10.隙間
エントランスを軽やかに横切り、迷いなくエレベーターへと飛び込んだ。閉まりゆく扉の向こうに白瀬の歪んだ表情が見え、慌ててドアを開く。一番大きい数字のボタンを押すと、ドアが閉まり動き出した。
しばらく待つと、エレベーターが止まり、ドアが開く。
「エリート君、こっちだよ!」
軽やかなステップで廊下に降り立った星月は、重い足取りの白瀬を手招きした。早くあの隙間を埋めたい一心で、白瀬を待つ。
「本当に、最上階なんだな……」
星月は慣れた手つきでドアを開け、靴を放り投げて振り向いた。白瀬は箱を置き、背筋を伸ばす。その後、靴を綺麗に揃えて置いている。
何故だか自分の靴がひどく無様に見えた。何度か交互に視線を走らせた後、靴を拾い上げ、綺麗に揃えて置いた。
——おっきくなった感じ、するね!
白瀬の靴と自分の靴を眺め、首を縦に振り、満足したような表情を浮かべる。
「どこに置けばいいんだ?」
隣に立っていた白瀬が問いかけた。廊下には複数のドアが並んでおり、星月は、一番右奥のドアを指さした。
「お水さん、こっち!」
肩を上下させ、ご機嫌なステップで部屋に辿り着く。ドアノブに指をかけ、開けるとともに風が舞い、さらりと髪を揺らした。少し遅れて白瀬が箱を持ちながら部屋の前に立ち尽くした。
「こ、これは……」
鈍い音を立てて箱が床に転がり、白瀬が呆然と立ち尽くす。星月は素早い動作で音が鳴った方を確認した。少し箱の形が崩れていたが、中身に問題はないようで安心した。
「どういう、こと……なんだ……」
質問の意図が分からず、星月はただただ立ち尽くしていた。どういうこと?一体なにがどういうことなのか、理解できなかった
「な、何なんだ。この部屋は」
白瀬がゆっくりと後ずさり、やがて行き場を失い、壁にぶつかった。瞬き一つしない白瀬を横目に、星月が水の箱を引きずって隙間を埋めた。
「るんるんさんだね!」
白瀬の方に戻ると、彼は口をパクパク動かして固まっていた。金魚の真似をしているのかと思ったが、それなら上を向いているはずだと思った。
「なぜ、一部屋、全て水の箱で……埋め尽くされて……」
白瀬が部屋と星月を交互に見ている。星月は後ろを振り向くが、何も変わった様子はなかった。変わったことがあるとすれば、隙間が埋まったことしか考えられない。
「お水さん、いっぱいでるんるんさん!うれしー!」
一切瞬きを見せない白瀬を少し心配した瞬間、彼が急にしゃがみ込んだ。何事かと思い、星月もしゃがんで額をこつんと白瀬の額に重ねた。
「んー。あつあつさん?」
額を離し、問いかける。少し待つと、白瀬から大丈夫だと、小さく返事が聞こえた。
水の箱が何段も重ねられ、隙間なく埋め尽くされた部屋に戻り、水を数本取り出した。
「エリート君、てくてくするよ」
白瀬が力なく立ち上がる。星月が持っていたペットボトルを一本ずつ白瀬が取る。星月の腕からペットボトルが無くなった。
「あ、あぁ。これは、冷蔵庫に……?」
小さく頷いた星月は、自身の影を追うように歩き出す。
「こっちー!」
躊躇いなく重厚なドアを開け放ち、小さな足取りで冷蔵庫の元へ距離を詰めた。
「あれ、エリート君?」
後ろにいるはずの白瀬が見えず、首を左右に振り回す。道に迷うはずが無いので、また勝手にゲームを始めたのかと思った。
「あれー?かくれんぼかな?」
開け放たれたリビングの扉の前で、立ち尽くす白瀬の姿があった。これで隠れているつもりなら、エリート君の称号を剥奪するか検討しなければと思った。
「エリート君!みーつけた!」
凍り付いたように動かない白瀬の肩を揺らすが、微動だにしなかった。固まっている白瀬を中心に歩きながら観察する。また違う遊びを始めたのかもしれなかった。
「……君は……なんなんだ、この部屋は。いや、ここも、あそこも……」
白瀬の視線がキョロキョロ泳ぎ、星月を捉える。どうやら遊びを始めたわけではなかったようだ。
「それで……水は、どこに……」
——今日もふしぎさん?
白瀬が部屋の中を確認するように、左右に首を振っている。一向に動く気配が無かったため、白瀬の肩を優しく叩き、冷蔵庫の方を指さした。
白瀬が付いてきているか確認しながら、冷蔵庫との距離を潰していく。
「また無駄にでかい冷蔵庫だな……」
銀色のドアに指を掛け、勢いよく開けた。心地良い冷気が星月の顔を包む。
「ここ!隙間さんに入れてほしい!」
冷蔵庫の中を見てから、星月と視線が交わった。ニコッと白瀬に向かって微笑みかける。
「星月。君は、俺をからかっているのか?そう……なんだろ?」
確かに、今日の白瀬の表情はよく動く。からかいたくもなるものだと思った。
「なんの、冗談なんだ。どう、説明、おい、ほしづ——」
冷蔵庫の中を確認するが、いつも通り水のペットボトルが敷き詰められているだけだ。それとも、星月には見えていない面白いものが入っているのかと思い、中を注意深く見渡してみたが、ところどころラベルが違うだけで期待したものはなかった。
「お水さん、たくさん嬉しいね!」
冷たい冷気の中に腕を突っ込み、キャップを撫でるように撫でまわした。隙間がなくなったおかげで指が落ちる心配がなくなった。
「うんうん!みんな仲良く、るんるんさんだ!」
白瀬を見ると、汗でびっしょり濡れていた。部屋はエアコンが効いているし、冷たい空気が冷蔵庫からも流れている。余程の熱がりなのか、それとも本当に熱があるのか。星月には判断ができなかった。
「エリート君、あつあつさん?」
汗で濡れた白瀬の額に手を重ねる。確かに少し熱いような、そうでもないような。そんな感触だった。
「ひやひやさん、する?」
白瀬の大きな手が肩を掴み、冷蔵庫から流れる冷気を遮るように、視界を埋め尽くす。星月は抵抗もせず、ただ微笑み、彼の目を優しく見据えた。
遊びたいのか、話したいのか、どちらかを見極めているようだった。
「星月。君が普通でないことは、わかっている。しかし……これは、この部屋、いや、この家は——」
「生活感が、まるで無い」
静寂が空間を支配する中、白瀬の言葉が響き渡る。白瀬が何かを疑問に思っているらしいことだけは理解した。
「不適切なのは、承知しているが、キッチンの棚の中を見させてほしい」
星月は無機質なキッチンの奥へと視線を滑らせ、白瀬へと引き戻す。特に見られて困るものは何もなかった。そんなに気になるのなら、家の中を案内してあげようと閃き、後で提案しようと思った。
「うん!エリート君、お好きにどーぞ!」
宝を隠したつもりは無いが、何かを探したいらしいことはわかった。どうせなら何か入れておけばよかったと、少し後悔したが既に白瀬は棚を開けたり締めたりし始めている。隠すために部屋を少しの間出て行ってもらおうか真剣に数分悩んでいた。
しばらくすると、白瀬が星月の前に立っていた。
「この部屋で、聞きたいことがあるんだが、いいか?プライベートに踏み込むつもりは無いが……生活感が無いどころではない。不自然すぎる。
まず、ものが無さすぎる。ミニマリストなのだろうが、それでも、無さすぎる」
星月は部屋を見渡した。
走り回ることができるであろうリビング。それに負けず劣らずの広さのキッチン。見慣れた景色が広がっていた。
「パソコンに、マイク、カメラ。大きな鏡。配信をしていそうなのは、なんとなくわかる」
星月は少し前から思い付きで配信活動を始めていた。登録者数は100万人を超え、莫大な収益を得ている。
「冷蔵庫が無駄に大きいのは、金があるだけ。理解できる。しかし、それしかない。配信機材と、冷蔵庫。ここは、リビングだろう?それだけのこと、あり得るか?」
約500L入る自慢の冷蔵庫。
最初はスマホで配信を行っていたが、収益を得てからパソコンを購入した。水冷とかいうやつで、最新のものを購入した。部屋を暗くしてもぴかぴか光って格好いいため、よく部屋の電気を消して眺めている。マウスやキーボードも色とりどりに光るものを購入した。カメラも光ってほしかったが、何故か最新のものでも白く光るだけでがっかりした。
「でも、るんるんさんだよ?ぴかぴかするんだよ!」
それ以外に何が必要なのか。星月には理解できなかった。
「……そうか。確かに、君はやっていけている。食料品が何もなくても、外食すればいいだけの話だ」
白瀬は水を置いている部屋を見てからずっと眉間に皺を寄せている。何か困ったことがあるのだと思った。教えてくれたら、できることもあるかもしれない。
「俺には——だと思う————が、——だ」
空調の音にかき消されたのか、白瀬の声が所々聞き取れなかったような気がした。
「エリート君、なんで?」
聞き逃さないために、白瀬との距離を詰めた。すると、白瀬が一歩後ろに離れ、距離ができる。また距離を潰すと、離される。
追いかけっこのようで面白かったが、壁にぶつかり終わりを迎えた。そのまま白瀬は座り、星月は左隣に座った。右腕が白瀬と密着し、体温が伝わってくる。
「わからないことばかりだ」
遠くを見ているような目で、白瀬が話している。分からないことがあるのなら、聞けばいいのに。そう思った。
「エリート君、むずむず顔」
身体を捻り、白瀬の顔を覗き込む。白瀬の眉間に指を当てると、ぴくっと眉毛が動いた。
「君が、——なんだ」
口を動かしてみせたが、音が乗らない空気のみだった。きっと、白瀬が喉を詰まらせて上手く話せなかったんだろうと思った。
「他の部屋がどうかは、わからないが、この部屋と先ほどの部屋を見た限り、生活できる環境ではないと、感じる」
何故他の部屋を見せてくれと言わないんだろう、と思った。こっちから言うのを待っているのだろうか。
「どうして?」
星月の声が静かに響く。
「それは……その、余計なお節介かも、しれないが」
一度深く深呼吸を挟み、白瀬が星月に向かって座り直し、真っすぐ見つめながら、
「君を————だと、思っている」
分からないのなら、聞いてほしいと思った。
「星月?」
知りたいのなら、口にしてくれないと、わからない。
「大丈夫か?」
——も、——だ。
「聞こえているか?」
目の前には白瀬が座っている。いつもと変わらず眉間に皺を寄せている。
「どうしたの?」
にこっと微笑み、白瀬を覗き込んだ。
「違ったら、申し訳ないが……」
白瀬が何かを言ったような気がしたが、白瀬の皺の数に意識を奪われ、その音はBGMのように耳を通り過ぎて行った。
「——」
ただ低く唸るだけの空調の駆動音だけが、意味のない振動となって鼓膜を揺らし続けている。白瀬の口はパクパク動いていたが、彼はたまに口を意味もなく動かす癖がある。
「やはり、そうか」
なにかわかったのなら、教えてほしかった。
「やっぱりさん?」
白瀬は一度だけ深く、そして静かに息を吸い込み、姿勢を正して星月の瞳を真っ直ぐに捉えた。教えてくれる気になったのだろう。
「星月。俺は、君と向き合うと決めた。迷惑なら、言ってくれ」
白瀬の真っ直ぐな言葉が、冷たい風の音に混じって部屋に落ちる。星月はじっと白瀬を見つめ続け、白瀬の言葉を待った。やがて、躊躇いを捨てるような静かな声が届く。
「君のことを……教えてくれないか?」
やっと教えてくれると身構えていたのにもかかわらず、聞かれるとは夢にも思わなかった。
次で1勝最後です。




