第三章 看取り師の影
神代 文という名前は、鴇ノ瀬の古い住民なら誰でも知っていた。
だが誰も、その人物を正確に説明できなかった。
凪は三日かけて聞き込みを続けた。農家の老人、商店の女将、元町会議員。十人に聞けば十通りの答えが返ってくる。「背が高かった」「小柄な人だった」「白い服を着ていた」「黒い着物だった」「声が低かった」「とても静かな人で、声を聞いたことがない」。証言は矛盾し、重ならない。まるで十人がそれぞれ別の人物について語っているようだった。
ただ一点だけ、全員の証言が一致していた。
「死ぬ前に会う」という点だ。
「うちの母が死ぬ三日前に、神代さんに会ったと言っていた」七十代の農家の男は言った。「嬉しそうにしてたから、良い人に会えたんだろうと思って。翌日から急に穏やかになって、三日後に笑顔で逝った」
「神代さんに会った人は、みんな穏やかになる。この辺では昔からそう言われてる」商店の女将は言った。「怖い人じゃないですよ。むしろ……ありがたい人です」
「どこに住んでいるんですか」と凪が聞くと、女将は少し首を傾けた。「さあ。会いに行くものじゃないから。向こうから来るんです」
町役場の戸籍担当窓口に、凪は午後に訪れた。
「神代 文さんの戸籍を調べたいんですが」
担当の若い職員は、端末を操作してすぐに顔を上げた。「神代 文さん……三十年前に死亡となっています」
「死亡原因は?」
「事故、となっていますね」
「死亡場所は?」
職員はしばらく画面を見ていた。「……空白です」
「空白?」
「はい。通常はここに住所か施設名が入るんですが、この方のはなぜか空白で。元からそうなっているみたいで、うちのシステムに移行した時もこのままだったと引継ぎ資料に書いてあります」
「紙の原本は?」
「倉庫にあるはずです。確認してみます」
三十分待って、職員が戻ってきた。手に何も持っていない。
「申し訳ありません。該当する原本が、見当たらなくて」
「見当たらない?」
「整理番号では存在することになっているんですが、棚にないんです。他の方の原本は全部あるのに、神代さんのだけ……」
職員は申し訳なさそうに頭を下げた。凪は礼を言って役場を出た。
外は曇っていた。雪は止んでいるが、空の低いところに灰色の雲が張り付いている。凪はコートの襟を立てながら、手帳に書き込んだ。
神代 文、三十年前に死亡。死亡場所不明。原本消失。
三十年前に死んだ人間が、今も死ぬ前の人間の前に現れる。
凪は一度そこで考えをとめた。幽霊を信じるつもりはない。だが「神代 文を名乗る人物が現在も存在する」という可能性は十分にある。死亡した人物の名を語り、人々の死に関与している何者かが。
それで筋は通る。
通るはずだった。
図書館で郷土資料を調べていた凪は、古い新聞の縮刷版の中に一つの記事を見つけた。
昭和二十三年、鴇ノ瀬小学校で火災。校舎一棟が全焼。死者なし。
だがその三段下に、小さな続報記事があった。
「火災後の調査で、焼け跡から身元不明の遺骨が発見された。当時の教職員名簿と照合の結果、教師一名の行方が確認できていない」
記事はそこで終わっていた。続報はない。
凪は教職員名簿を探した。昭和二十三年度のものは、図書館にはなかった。役場にも、学校にも——鴇ノ瀬小学校はすでに廃校になっている——記録は残っていなかった。
ただ一つだけ手がかりがあった。図書館の司書が、古い卒業アルバムを持ってきてくれた。昭和二十二年度、鴇ノ瀬小学校第六学年の卒業アルバム。
最後のページに、教師たちの集合写真があった。白黒で、小さくて、顔が判別しにくい。だが写真の下に名前が並んでいた。
一番端に、「神代 文」とあった。
その部分の写真は、ちょうど光の加減で白く飛んでいた。顔が見えない。
凪はアルバムをコピーして図書館を出た。空がさらに暗くなっていた。街灯が点き始めている。
その時、後ろから声がした。
「神代先生のことを調べているんですか」
振り返ると、七十代と思われる老婆が立っていた。白髪を後ろで束ね、紺色のコートを着ている。見覚えのない顔だった。
「どちら様でしょうか」凪は言った。
「ここで生まれて、ここで育ちました。神代先生のことは、子供の頃に親から聞きました」老婆はゆっくりと言った。「先生はいい方だったそうです。子供が大好きで、誰も見捨てなかった。火事の夜も、子供たちを逃がすために一番最後まで残っていたと聞きました」
「それで亡くなった?」
「分からないんです」老婆は静かに言った。「遺体が見つからなかったから。でも帰ってこなかった。だから……」
老婆は少し間を置いた。
「だから今も、ここにいるのかもしれない。帰る場所がないから」
凪は老婆の名前を聞こうとした。だがその時、後ろから自転車が走ってきて凪は思わず身を引いた。ほんの一瞬、目を離した。
振り返ると、老婆はいなかった。
通りには誰もいない。左右どちらにも、人影はなかった。路地もない、隠れる場所もない、ただ真っ直ぐな通りの上に、凪だけが立っていた。
足元に、雪の上に、足跡があった。凪のものと、老婆のものと。
老婆の足跡は、凪の正面で、止まっていた。
どこへも続いていない。
その夜、凪は再び夢を見た。
同じ教室。同じ白板。同じ白い人影。
だが今回、少しだけ近づけた。黒板の文字が、かすかに読めた。
「怖い?」
白い人影が、凪を見ている。
凪は答えようとした。答えようとして——気づいた。
怖くない。
いつから怖くなくなったのか、分からない。ただ教室の中に立って、白い人影を見ながら、凪は「怖い」という感情がどこかに消えてしまったことに気づいた。
夢の中で、それが怖ろしかった。
怖くないことが、怖い。
目が覚めた時、外はまだ暗かった。凪は起き上がり、自分の手のひらを見た。震えていない。心臓は普通に打っている。汗もかいていない。
ただ、胸の奥が、不思議なほど静かだった。
父の死を思い出した。七歳の冬、棺の中の笑顔。いつもなら胸が痛むのに、今夜は何も感じなかった。痛みがない。悲しみがない。ただそこに、記憶だけがある。感情を抜き取られた写真のように。
凪は手帳を取った。何かを書こうとした。
ペンが止まった。
書くべきことが、何も思い浮かばなかった。
窓の外、鴇ノ瀬の夜が続いている。深く、静かに、どこまでも続いている。凪はしばらくその暗闇を見ていた。
そしてゆっくりと、また横になった。
眠りに落ちる直前、廃校の場所を自分が知っていることに、凪は気づいた。
誰にも聞いていないのに。地図も見ていないのに。
体が、知っていた。




