第十三話 敵の街でも、救うべき人はいます
皇宮の最地下から地上へ戻った私たちは、街の異変を知るなり、職人たちを率いて東側の平民街へと急行していた。
「――水道が破裂したぞ! 壁が崩れてくる! 誰か、誰か助けてくれ!」
だが、現場に到着した私たちの目に飛び込んできたのは、想像をはるかに超える惨状だった。
そこは、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
私とレイヴンが皇宮最地下の古代魔法装置を物理的に完全停止させた瞬間、帝都全域を無理やり繋ぎ止めていた「魔法の接着剤(魔力)」は完全に消失した。その結果、長年放置されてきた基本構造の歪みが一気に噴出し、特に劣悪な環境に置かれていた平民街の木造長屋や粗末な石壁が、ドミノ倒しのように次々と自重で崩壊を始めたのだ。
「エレーナ、東第二区の状況は最悪だ! 魔法の水道管が破裂して、平民たちの家が水浸しになってる。このままだと水圧で周囲の建物の基礎が泥化(液状化)して、さらに大規模な不同沈下が起きるぞ!」
泥と漆喰の粉にまみれたレイヴンが、崩落した瓦礫の陰から走ってきて叫んだ。
「慌てないでちょうだい、レイヴン! 職人の皆さん、アローザから持参した高強度ポゾランセメントと、鉄樺のトラス補強材を現場へ投入しなさい!」
私は安全帽の紐をきつく締め直し、メガホン代わりの円錐の紙筒を手に取って大号令を下した。
「ここはかつて私たちを追放した『敵の街』かもしれませんわ。ですが、あそこで泣き叫んでいる平民たちには、魔法の利権など何一つ関係ありません。救うべき人が目の前にいるのなら、技術を出し惜しみしては一級建築士の名が泣きますわよ!」
「おうよ! 工房長(お嬢様)の言う通りだ! 魔法のヘタレどもに、本物の現場ってやつを見せてやれ!」
ダリオの雄叫びを合図に、白い安全帽を被ったアローザ建築工房の精鋭たちが、一斉に崩壊する平民街へと突入していった。
重い石の雨が降るなか、職人たちは命綱を互いに結び合い、一寸の狂いもない手つきで鉄樺の骨組みを傾いた長屋の柱へと噛み合わせていく。物理の法則に基づいたトラス構造は、上からの圧倒的な破壊のエネルギーを完璧に地面へと受け流し、建物の倒壊の進行を一時的に食い止めてみせた。
さらに、破損した給水路には仮設の止水板が取り付けられ、水の勢いが弱まったところへ、補修用の注入材が次々と送り込まれていく。激しかった浸水が少しずつ収まり、職人たちの間から安堵の声が上がった。
「助かった……本当に、あの白い帽子の人たちが、俺たちの家を支えてくれたんだ……!」
避難が遅れ、瓦礫の陰で震えていた無数の平民たちが、アローザの完璧な施工を前に、呆然と涙を流して感謝の声を上げた。魔法という不確定な力ではなく、職人の腕前と緻密な計算だけで街が再生していく光景は、民衆の心に「新しい時代の到来」を確信させるにじゅうぶんだった。
☆
平民街の応急架設(救援作戦)が一段落したその日の夕暮れ。
赤く染まった瓦礫の通りの向こうから、数人の護衛を従えた、一人の初老の貴族が厳かに姿を現した。
金糸の刺繍が施された豪華な外套。威厳に満ちたその顔立ちは、記憶にある私の「実の父親」――ヴァン・アローザ公爵その人だった。
「実に見事な差配だな、エレーナ」
公爵は泥とセメントの粉で汚れ、腰に道具袋をぶら下げた私の姿をじっと見つめ、低く重厚な声を響かせた。
「皇太子ルードヴィヒと聖女の暴走を地下で止め、さらにこの大混乱の帝都を書類と数式だけで救ってみせるとは。さすがは我がヴァン・アローザ公爵家の血を引く娘だ。お前のその『魔法のいらない建築技術』の価値、この私が直々に認めてやろう」
公爵は一歩前に出て、傲然と両手を広げた。
「エレーナ、お前のヴァン・アローザ公爵家への復籍(帰還)を許してやる。今すぐそのアローザ建築工房のすべての利権を我が公爵家へと差し出し、私と共に、この崩れかけた帝国の新たな建築大臣として、新制度の頂点に立とうではないか。お前を追放したルードヴィヒはもう終わりだ。これからは我が公爵家が、お前の技術を使ってこの国を支配するのだ」
実の父親から提示された、公爵令嬢としての地位の復権、そして帝国の頂点への誘い。
かつて身分制度の壁に阻まれていた令嬢であれば、泣いて縋り付いたであろう言葉。
しかし、私の隣に立つレイヴンが不快そうに玄能の柄を握りしめるなか、私はフッとかつてないほど冷徹で、哀れみに満ちた笑みを実父へと向けた。
「ヴァン・アローザ公爵。あなた、本当に何も見えていらっしゃらないのね」
「何だと……?」
公爵が怪訝そうに眉をひそめる。
「私は以前、最高議会でも申し上げましたはずよ。私の技術は、もう二度と、あなた方利権貴族(身分制度)のものではない、と。……あなたは私を『我が家の血を引く娘』とおっしゃいましたが、冗談じゃありませんわ。私に国家反逆の汚名を着せ、泥まみれの辺境へ追いやったのは、他ならぬあなた方ではありませんの?」
私は一歩前に踏み出し、腰の道具袋をパンと叩いた。
「私が血の滲むような思いで築き上げたアローザの技術は、貴族が民を支配するための道具(接着剤)ではありません。この大地に生きるすべての職人が、平民が、自分の足で安全に暮らすための『科学』ですわ。あなたのような、崩れゆく利権の泥舟にしがみつくしか脳のない老兵に、我が工房の設計図(未来)を渡すつもりは一平方ミリメートルもございませんわよ」
「貴様……! 実の父親に向かって、なんという不遜な言葉を! ヴァン・アローザの血統を拒絶して、この先どうやって生きていくというのだ!」
公爵が顔を真っ赤にして激昂する。だが、その威圧は、今の私にはあまりにも脆いハリボテにしか見えなかった。
「私は公爵令嬢エレーナではありません。『アローザ建築工房長』のエレーナですわ」
私は冷たく言い放つと、完全に実父に背を向け、夕闇に染まる平民街の現場へと歩き出した。
「さようなら、ヴァン・アローザ公爵。どうぞ、その錆びついた血統のプライドと共に、古い時代の瓦礫の中に埋もれておしまいなさい」
「エレーナ! 待て、エレーナァァッ!」
実父の惨めな絶叫を背中で聞き流しながら、私は一度も振り返らなかった。
私の隣に並んだレイヴンが、白い歯を見せて、私の肩をその大きな手で力強く引き寄せる。その無言の温もりこそが、私の進むべき道が正しいことの、何よりの証明だった。




