第六話 許可が欲しければ、まず図面を読みなさい
「あの泥まみれの罪人が、この私に条件を突きつけただと!?」
エルドラド帝国の気高き皇宮、その一角にある皇太子の執務室。ルードヴィヒ殿下は、アローザから戻った使者の報告を聞くや否や、豪華な黒檀の机を凄まじい勢いで叩きつけた。
机の上のインク瓶が激しく揺れ、数滴の黒い染みが、床の最高級絨毯へと撥ねる。
「『相応の対価を支払え』だと!? 挙句の果てには『宮殿と心中しろ』だとぉ! ヴァン・アローザの家名を剥奪され、泥の中に這いつくばる身でありながら、どこまで傲慢なのだ、あの女は!」
「殿下、どうかお心を静めてくださいませ。エレーナ様はきっと、ご自分が帝都から追い出されたことを根に持って、少しおいたが過ぎるだけですわ」
激昂するルードヴィヒの隣で、可憐な白い神官服に身を包んだミカが、絹のような声でその肩をそっと撫でた。その漆黒の瞳の奥には、ルードヴィヒには見せない、冷酷な嫉妬の炎が揺らめいている。
「ミカ……お前は本当に優しいな。だが、あの女の増長はもはや見過ごせん。隠密からの報告によれば、黒土領には魔法の補強を一切受けていない奇妙な石の橋や、平民どもが群れて暮らす巨大な長屋とやらが次々と建ち並び、トリアの商人どもが莫大な富を運び込んでいるという。我が帝国の繁栄を支える魔法の権威を、根本から否定する不穏な動きだ」
ルードヴィヒは忌々しげに歯噛みした。
じつは、帝都の状況は一刻の猶予もなくなっていた。長年にわたり皇宮魔導士たちの魔力で無理やり維持されてきた巨大な魔法宮殿は、基礎構造の老朽化による歪みが限界に達しつつあった。ここ数か月、壁や柱に不自然な亀裂が走る頻度が爆発的に増えており、宮廷建築局の無能な技術者たちは、魔力の供給量を増やすこと以外に対策を持ち合わせていなかったのだ。
「フン、ならば力ずくで思い知らせてやる。アローザがどれだけ経済的に自立しようとも、所詮は帝国内の一領地に過ぎん」
ルードヴィヒは冷酷な笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙に最高権力者の朱印を強く押し付けた。
「直ちに黒土領に対する『一斉建築資材禁輸令』を発令せよ! 帝国内のすべての商会に対し、アローザへの良質な木材、鉄鉱石、石灰の販売および輸送を全面的に禁止する。さらに、アローザと取引を行う商人は国家反逆の加担者とみなし、即座に全財産を没収せよ! 資材という兵糧を絶たれてなお、あの女がその涼しい顔を維持できるか、見ものだな」
皇太子の放った経済制裁の鉄槌は、瞬く間にアローザの街へと届いた。
「大変だ、エレーナ! 帝都の商会から一斉に、注文していた建築用鉄材と、基礎補強用の高品質な石灰の納品を全面キャンセルするって通知が届いた!」
アローザ建築工房の作戦室。開け放たれた扉から、息を切らせたダリオが飛び込んできた。その後ろには、顔を青くしたトリアの商業ギルドの幹部たちも控えている。
「エレーナ様、申し訳ありません……! 我々トリアの商会も、アローザへの資材搬入を直ちに停止しなければ、帝国軍に全財産を没収されると脅迫を受けました。これ以上、表立って資材を運び込むことは不可能です!」
作戦室に重苦しい沈黙が広がる。現在、アローザでは第二号、第三号となる共同住宅の建設に加え、新しく流入してきた難民たちのための「公共市場」の大規模基礎工事が始まったばかりだった。鉄材と石灰(セメントの原料)の供給が止まれば、すべての工事は完全にストップし、職人たちは失業し、街の成長は瞬時に凍結してしまう。
誰もが「ついにここまでか」と絶望の表情を浮かべる中、製図台に向かって新しい区画図を引いていた私は、鉛筆を動かす手を止め、ふぅと小さく息を吐き出した。
「慌てないでちょうだい、ダリオさん。トリアの皆さんも、お顔を上げてくださいませ」
私はゆっくりと振り返り、完璧に上品な微笑みを浮かべた。その瞳には、焦りの色は一欠片もなかった。
「ルードヴィヒ殿下なら、十中八九その程度の浅はかな制裁(嫌がらせ)を仕掛けてくると思っていましたわ。資材の禁輸? 結構なことですわ。帝国の錆びついた鉄や、不純物だらけの石灰など、最初からこちらの最新設計には過分な代物ですもの」
「おいおい、エレーナ。強がりを言ってる場合じゃないぜ」
部屋の壁に寄りかかり、腕を組んでいたレイヴンが、苦笑混じりに口を開いた。
「鉄がなきゃ、コンクリートの引っ張り強度(引張応力)を担保する芯材が作れねえ。石灰がなきゃ、川底の基礎を固める水硬性モルタルが作れない。現地の砂岩をダリオたちがいくら削ったところで、それを繋ぎ止める『接着剤』がなきゃ、これ以上の巨大建築は不可能だ。あんたの頭の中に、鉄や石灰を無から生み出す魔法でもあるのか?」
「魔法など必要ありませんわ、レイヴン」
私は製図台の上から、黒土領の精緻な地質図を取り出し、その一角をコンパスの針で強く叩いた。
「鉄がないなら、木を鉄以上の強度に変えればいいのですわ。皆さんは、この黒土領の北側、隣国との国境沿いにある『鉄樺の原生林』をご存知かしら?」
「鉄樺だと?……ああ、あのクソ硬くて、斧を入れたら火花が散るっていう、使い物にならない厄介な木のことか?」
ダリオが怪訝そうに眉をひそめる。
「そうですわ。あの木はあまりの硬度ゆえに、帝国の木造建築からは加工不可能なゴミとして排除されてきました。ですが、前世の……いえ、私の知る最新の木材加工技術『圧縮木材(強化積層材)』の理論を使えば、話は別です。鉄樺の薄板を乾燥させ、現地の特異な粘土から抽出した天然樹脂を浸透させて何重にも高圧でプレス(圧縮)すれば、重量は鉄の数分の一でありながら、引張強度は一般的な鋼鉄に匹敵する『超強度木質構造材』が作れますわ。これを鉄筋の代わりにコンクリートの芯材(竹筋コンクリートの応用)として使用します」
「木を圧縮して、鉄の代わりに……?」
レイヴンが息を呑んだ。建築士としての彼の直感が、私の言葉の裏にある凄まじい合理性を瞬時に理解し始めていた。
「さらに、セメントの禁輸にいたっては、もはや笑い話ですわ。この黒土領の粘土や、現地で得られる鉱物には、建築材料として利用できる可能性があります。既存の結合材と組み合わせ、配合や硬化後の強度を試験すれば、帝国から輸入していたセメントに代わる材料を開発できるかもしれません」
「帝国の利権に頼らずに、この泥の中から、鉄もセメントも自前で造ろうって言うのか、あんたは!」
ダリオが絶叫した。職人たちの間に、まるで神の啓示を聞いたかのような凄まじい衝撃が走り抜ける。
「建築とは、その土地にある素材を愛し、その性質を最大限に引き出す科学ですもの。帝国の制裁は、我がアローザ建築工房の『完全なる技術的自立』を促す最高のキッカケに過ぎませんわ。トリアの皆さん」
私は、驚愕のあまり硬直している商人たちに向き直った。
「帝国との取引は今すぐすべて停止なさい。その代わり、開発に成功した暁には、『超強度木質建材』と『ポゾランセメント』の周辺諸国への独占輸出権を、あなた方に優先的にお渡ししますわ。帝都の狭い市場にへりくだるより、我がアローザと共に、世界の建築市場を支配する方が、商売人として何百倍もエキサイティングだと思いませんこと?」
商人たちの目の色が、一瞬にして貪欲な「大商人の目」へと変わった。
彼らは机の上の地質図と、私の完璧な設計図を交互に見つめ、ゴクリと唾を飲み込むと、一斉に私に向かって深く頭を下げた。
「……アローザ建築工房長、エレーナ様。我々トリアの商業ギルドは、これより全財産と全流通網を、アローザの未来へと投資いたします!」
だが、新しい建材の開発は、私の想像以上に難航した。
最初に試作した鉄樺の強化積層材は、圧縮試験ではじゅうぶんな強度を示したものの、吸水による耐久性を確かめる試験では、接着した木材の層が剥がれてしまったのだ。
「……駄目ですわね。このままでは、長期間使用する構造材として採用できませんわ」
私は試験台に残された木片を見つめた。
「お嬢様、もう一度同じものを造り直すか?」
ダリオが尋ねる。
「いいえ。同じ条件で繰り返しても、結果は変わりません。まず原因を調べましょう」
「だったら、乾燥の仕方から見直したらどうだ?」
レイヴンが木材の断面を指さした。
「外側は乾いていても、中心にはまだ水分が残っていたのかもしれねえ。そいつが接着を邪魔してるんじゃないか?」
「……なるほど」
私は木片を手に取り、断面を注意深く観察した。
「確かに、その可能性はありますわね。乾燥条件と接着剤の配合を変えて、比較試験を行いましょう」
「よし。だったら俺たちも手伝うぜ!」
ダリオが腕まくりをした。
私は思わず微笑んだ。
前世の知識があっても、この世界の素材が同じように使えるとは限らない。
けれど、それでいい。
失敗の原因を一つずつ確かめ、より確かな技術へと磨き上げていく。
それこそが、建築士としての私が最も大切にしてきた仕事なのだから。
何度もの試験を経て、ついに必要な性能を満たす建材が完成した。
☆
皇太子の資材禁輸令が発令されてから数か月。
ルードヴィヒが期待した「エレーナが泣き叫んで許しを乞う報告」は、帝都には一向に届かなかった。それどころか、隠密がもたらすアローザの最新状況は、ルードヴィヒの正気を疑わせるにじゅうぶんなものだった。
「なぜだ! なぜアローザの工事が止まらない!? 木材も鉄も石灰もすべて遮断したはずだぞ!」
宮殿の執務室で、ルードヴィヒは報告書を乱暴に引き裂いた。
報告書には、アローザの街に以前よりもさらに巨大で頑強な「白い公共市場」が完成し、トリアの商人たちが「魔法を一切使わない最新の建材」を、隣国ローザン連邦へと莫大な価格で横流しして、巨万の富を得ているという事実が記されていた。
「殿下……、アローザの平民どもは、泥を焼いた奇妙な粉と、厄介者の硬い木を使って、帝国のものより頑丈な建物を自分たちだけで建てているようです。もはや我が帝国の資材流通など、彼らには一秒も必要ない模様で……」
「おのれ、おのれエレーナぁぁッ!」
ルードヴィヒが怒り狂う中、帝都の足元は、文字通り物理的に崩壊し始めていた。
その日の午後、皇宮の大広間で、大規模な「魔法障害(魔力収縮)」が発生した。皇宮魔導士の一人が過労で倒れた瞬間、彼が担当していた天井アーチの魔法補強が一時的に途絶。
ズガガガガッ!
轟音と共に、私が亀裂を指摘したあの大理石の柱の上部が、無残にも激しく損壊し、崩落した天井の破片が夜会用の大床へと降り注いだのだ。幸いにも死者は出なかったが、宮殿の権威は完全に失墜し、王都の住民たちの間には「魔法の宮殿が崩れる」「聖女の結界は嘘だったのか」という凄まじい恐怖と不信感が広がり始めていた。
「待って、全部、皇太子様に言われたことなの! 私の魔力は完璧よ、宮殿が壊れたのは建築局の奴らの魔力供給が怠慢だったからだわ!」
ミカが髪を振り乱して言い訳を叫ぶ中、追い詰められたルードヴィヒは、ついに自尊心を完全にへし折られ、青ざめた顔で震えるペンを握った。
「……こうなれば、背に腹は代えられん。エレーナに、アローザのあの『崩れない技術』を、今すぐ帝都に持ってこさせろ! 救援を、救援を要請する!」
帝都が混乱の極みに達する中、アローザの街の記念広場には、完成したばかりの「白い公共市場」の見事な大ドームが、朝陽を浴びて神々しく輝いていた。
柱が一本もない、幾何学的なシェル構造によって実現した、広大で清潔な大空間。そこには、数え切れないほどの商人が店を並べ、活気ある民衆の声が響き渡っている。
「本当に綺麗な建物だ……。魔法の不気味な光もないし、何より、いつ崩れるかって怯える必要が全くない」
市場を訪れた平民たちが、感嘆の声を漏らす。
その市場を見下ろすテラスで、私はレイヴンと並んで、淹れたてのコーヒーを口にしていた。
「見事なもんだな、エレーナ。帝国の禁輸を逆手に取って、完全な自給自足の工業都市へとアローザを進化させちまうとは。ダリオたち石工も、今じゃ誇らしげに『俺たちは最先端の建築技術者だ』って言いながら、毎日セメントの配合を変えて楽しんでるぜ」
レイヴンが私の横顔を見つめ、優しく微笑んだ。作業着姿の彼の肩が、私の肩と心地よく触れ合う。
「建物は裏切りませんもの、レイヴン。正しい技術と、それを支える職人たちの幸福があれば、どんな利権(権力)の壁も必ず乗り越えられますわ」
その時、広場の入り口に、数日前の華麗な姿とは打って変わって、泥と埃に塗れた帝国建築局の使者が、命からがらといった様子で馬を乗り込んできた。
使者は私の前に転がり込むと、ルードヴィヒ直筆の、涙で滲んだ「救援要請書」を震える手で差し出した。
「エ、エレーナ様……! 皇太子殿下、および帝国建築局からの平伏の懇願でございます! 帝都の宮殿が崩壊の危機に瀕しております! どうか、どうかアローザの技術者たちを率いて、王都を、帝国の命脈を救ってくださいませ!」
かつて私を「国家反逆の罪人」として断罪し、泥の辺境へ追放した男からの、惨め極まる命乞い。
テラスを取り囲んでいたアローザの職人や領民たちから、「ざまぁみろ!」「今さら助けてくれだと!?」という激しい嘲笑と怒号が沸き起こる。
誰もが私が「拒絶」の言葉を突きつけると確信していた。
だが、私はその要請書を受け取ると、ゆっくりと立ち上がり、アローザの街並みをまっすぐに見つめた。
「エレーナ、行くのか?」
レイヴンが、少し心配そうな、だが私の意図をすべて理解しているような瞳で私を見つめる。
「ええ、行きますわ、レイヴン」
私は道具袋を腰に強く巻き直し、集まったアローザの誇り高き職人たちに向き直った。
「皆さん、誤解しないでちょうだい。私は、あの無能な皇太子や、嘘つきの聖女を助けに行くのではありませんわ。私は、王都で暮らす無数の、何の罪もない平民たちの命と生活を守るために行くのです。建物を利権の道具にし、民を犠牲にする腐った魔法建築の時代は、今日この瞬間をもって終わりですわ」
私は使者を見下ろし、凛とした、大地をも揺るがすような声で言い放った。
「皇太子殿下にお伝えなさい。『エレーナが、アローザの最新技術をもって、滅びかけているその帝国を、今度こそ人が安全に暮らせる本物の国に造り直して差し上げます』……とね!」
「おおおおおッ!」
アローザの職人たちから、地鳴りのような、そしてこれまでのどの瞬間よりも凄まじい決意の勝鬨が上がった。
レイヴンが私の隣に立ち、その無骨な手で私の手を強く、しっかりと握り締める。
公爵令嬢としての過去との決別、そして、この世界の建築の常識を覆す「新時代への進撃」が、今ここから始まろうとしていた。




