第四章 廃校の教室
凪は廃校への道を知っていた。
地図を出さなかった。誰にも聞かなかった。ただコートを着て、署を出て、足の向くままに歩いた。それだけで着いた。
おかしいとは思った。思ったが、足は止まらなかった。
旧鴇ノ瀬小学校は、町の外れの林の中にあった。
木造二階建て。外壁は蔦に覆われ、窓ガラスはほとんど割れている。屋根の一部が落ち、雪が積もった梁が剥き出しになっていた。古川久江がスケッチブックに何度も描いた建物だと、一目で分かった。
正面玄関の扉は、南京錠がかかっていた。だが錠は開いていた。
凪は扉を押した。軋む音。埃の匂い。冷たい空気が顔に当たった。
中に入った。
廊下が伸びている。床板が腐って、踏むたびに沈む。左右に教室が並んでいる。全部、扉が開いている。中を覗くと机と椅子が残っていた。埃をかぶって、ひっそりと。誰かがいつかここで笑い、走り、泣いた。今は何もない。
一つだけ、扉が閉まっている教室があった。
廊下の突き当たり。六年二組。
凪は立ち止まった。
扉の隙間から、光が漏れていた。
電気はないはずだ。この建物に電気が通っているはずがない。なのに、確かに、扉の向こうが明るかった。
凪はドアノブを握った。冷たい。金属が手のひらに張り付くような冷たさ。それでも離さなかった。
扉を開けた。
教室は、きれいだった。
埃がない。窓が磨かれている。床が拭かれている。廃校の中で、その部屋だけが時間から切り取られたように、手入れされていた。
光の源は窓だった。外の曇り空なのに、この部屋だけ白く明るい。理由は分からない。
凪は壁を見た。
紙が、貼られていた。
一枚、また一枚、また一枚。壁一面に。画鋲で、丁寧に。等間隔に。
近づいた。
名前と、日付。
村上照子。西田拓也。古川久江。ほかの三名も。全員の名前が、そこにあった。日付は死亡日より数日前のもので、訪れた日だと凪にはすぐ分かった。ここに来た日だ。死ぬ前に、全員がここに来た。
六枚の紙。六つの名前。
そして七枚目。
名前がない。
代わりに、小さな手鏡が画鋲で留められていた。
凪は鏡を見た。
自分の顔が映っている。
笑っていた。
凪は自分が笑っていることに、その瞬間まで気づいていなかった。口の端が上がっている。目が細くなっている。穏やかな、柔らかな、まるで全てを手放した人間の顔。
村上照子と、同じ顔。
西田拓也と、同じ顔。
父と、同じ顔。
凪は鏡から目を離した。手が震えた。震えているのに、顔の筋肉が言うことを聞かない。笑顔が消えない。消そうとすればするほど、口の端が上がる。
走って教室を出た。廊下を走った。床板が割れる音がした。構わなかった。玄関を蹴り開けて外に出た。
冷たい空気を吸った。吸って、吸って、吸い続けた。
ようやく、顔の筋肉が戻った。笑顔が消えた。
凪はしゃがみ込んだ。膝が震えていた。雪の上に両手をついた。
怖い。
久しぶりに、その感情がはっきりと戻ってきた。
怖い。怖い。怖い。
その感覚が、今は救いだった。怖いということは、まだ自分がここにいるということだから。
署に戻った凪は、田辺を呼んだ。
「廃校に行きました」凪は言った。「六件全員の名前が壁に貼られていた。明らかに他殺です。捜査を正式に開始してください」
田辺の顔が、固まった。
「……廃校に、一人で?」
「はい」
「なんでそんなところに」
「被害者全員が死亡前に訪れていたことが、行動記録から分かりました」凪は言った。嘘ではない。ただ、行動記録を調べる前に自分が廃校に向かっていたことは、言わなかった。「田辺さんは廃校のことを知っていたんですか」
田辺は少し間を置いた。
「知ってた」
「なぜ言わなかったんですか」
「……言っても、仕方ないと思ってたから」
「どういう意味ですか」
田辺は答えなかった。窓の外を見た。その横顔が、どこか疲れたように見えた。疲れた、というより——諦めた、という顔だった。
「田辺さん」凪は声を低くした。「あの廃校で何があったか、知っているんですか」
「榊原さん」田辺はゆっくりと凪を見た。「あなた、今日廃校に行って、どんな顔して戻ってきたか、分かってる?」
「どんな顔って——」
「笑ってた」田辺は静かに言った。「署に入ってくる時、笑ってた。あなた自身は気づいてなかったと思うけど」
凪は黙った。
「早く、この事件を終わらせた方がいい」田辺は立ち上がった。「あなたのために」
それだけ言って、田辺は部屋を出て行った。
凪は一人残された。机の上のファイルを見た。六件の変死。六つの笑顔。
そして七枚目の紙に、名前の代わりに貼られていた手鏡。
凪はスマートフォンのカメラを起動した。インカメラに切り替えた。自分の顔を映した。
今は笑っていない。
だが目の奥に、何かがあった。
何かが、落ち着いている。
凪はカメラを閉じた。手帳を開いた。今日のメモを書こうとした。
ペンを走らせる。廃校の状況。壁の紙。名前。手鏡。
書き終えて、ページを閉じようとして——止まった。
一番下に、一行だけ、書いてあった。
今書いたはずのメモの、さらに下に。
別の筆跡で。
「もうすぐ、正しくなれるよ」
凪は手帳を閉じた。閉じて、机の引き出しに入れた。鍵をかけた。
それから立ち上がり、コートを着て、署を出た。
朽木の診察所に向かうために。
全部、終わらせるために。
歩きながら凪は気づいた。
また、笑っていた。




