第二章 恐れない者たち
翌朝、凪は六件のファイルを机の上に並べた。
署に他の人間が来る前の、まだ暖房が効き始めたばかりの時間だった。窓の外、昨夜から降り続けた雪が鴇ノ瀬の通りを白く覆っている。足跡一つない。誰もまだ歩いていない。その静けさが、どこか死んだ町のように見えた。
ファイルを左から右へ、死亡日順に並べる。
最初の死者は七ヶ月前。最後は昨日の村上照子。間隔はまちまちで、規則性はない。だが凪には確信があった。これは偶然ではない。
問題は、何が偶然でないのかを、まだ言葉にできないことだった。
最初に訪ねたのは、西田拓也の元同僚だった。
西田は四十一歳、町の製材所に勤めていたが、二年前の工場縮小でリストラされた。以降は日雇いの仕事を転々とし、借金が増え、家族とも疎遠になっていたという。誰が見ても「追い詰められた人間」だった。
元同僚の松本という男は、製材所の休憩室で凪と向き合った。五十がらみの、日焼けした顔の男だった。
「西田が死んだって聞いた時、正直……驚かなかったんですよ」松本はコーヒーのカップを両手で包むようにして言った。「あいつのことだから、いつかそうなると思っていた。首を吊るか、川に飛び込むか。そういう死に方をすると」
「でも実際は違った」
「ええ」松本は少し間を置いた。「全然違った。死ぬ一週間前に会ったんです、偶然。スーパーの前で。そしたらあいつ、笑ってて」
「笑っていた?」
「本当に笑ってた。穏やかに。ああいう顔、見たことなかった。リストラされる前もあいつはどっかピリピリしてたから。なのに急に……なんていうか、全部を手放した人みたいな顔で」松本は視線を落とした。「やっと答えが出た、って言ってたんです。何の答えか聞いたら、笑って教えてくれなかった」
「その時、変だとは思いませんでしたか」
松本はしばらく黙っていた。コーヒーカップの縁を親指でなぞる。
「思わなかったんです」ようやく彼は言った。「それが一番怖い。あいつの顔を見て、変だとは思わなかった。むしろ……」
「むしろ?」
「羨ましいと思った」
凪はペンを止めた。「羨ましい、と」
「おかしいですよね」松本は苦笑いした。「死ぬ前の人間の顔を見て羨ましいなんて。でも本当にそう思ったんです。あいつの顔が、なんか……正しく見えて」
正しく。
凪はその言葉を手帳に書き留めた。インクが紙に滲んだ。
「西田さんは、死を恐れていない人間でしたか」凪は聞いた。
「最後の頃は、そうだったと思います」松本は答えた。「死ぬのが怖い人間は、あんな顔しませんから」
次に凪が向かったのは、古川久江が住んでいたアパートだった。
古川は六十六歳の元小学校教師で、定年退職後に鴇ノ瀬へ移住してきた。知り合いのいない土地に、なぜ。近所の住民に聞くと、「自然が好きだったみたい」「静かなところで死にたいって言ってた」という答えが返ってきた。
アパートの管理人から合鍵を借りて部屋に入る。生活感のある部屋だった。本棚、机、窓際の小さな植木鉢。植物はもう枯れている。
机の上にスケッチブックがあった。
凪はそれを開いた。
鴇ノ瀬の風景が、鉛筆で丁寧に描かれていた。川、山、雪をかぶった屋根。素人の絵だが、対象への愛情が伝わってくる。ページを捲るにつれ、同じ建物が何度も登場するようになった。
廃校だった。
古びた木造の校舎。割れた窓。蔦に覆われた外壁。古川はそれを、様々な角度から、様々な季節に、繰り返し描いていた。最後の数枚は廃校の中に入って描いたものらしく、廊下や教室の内部が描かれている。
一枚、凪の手が止まった。
廊下の突き当たりにある教室。窓から光が差し込んでいる。その絵の右上、窓の一つに——人影が描かれていた。
薄く、ぼんやりと。消しゴムで消しかけたような輪郭で。だが確かにそこに、誰かが立っている。
凪はスケッチブックを証拠袋に入れた。
部屋を出る前に振り返ると、窓際の枯れた植木鉢が目に入った。小さな鉢に、土だけが残っている。土の表面に、指で書いたような跡があった。
文字だ、と凪は思った。近づいて目を凝らす。
「ありがとう」
誰に向けた言葉か。凪には分からなかった。
午後、凪は朽木誠の診察所を訪ねた。
診察所は町の中心部に近い、古い木造の建物だった。待合室に老人が数人、静かに座っている。凪が刑事だと告げると、受付の女性は少し緊張した顔で奥に引っ込み、すぐに戻ってきた。「先生がどうぞと」
診察室に入ると、朽木誠が立ち上がって迎えた。
六十八歳。白衣が似合う、穏やかな顔の老医師だった。白髪交じりの髪、深い皺、だがその目は澄んでいて、どこか遠くを見ているような印象があった。握手の手が温かかった。
「村上さんのことですね」朽木は言った。「かわいそうに。ですが、苦しまずに逝けたのは良かった」
「村上さん以外にも、お聞きしたいことがあります」凪は言った。「西田拓也さん、古川久江さん——ご存知ですか」
朽木は少し考えるように目を細めた。「どちらも私の患者でした。お二人とも、昨年お亡くなりになって」
「今回の変死六件、全員があなたの患者です」
朽木は表情を変えなかった。動揺も、否定も、弁解もしない。ただ静かに凪の目を見ていた。
「そうですか」とだけ言った。
その「そうですか」の響きが、凪には引っかかった。驚きがない。まるで知っていたかのような、あるいは——当然だと思っているかのような。
「何か心当たりはありますか」
「ないとは言えません」朽木は言った。「みなさん、死を前にして穏やかになっていた。それだけは言えます。医師として、悪いことだとは思いませんでした」
「穏やかになった理由は?」
「さあ」朽木は微かに笑った。「人がなぜ死を恐れなくなるのか。それは私にも分かりません。ただ……」
彼は窓の外を見た。雪の降る、白い午後。
「この町では、よくあることなんですよ」
凪は診察室を出た。廊下に出た瞬間、振り返った。
朽木はまだ窓の外を見ていた。その横顔が、穏やかに笑っていた。
廊下の壁に、額縁が一つかかっていた。古い写真だ。学校の校舎の前に、教師らしき人物が立っている。白黒の写真で、顔はよく見えない。ただその写真の下に、小さな紙が貼られていた。
「神代 文先生を偲んで」
凪はその名前を手帳に書き留めた。
その夜、凪は夢を見た。
生まれてから今まで、ほとんど夢を見ない体質だった。疲れて眠り、気づけば朝になっている。それが自分の睡眠だと思っていた。
だが夢の中に、教室があった。
古い木造の教室。窓から白い光が差し込んでいる。机が並んでいて、黒板がある。黒板には何か書かれているが、読めない。近づこうとすると、足が重くて動かない。
黒板の前に、誰かが立っている。
白い服を着た、細い人影。顔は見えない。ただその人影は、凪の方を向いていた。
凪は声を出そうとした。出なかった。
人影が、手を挙げた。手招きをするように。
その瞬間、目が覚めた。
アパートの天井が、暗闇の中にある。心臓が速く打っている。額に汗をかいている。
凪は起き上がり、枕元の手帳を手に取った。何かを確かめたかった。何を確かめたいのか、自分でも分からないまま、手帳を開いた。
今日書いたメモが並んでいる。西田の元同僚の言葉。古川の部屋の記録。朽木との会話。神代 文の名前。
最後のページ。
昨日あったメモが、消えていた。
「怖いのはなぜだろう」と書かれていたはずのページが、白紙になっている。
凪は電気をつけた。手帳を隅々まで確かめた。どこにもない。破った形跡もない。最初からそこに何も書かれていなかったかのように、ページは真白だった。
凪はしばらく、その白いページを見つめていた。
窓の外で、風が鳴った。
雪が、また降り始めていた。




