらは心配そうな表情で鏡太朗を見つめ、來華はキョトンとした顔をしていた。
「モー太って誰じゃ?」
「きゃ、きゃあああああああああああああーっ!」
一人の女子生徒が、黒板を見た瞬間に悲鳴を上げた。
男性教諭と生徒たちが黒板に目を向けると、白いチョークが宙に浮かび、ひとりでに動いて黒板に曲線を描いていた。
生徒たちと男性教諭は悲鳴を上げながら、教室の後ろの壁まで移動し、席に着いているのは、警戒した表情で黒板を見つめるさくらと來華、今にも気絶しそうなほど顔面蒼白になっている鏡太朗だけだった。
鏡太朗の目にだけは、楽しそうに黒板にお絵かきしているリリィの姿が見えていた。
『うん、さすがあたしだわ〜! そっくりに描けたわ〜!』
リリィが満足気に見つめる視線の先には、黒板いっぱいに描かれた子どもの落書きのような男性教諭の顔と、その横に書かれた『怒りんぼ』の文字があった。
『ク、クロリリィちゃん……』
鏡太朗は気絶寸前の表情で、教壇の上でクルクル回って笑顔で踊るリリィの姿を見つめた。
『ヤ、ヤバい。意識が遠くなっていく……。魂が抜けて、このまま天に召されるかも……』
「うひひひひ……。着いたぞ」
百目鬼は住宅街の道路に立ち、目の前の二階建ての住宅を狂気の笑顔で見つめた。その両目には、燃えたぎるような殺意が漲っていた。
『そうだ。今こそ、お前がこの世を救うヒーローになる時だ。さあ、やれ!』
「うひひひひ……。玄関のチャイムを鳴らして、宅配便を装って、あの母親が玄関のドアを開けた瞬間に、このツルハシで……。うひひひひ……」
百目鬼は、左手で柄を握ったツルハシを引きずりながら玄関ポーチに向かった。
「うひひひひ……」
百目鬼は、激しい殺意と狂気的な喜悦が入り混じった表情を浮かべ、その右手人差し指を玄関チャイムに伸ばした。
百目鬼の指先が玄関チャイムを押そうとした瞬間、背後に立つ誰かがその手首を掴んだ。
「だ、誰だ?」
百目鬼が慌てて振り返ると、神主姿のもみじが百目鬼の右手首を右手で掴み、ツルハシの頭部を左足で踏みつけていた。
「随分と物騒な物を持ち歩いているじゃねぇか?」
もみじは鋭い目つきでニヤリと笑った。
その直後、百目鬼の眼球が上を向いて白目になると、その顔は別人のような不敵な笑みを浮かべた。
「邪魔するな!」
百目鬼の口から冷酷な響きの女性の声が発せられると、もみじの体は目に見えない霊力に吹き飛ばされた。
「うわああああああっ!」
悲鳴を上げたもみじは、五メートル後方の道路に着地して身構えると、百目鬼に向かって言った。
「狂った表情で走るおめぇの姿を見た知り合いが、おめぇは絶対に悪霊に憑かれているから、何か事件を起こす前に祓って欲しいって連絡をくれて、さっきまでおめぇを追跡してくれていたんだが……、おめぇからは呪いの力は感じねぇ。それに、おめぇは今、人間を超えた力を発揮したが、魔力は全く感じねぇ……。だとすると、可能性はたった一つ……。おめぇ、悪魔に憑かれてるな?」
鋭い目で百目鬼を睨むもみじの頬に、一筋の冷や汗が伝った。
白目のまま不敵な笑みを浮かべる百目鬼の口から、冷酷な響きの女性の声が発せられた。
「ほう? 悪魔憑きを見破るとは、お前、何者だ?」
百目鬼は不敵な笑みを浮かべたまま、もみじに右掌を向け、もみじは緊張の表情で身構えた。
その時、もみじの足先三十センチの舗装から、二本の黒い液体のようなものが飛び出し、長く伸びて細長い左右の腕に変化すると、もみじの左右の手首をそれぞれ掴んだ。
「しまった! 正面の悪魔憑きの右手はフェイントか! 悪魔が地面の下にもう一体隠れてやがった!」
百目鬼の胸から黒い液体のようなものが滲み出ると、長く伸びて薔薇の茎のような棘だらけの触手に変わり、もみじの首に巻きついた。触手は棘を刺しながらもみじの首を絞め、もみじは苦し気に呻き声を上げた。
「ううっ……」
百目鬼の口から、再び女性の声が発せられた。
「百目鬼よ。こいつは、あのうじ虫どもを守ろうとするあいつらの仲間だ! 社会に毒を撒き散らす害虫だ! まず、手始めにこいつを叩き潰せ! この害虫を叩き潰して、お前が世界を救うんだ!」
百目鬼の眼球が下を向き、その目に瞳が出現すると、 百目鬼は再び正気を失ったような嗤い顔を見せ、百目鬼本人の声で不気味な笑い声を上げた。
「うひひひひ……。そうだ。俺は世界を救うんだ。こいつも害虫だ。俺が駆除してやる!」
百目鬼は左手で柄をつかんだツルハシを引きずって、もみじに向かって歩いていった。
もみじは両手首を掴む細長い腕と首に巻きつく触手を外そうとしたが、いくら藻掻いても腕と触手はびくともしなかった。
「ちくしょう! この腕と触手、すげー力だ! 身動きができねぇ! おい、おめぇ! おめぇの中にいる悪魔は、おめぇに人を殺させて、おめぇの人生を破滅させようとしてんだ! それがわかんねぇのか?」
「うひひひひ……。俺の頭の中で響いている声は、神の声だ。神が救世主として俺を選び、世界を救えと言ってるんだ。覚悟しろ、害虫め。うひひひひ……」
百目鬼は狂ったような笑みを浮かべながら、両手でツルハシの柄を掴むと、後ろに大きく振りかぶった。
『ダメだ! こいつ、完全に正気を失ってやがる!』
ツルハシの先端にある鶴の嘴のようなスチール製の尖った部分が、鈍い輝きを放ち、もみじの脳天目がけて勢いよく振り下ろされた。
『ちくしょう! 逃げられねぇえええええええっ!』
一本樹高等学校の一年一組では、生徒たちと英語コミュニケーションの教諭が教室後方の壁の前に身を寄せ合い、恐怖に凍りついた表情で黒板の前で起こっている現象を見つめていた。彼らの視線の先では、三本のチョークと二つの黒板消しと教諭が使っていたタブレット端末が、まるで見えない誰かがジャグリングをしているかのように宙を舞い続けていた。彼らの目には見えなかったが、鏡太朗にだけは、リリィが満面の笑みを浮かべながら、楽しそうにジャグリングをしている姿が見えていた。
さくらと來華は、ただ一人自席に着いている鏡太朗の隣に立ち、黒板の前で展開する超常現象を緊張した表情で睨んでいた。
來華が、鏡太朗とさくらに小声で言った。
「鏡太朗、さくら。魔力や呪いの力は感じないんじゃが……、何者かがあの現象を起こしているのは間違いないんじゃ。じゃが、みんなの前では、戦闘モードに変身して闘うことはできないんじゃ」
「大丈夫だよ、ライちゃん。危険はないから……」
鏡太朗が今にも気絶しそうな意識朦朧とした表情を浮かべながら、疲れ切った力のない声で言った。
キーンコーン、カーンコーン……。
一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴るやいなや、鏡太朗は覚醒し、鏡太朗にしか見えないリリィの隣まで凄い勢いで駆け寄ると、リリィを横抱きにして持ち上げ、教室の戸を開け放って廊下を全力で走り去っていった。
「鏡ちゃん?」
「鏡太朗?」
さくらと來華は呆気にとられて鏡太朗の行動を見つめていたが、間もなく鏡太朗の後を慌てて追いかけ始めた。




