第一章 笑う死体
死体は笑っていた。
榊原凪が鴇ノ瀬に赴任して最初に見たものが、それだった。川沿いの枯れ草の上に横たわる老婆は、両手を腹の上で組み、目を閉じ、口の端をわずかに持ち上げていた。苦しんだ様子はない。もがいた形跡もない。土の上に根を張るように、静かに、穏やかに、死んでいた。
「自然死でしょう」と隣に立つ田辺光男が言った。白い息が冬の空気に溶けて消えた。「ご高齢だし。この辺は多いんですよ、こういうの」
凪は遺体から目を離せなかった。
怖い、と思った。遺体が怖いのではなかった。その顔が怖かった。七歳の冬に見た父の死に顔と、どこか似ていた。あの時も父は笑っていた。柔らかく、穏やかに、まるで眠っているように。幼い凪は棺の縁に手をかけて、泣きながら母に聞いた。なんで笑ってるの、と。母は何も答えなかった。ただ凪の肩を抱いて、一緒に泣いた。
それから二十一年。凪はその問いの答えをずっと探しているような気がしていた。死んだ人間が笑う理由を。死の瞬間に何が見えるのかを。
「榊原さん?」
田辺の声で我に返る。振り返ると、五十五歳の田辺は困ったような顔で凪を見ていた。生まれも育ちも鴇ノ瀬という男で、顔の皺の一本一本に土地の歴史が刻まれているように見えた。
「失礼しました」凪はメモ帳を開いた。「発見者は?」
「向こうの農家の爺さんです。朝の見回りで見つけたと。村上照子さん、七十八歳。三ヶ月ほど前から余命宣告を受けていたそうで」
「病院には?」
「通ってました。朽木先生のところ」
凪はメモを取りながら、視線の端で遺体の笑顔を捉え続けていた。風が吹いた。枯れ草が揺れた。老婆の顔は、少しも動かなかった。
なぜ笑っているのか、と凪は思った。死ぬのが嬉しかったのか。それとも、死の間際に何か、見えるものがあるのか。
鴇ノ瀬は山に囲まれた小さな町だった。人口三千人あまり、そのほとんどが高齢者で、若者は都市に出て戻らない。過疎化が進み、廃屋が点在し、冬になると道は雪に閉ざされる。凪が赴任を希望した理由を、同僚たちは誰も理解しなかった。本人も、うまく説明できなかった。ただ、辞令の書かれた紙を見た瞬間、胸の奥で何かが動いた。引っ張られるような、不思議な感覚だった。
その感覚を、今も正確に言葉にできない。
夜、凪は一人で署に残った。
田辺は早々に帰宅し、他の署員も夕方には引き上げていた。山間の小さな駐在所のような署は、夜になると音が消える。暖房の唸りと、窓の外を吹く風だけが残る。
凪は記録棚を開けた。変死の記録を探した。
出てきた。一件、また一件。ファイルは奇妙なことに、年度別でも事件番号順でもなく、ばらばらに分散して収められていた。意図的に探しにくくしてあるとは言い切れない。ただ、全部を並べて見ようとすると、どうしても手間がかかる。
半年で六件。
凪は数字を見て、止まった。
六件の変死。外傷なし。毒物反応なし。死因は全件、「心不全」か「老衰」で処理されていた。被害者の年齢は四十一歳から七十八歳まで。老人だけではない。共通点があるとすれば——
凪は各ファイルの聴取記録を読み直した。
村上照子、余命宣告を受けていた。
西田拓也、リストラ後に自暴自棄になっていた。死の一週間前、友人に「やっと答えが出た」と話していた。
古川久江、定年後に移住してきた元教師。「いつ死んでも悔いはない」が口癖だったと近隣住民が証言。
全員が、死を恐れていなかった。
そしてどのファイルにも、同じ一文が遺族や知人の証言として記録されていた。
「死ぬ前に、とても穏やかな顔をしていました」
凪はファイルを閉じた。窓の外、鴇ノ瀬の夜は深く静まり返っていた。街灯が一つ、雪の降り始めた空の下でぼんやりと光っている。
誰かが笑いながら死んでいる。
その笑顔の意味を、凪はまだ知らない。だが胸の奥に引っかかるものがあった。父の死に顔と、今日の老婆の顔が、記憶の中で重なり合う。笑うことができるなら、死は怖くないのか。怖くなければ、笑えるのか。
凪は手帳を開き、ペンを走らせた。
六件の変死。共通点:死を恐れていない。笑顔。
書き終えて、ペンを置こうとした時——ふと気づいた。
手帳の最後のページに、何かが書いてある。
自分の筆跡で。
凪は素早くページを捲った。最後のページ。そこには、こう書かれていた。
「怖いのはなぜだろう」
日付は、今日だった。
凪には、書いた記憶がなかった。
暖房が唸った。外の風が窓を叩いた。凪は手帳を閉じ、それをコートのポケットに押し込んだ。立ち上がり、コートを羽織り、電灯を消した。
真っ暗になった署の中に、一瞬だけ何かの気配があった。
振り返っても、何もない。
凪は扉を閉めて、外に出た。雪が、静かに降り始めていた。




