第十二話 皇太子殿下、崩れるのは建物だけではありません
「クソッ、硬すぎる! びくともしねえ!」
暴走する青白い魔力の光が渦巻く中、レイヴンが全身の筋肉を激しく収縮させ、悲鳴のような声を上げた。
私たちがいるのは、巨大な球体装置の裏側だった。
正面の制御壇では、ルードヴィヒ殿下とミカが必死に装置を操作している。その反対側、無数の魔導管が床下へと伸びる場所に、古代魔法装置の出力を物理的に遮断するための巨大な緊急遮断弁が設けられていた。
それは千年間、一度も動かされた形跡がなく、長年の魔力固着と鉄錆のせいで、大人の男数人がかりでもビクともしないほど完全に固着していた。
上空の天井からは、さらなる大規模崩落の予兆である無数のヘアライン・クラック(網の目状の亀裂)が走り、拳大の石の雨が容赦なく私たちの安全帽を叩いている。
「レイヴン、力任せに回しては駄目よ! 錆びついたネジの最大静止摩擦力は、純粋な引張応力だけでは突破できませんわ!」
私はボロボロになったドレスの裾を気にすることなく、泥と油にまみれた床に膝をつき、腰の道具袋(腰袋)から「一枚の頑強な長尺の鉄製レンチ(大型レバー工具)」を引っ張り出した。アローザの鍛冶職人に最新の規格で作らせた、高強度の特殊鋼工具だ。
「これを使ってちょうだい! 作用点を極限まで遠ざければ、梃子の原理によって、あなたの生み出す回転モーメント(トルク)は何倍にも跳ね上がりますわ!」
「なるほど、梃子の原理(物理の力)か! 合点がいったぜ、エレーナ!」
レイヴンは白い歯を見せて不敵に笑うと、私が差し出した長尺レンチのソケットを、錆びついたバルブの突き出し部へとガチリと噛み合わせた。
「エレーナ、あんたも一緒に握れ! 二人の荷重を同時にかければ、どんなクソ硬い利権のネジだろうがへし折れる!」
「ええ、望むところですわ!」
私はレースの手袋を躊躇なく引きちぎり、素手でレイヴンの鉄錆に汚れた大きな手の上に、自分の手を重ねた。現場の泥と汗が混じる彼の皮膚の熱が、私の手のひらを通じてドクドクと心臓へ伝わってくる。
「せーの、で引くわよ! 物理の法則を、一級建築士の意地を舐めないでちょうだい!」
「おおおおおおおッ!!」
二人の絶叫が、地下空洞に木霊した。
私の体重と、レイヴンの天才職人としての凄まじい膂力が、長尺レンチの長い柄を通じて、一点の作用点へと完璧に集中していく。
ギギ、ギギギギギギギギギギッッ……!!!
金属が悲鳴を上げるような悍ましい摩擦音が鳴り響き、バルブの根本から千年の垢である魔力結晶が火花となって飛び散る。
そして。
ガキンッ!!!
固着していた鉄の接合面が物理的に破断し、バルブがゆっくりと、だが確実に回り始めた。
「回った! 一気に締め落とすぞ、エレーナ!」
「ええ、遮断なさい!」
グルグルと、二人の手で巨大なバルブを限界まで回しきる。最後の半回転を力強く押し込んだその瞬間、カチリと、物理的な噛み合わせが完了する音が響いた。
その瞬間。
血管のように皇宮の最地下をのたうち回っていた無数の魔導管の脈動が、ピタリと停止した。
キーーーーン……ッ。
空間を支配していたあの嫌な高周波音が消え去り、古代魔法装置の輝きが、スーッと急速にフェードアウトしていく。暴走していた青白い光の奔流は行き場を失い、断末魔の火花を散らしながら、中央の球体の中へと完全に収縮していった。
静寂。
ひんやりとした、ただの地下の泥と石の匂いだけが、暗闇の中に帰ってきた。
「……止まった。本当に、魔法を物理の力でお黙らせしちまったな」
レイヴンが肩で息を突きながら、長尺レンチを床に放り出した。カランと響いた金属音が、終わりの合図だった。天井からの崩落も完全に止まり、帝都の全地盤を陥没させようとしていた液状化のストレスは、その場で完璧に凍結されたのだ。
「ええ。建物は嘘をつきませんもの。そして、正しい構造計算もまた、決して裏切りませんわ」
私は汗ばんだ額を手拭いで拭い、フッと安堵のため息を漏らした。
「う、嘘よ……私の、私の聖女の結界が、光が消えちゃったわぁぁぁ!!」
暗闇の向こうから響いたのは、床にしがみつき、髪を振り乱して泣き叫ぶミカの、惨め極まる悲鳴だった。制御壇は黒く焦げ付き、彼女が誇っていた神様からの「奇跡」は、完全にその使用期限を迎えて消滅していた。
「お、おのれエレーナ……! よくも、よくも我が帝国の利権の心臓を、千年の繁栄を壊してくれたな!」
玉座の幻影に囚われた皇太子ルードヴィヒが、青ざめた顔でガタガタと震えながら、私を指さして絶叫した。衣服は泥と石粉でボロボロになり、かつての気高き皇太子の面影などどこにもない。
私はそんなルードヴィヒに対し、氷よりも冷徹で、そして圧倒的な勝者としての視線を突き刺した。
「ルードヴィヒ殿下。崩れるのは、建物だけではありませんわ」
私は一歩、彼らの前に歩み出て、凛とした声で言い放った。
「あなた方が地方の平民を犠牲にして貪ってきたその歪んだ権威、そして身分制度という名の欠陥だらけの利権構造もまた、今この瞬間をもって、物理の法則に従って完全に崩壊いたしましたのよ。自業自得という言葉を、その身に刻んで絶望なさい」
私の凄まじい気迫の前に、ルードヴィヒはついに一言も返せず、力なくその場に崩れ落ちた。
地下の轟音を聞きつけ、松明を掲げて恐る恐る最地下空間へと突入してきた、ダリオ率いるアローザ工房の職人たち、そして事態を察して集まってきた帝国の若手官僚たちが、暗闇の中で完全に沈黙している装置と、へたり込んだ皇太子たちの姿を目撃した。
「……止まってる。あの化け物みたいな装置が、完全に止まってやがる……!」
ダリオが、信じられないといった様子で呟いた。
「エレーナ様とレイヴンが、本当に帝都を、俺たちの命を救ってくれたんだ!」
傍らの若い職人が、歓喜の声を上げた。
次の瞬間、地下空洞の割れんばかりの歓声が、石壁を揺らした。
「エレーナ様万歳!!」
「アローザ建築工房万歳!!」
職人たちが泥まみれの安全帽を掲げて飛び跳ね、涙を流して喜んでいる。
私はレイヴンと視線を合わせ、小さく微笑んだ。彼が無骨な手で私の肩をそっと抱き寄せ、心地よい熱が身体を包む。
こうして、千年の大帝国を縛り続けてきた嘘の心臓(古代魔法装置)は、魔法を一切使わない「物理の力」によって完全に機能停止した。




