2 頭の中に語りかけるもの
「またあの夢……」
さくらはベッドの上で上半身を起こし、布団に覆われた足元辺りをぼんやりと見つめながら呟いた。
桜の花の柄のパジャマを着たさくらの右側からは、閉め切ったカーテンを通して朝の陽光が差し込み、可愛いぬいぐるみが行儀よく並んでいるさくらの部屋を柔らかい光で満たしていた。
『ヴァンパイアや旋鬼の悪霊と闘ったあの日の夜から、ずっと同じ夢を見る……。とんでもなく強い敵との闘いや、絶体絶命のピンチに直面して、あたしは全然みんなの役に立てていない……。みんなを助けられる力が欲しい……。欲しいよ……』
さくらは、下半身を覆う布団に顔をうずめた。
さくらはふと顔を上げると、右側に目を向けた。視線の先には、学習机の上の棚に置かれた二つ折りの写真立てがあり、その右側にはさくらの父、左側にはさくらの母の姿があった。
「おとーさん……、おかーさん……、あたし、みんなを助ける力が欲しいよ……」
さくらが呼びかけても、写真の中のさくらの父と母は何も言わぬまま、優しく微笑み続けていた。
「百目鬼先生、おはようございます」
一本樹高等学校前のバス停で、路線バスから降りた三十歳くらいの長身の男性に向かって、近くを歩いていたブレザーの制服姿の男子生徒二人が挨拶した。
百目鬼先生と呼ばれた男性は、ちらりと男子生徒たちに目を向けた。
やつれ切った百目鬼の顔は青白く、生きる力を感じさせない死んだような目をしていた。その短い髪はボサボサで、無精髭が生え、シワだらけのYシャツと焦茶色のスラックス、ヨレヨレの茶色のブレザーを身に着けていたが、Yシャツのボタンは一箇所づつズレたボタン穴に留められており、右側の前立てがスラックスから飛び出ていた。
百目鬼は生徒たちには何も言わず、すぐに俯くと、学校へ向かってふらふらと歩いて行った。
二人の男子生徒は立ち止まり、百目鬼の後ろ姿を見つめた。
「なあ、二学期になってから、百目鬼先生、怖くね?」
「ああ、あんなに明るくて、爽やかで、生徒にめっちゃ人気があったのに、最近はいつも暗い顔で、元気がなくて、まるで感情がなくなったみたいだよな。数学の授業もボソボソ一方的に話して、板書するだけで、生徒とは一切会話をしないし、目も合わさないしな。体調が悪いって理由で部活にも来ないから、男子バスケ部の奴ら、めっちゃ困ってたよ」
校門から学校の敷地に入った百目鬼は、周囲を歩く登校中の生徒たちには目もくれず、教職員用玄関に向かって俯いたまま歩き続けた。その足取りは覚束なく、今にも倒れそうなほどふらふらしていた。
『なあ、こいつらみんな、お前のことをバカにした目で見てるぜ』
百目鬼の頭の中に、冷酷さを感じさせる女の声が響いた。
「やめろ……」
『ほら、見ろよ。こいつらみんな、お前があの保護者どもに土下座した話を面白おかしく噂して、お前の姿を見て笑ってやがるぜ』
「やめろ……」
『お前は忘れたのか? 夏休み中に、理不尽な言いがかりをつけて、お前を自宅に呼びつけて、正座しているお前を二時間も一方的に罵倒し続けたあの父親と母親のことを』
「やめろ……」
『お前は何も悪くないのに、その場を収めるために、土下座までして、ひたすら謝り続けたあの屈辱を忘れたのか? あの瞬間に、お前の自尊心を木っ端微塵に打ち砕いたあの怪物のような保護者どもを許せるのか?』
「やめろ……。やめてくれ……」
『なぁ、憎くてたまらないあの保護者どもも、責任と面倒な保護者対応をお前一人にすべて押しつけた教頭も、校長も、同僚も、あの保護者どもの子どもも、お前のことを噂して笑っている生徒たちも、全部ぶっ壊してやろうぜ。全部ぶっ壊したら、すっきりするだろうよ。今の死んだような毎日が終わり、明るく楽しく過ごせる毎日が戻ってくるんだぜ。アタイがお前に力を貸してやるよ』
百目鬼は教職員玄関に近づきながら、頭の中に語りかけてくる声に向かって訊いた。
「お、お前は誰なんだ? あの日からずっと俺の頭の中に語りかけて、俺に復讐するように囁いてくるお前は、一体誰なんだ?」
『アタイかい? お前の味方だよ。この世でたった一人のお前の味方さ。
世の中には、人を傷つけ、踏みにじってでも、自分の要求を通そうとする最低な奴らがいっぱいいるんだ。我が身が可愛くて、そんな奴らの対応を誰かに押しつける奴らも、見て見ぬふりをする奴らも、噂を流して楽しんでいる奴らも、みんなあいつらと同類なのさ。お前だって、わかってるんだろう?
そんな奴らって、この世にはびこる害虫だとは思わないか? なあ、害虫を駆除することは、世の中のためになるんだよ。お前は、害虫から世界を守る救世主なのさ。さあ、アタイが導いてやるよ。今すぐ世界を救うんだよ』
百目鬼は、教職員玄関の手前で立ち止まった。
『お前は、あの害虫どもが、お前の自尊心を土足で踏みにじったあの日以来、なかなか寝つけない浅い眠りの中で、毎日同じ夢を見てるだろう?
お前が、あの害虫どもを駆除して、この世から消し去った夢を。そして、その後には世界中の人間がお前に感謝し、お前を称賛するあの夢を。
あの夢の中で、お前はどんな気持ちになった?』
百目鬼は、目を大きく見開いて顔を上げた。
百目鬼は教職員玄関に背を向けると、校門に向かって猛然と駆け出した。
登校中の生徒たちは、愕然として百目鬼の姿を見つめた。
百目鬼の両目には見た者の背筋を凍らせるような殺気が漲り、正気を失った顔には、狂気に満ちた不気味な笑みを浮かべていた。
「そうだ! あの害虫どもをこの世から駆除してやるぞ! うひひひひ……。あいつらが消えれば、世界はもっと綺麗で住みやすくなるんだ!」
『そうさ。お前が繰り返し見てきたあの夢は、神がお前に使命を伝えるために見せた幻視なのさ! お前は神の幻視で見た通り、害虫どもから世界を救う救世主になるんだ!
さあ、世界を救え! 世界中の人間が、お前の勇気ある行動を今か今かと待ち望んでいるぜ! 世界に害をもたらすあの害虫どもを今すぐ駆除するんだ! 世界中の人間がお前を応援しているぜ!』
「うひひひひ……。俺はあの夢の中で、神が俺に見せた幻視の中で、人生最大の幸せと、喜びと、達成感に満たされたんだ。あの最高に幸せな人生を現実にしてやるぞ! これは神が俺に託した使命なんだ! 俺は神に選ばれたんだ! うひひひひひひひーっ!」
百目鬼は狂気に満ちた表情で、道路を駆けて行った。
始業前の一本樹高等学校の一年一組の教室では、窓際に鏡太朗とさくら、來華、河童、まふゆ、ナツが集まっていた。
「ヴァンパイアの一件以来、何ごともなく二週間が過ぎて、俺はめっちゃ嬉しいよ!」
「うん、うん」
鏡太朗が笑顔でそう言うと、周りの六人が同意して深く頷いた。
「え? な、何で……?」
驚く鏡太朗の目の前には、さくらと來華の間に立つ黒いロリータファッションの黑リリィが笑顔で深く頷く姿があった。
「どうしたんじゃ? 鏡太朗?」
來華たちは、突然驚きを見せた鏡太朗の様子を不思議そうに見つめた。
「み、みんなには見えないの?」
鏡太朗が驚愕の表情を浮かべたまま來華たちに訊いた時、リリィが左手で鏡太朗の右手首を掴んだ。
鏡太朗は、突然さくらたちの前から姿を消した。
「きょ、鏡ちゃん?」
「きゃー太朗が消えただきゃ!」
さくらたちは慌てて周囲を見渡し、鏡太朗の姿を探した。
「ク、クロリリィちゃん、どうして学校に?」
リリィと一緒に校舎の屋上に瞬間移動した鏡太朗は、驚愕の表情を浮かべながら、目の前に立つリリィに訊いた。リリィの正体は悪魔の子クロリリィだが、今は人間の姿をしており、嬉しそうに微笑んでいた。
「鏡太朗と遊ぶために来たのよー。あれからもう二週間も経ったのよ〜。そろそろ鏡太朗も、あたしの愛車に乗りたい頃でしょ〜? さぁ、一緒に行くわよ〜」
「お、俺、これから授業があるから無理だよ!」
「しょうがないわね〜。じゃあ、授業ってのが終わるまで、さっきの場所で待っててあげるわ〜。さあ、さっきの場所に戻りましょう」
鏡太朗は激しく動揺しながら、リリィに訊いた。
「も、戻るって、ま、まさか一緒に教室に?」
「そーよ。何か問題があるかしら〜?」
リリィは不思議そうな顔をして、鏡太朗の問いに答えた。
「問題あるよ! 問題だらけだよ! ここの学校の生徒じゃないと、一緒に授業は受けられないんだよ!」
リリィは悪戯っぽい笑みを浮かべて、鏡太朗に言った。
「今のあたしは、鏡太朗にしか姿が見えないようにしているのよ〜。な〜んにも心配することはないわ〜」
リリィは無邪気な笑顔を見せた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
百目鬼は、殺気漲る目と狂気を感じさせる笑いを浮かべながら、汗だくになって走り続けていた。百目鬼とすれ違った通行人たちは、百目鬼のあまりにも異様な表情を見た瞬間、背筋に冷たいものが走り、目を見開いたまま、凍りついたように身動きができなくなっていた。
『駆除しろ、害虫どもを! 今日こそ、やるんだ! まずは世界中に毒を撒き散らすあの狂った保護者どもからだ!』
百目鬼の頭の中には、冷酷な響きの女性の声が聞こえていた。
「うひひひ……。わかってるよ。あの最悪の害虫どもを最初に駆除してやる。うひひひ……」
『なあ、あれを使おうぜ』
頭の中の声を聞いて立ち止まった百目鬼の右側には、工事中の看板が手前に置かれた狭い路地があり、そこではガス管工事のために舗装が剥がされ、地面が掘り返されており、作業員が集まって打ち合わせをしていた。
百目鬼はその光景を目にした瞬間、見た者を戦慄させるような不気味な嗤い顔を見せた。
「あれ? なあ、ここに置いておいたツルハシを知らないか?」
打ち合わせが終わって持ち場に戻った一人の作業員が、周りの作業員に声をかけた。
「うひひひひ……。このツルハシの尖った先で、まずは家にいる母親をメッタメッタにしてやる。そして、夕方には、学校から帰った子どもと、仕事から帰ってきた父親だ。うひひひひ……」
百目鬼は狂気の笑みを浮かべながら、左手で柄を握ったツルハシを引きずって歩いていた。
『そうだ。あの害虫どもは社会のゴミだ。お前は、これから世の中のためになることをするんだぜ。あいつらがいなくなったら、世界中の人間がお前に感謝して、称賛するだろうよ』
「そうだ。俺は社会のゴミを処分するんだ。俺は、人間社会の秩序を乱すあのゴミどもから世界を救うんだ。うひひひひ……」
すでに正気を失っている百目鬼は、ツルハシを引きずりながら道路を歩き続けた。




