第五章 論理の完成
朽木誠は、凪が来ることを知っていた。
診察所の扉を開けると、待合室はもう無人で、受付の女性もいなかった。奥の診察室の扉だけが開いていた。まるで凪のために用意されたように。
凪は廊下を歩いた。壁の額縁を見た。神代 文の写真。白黒の、顔の見えない写真。
今日は、その写真が気になった。
近づいた。目を凝らした。白く飛んでいるはずの顔の部分が——今日は、見えた。
老婆だった。
図書館の前で凪に声をかけた、あの老婆と、同じ顔だった。
凪は視線を引き剥がして、診察室に入った。今はそれを考える時ではない。今は、終わらせなければならない。
朽木は椅子に座って待っていた。白衣を着て、手を膝の上で組んで、穏やかに笑って。
「来ましたね」と言った。
「廃校に行きました」凪は言った。「壁の紙を見ました。全員の名前がありました。あなたの指紋も、あの教室から出ています。全被害者との接点もある。動機も——歪んだ形での安楽死思想、と見ています」
朽木は黙って聞いていた。
「認めますか」
沈黙が落ちた。時計の音だけが聞こえた。コチ、コチ、コチ。
「認めます」朽木は言った。「ただし——」
「ただし?」
「私は誰も殺していない」
「六人が死んでいます」
「ええ」朽木は静かに言った。「でも私がやったのは、あの場所に連れていくことだけです。あとは——あの教室が、やるんです」
「教室が」凪は繰り返した。声が平坦になった。「教室が人を殺すんですか」
「殺す、という言葉が正しいかどうか」朽木は首を傾けた。「あの場所は、死を恐れていない人間を……正しくするんです。苦しまずに。笑顔で。それを殺すと呼ぶなら、そうかもしれない。でも彼らは皆、幸せそうだった。あなたも見たでしょう。あの笑顔を」
「幸せかどうかを決めるのはあなたじゃない」
「そうですね」朽木は微笑んだ。「決めるのは、あの場所です」
凪は手帳を出した。今日確認した証拠を読み上げた。指紋、行動記録、証言。論理の鎖が、一つ一つ繋がっていく。朽木はそれを否定しなかった。うなずき、時に補足し、まるで自分の犯行を整理する手伝いをするように、穏やかに話した。
おかしかった。
自白がおかしかったのではない。その穏やかさが、おかしかった。追い詰められた人間の顔ではなかった。むしろ——終わった人間の顔だった。全てを終えて、後は何も恐れないという顔。
凪は手錠を出した。
朽木はおとなしく両手を差し出した。手錠をかけながら、朽木は凪を見た。
「榊原さん」
「なんですか」
「あなたは今日、廃校に行って、鏡を見たでしょう」
凪の手が止まった。
「関係ない」
「関係ある」朽木はやさしく言った。「あなたはもう、気づいているはずです。死ぬのが、怖くなくなってきたでしょう?」
凪は手錠を締めた。カチン、という音が診察室に響いた。
「黙秘権があります」凪は言った。「以降の発言は——」
「あなたのお父さんも、笑っていたでしょう」
凪は固まった。
「なぜ、それを」
「神代先生が教えてくれました」朽木は言った。「あなたがここに来る前から。あなたのことを、ずっと待っていたと」
診察室が、静かになった。
時計だけが鳴っている。コチ、コチ、コチ。
凪は朽木を立たせた。署に連行した。書類を書いた。上司に報告した。全部、正確に、手順通りに。体が動いた。頭が動いた。刑事としての自分が、完璧に機能した。
それなのに。
朽木の言葉が、頭の中で繰り返されていた。
死ぬのが、怖くなくなってきたでしょう。
凪はトイレに入った。洗面台の鏡を見た。
笑っていない。
ちゃんと、普通の顔をしている。
大丈夫だ、と思った。
思った瞬間、気づいた。
怖くない。
死ぬことが、怖くない。この発見に、恐怖がない。警戒がない。ただ静かに、「ああそうか」という感覚だけがある。まるで長年の謎がようやく解けたような、穏やかな納得。
違う。おかしい。これはおかしい。
凪は蛇口を全開にした。冷たい水で顔を洗った。洗って、洗って、洗い続けた。
水が止まった。顔を上げた。鏡を見た。
濡れた顔が映っている。
笑っていた。
その夜、凪は書類を書き終えた後、一人で供述調書を読み返した。
朽木の言葉を、一行ずつ確認した。論理に穴がないか。証拠と矛盾がないか。完璧な調書だった。これで起訴できる。裁判に持ち込める。事件は解決した。
最後のページ。朽木の最終供述。
そこに、一段落だけ、凪の記憶にない言葉があった。
凪が書いた字で、凪が記録したはずの言葉が。
「私は誰も殺していない。あの教室が、勝手にやるんです。私はただ——怖くない人を、あそこに連れていくだけで。次の方も、もうすぐ正しくなられますよ。自分から来ていただけるから、楽で良い」
凪は調書を机に置いた。
次の方。
自分から来る。
凪はコートを手に取っていた。立ち上がっていた。扉に向かっていた。
どこへ行こうとしているのか、考える前に体が動いていた。
分かっていた。
分かっていて、止まれなかった。
扉に手をかけた瞬間、電話が鳴った。
田辺からだった。
「榊原さん。今、どこにいる」
凪は答えた。「署です」
「そこにいてください」田辺の声が、いつもと違った。低く、切迫していた。「絶対に、外に出ないでください」
「なぜ」
「……あなたの顔を、さっき廊下で見た。笑ってた。歩き方も、おかしかった。どこか行こうとしてたでしょう」
凪はコートを握ったまま、動けなかった。
「田辺さん」凪は言った。声が、かすかに震えた。「私は、大丈夫ですか」
長い沈黙があった。
「……まだ、電話に出られた。それだけは、大丈夫です」
それだけは、という言葉の意味を、凪は考えないようにした。
コートを椅子に置いた。椅子に座った。手帳を開いた。
今日起きたことを、全部書いた。朽木の逮捕。診察室の写真。鏡の中の笑顔。調書の空白。体が動いたこと。怖くないこと。
書きながら、凪は思った。
これを書いているのは、まだ自分だろうか。
最後の一行を書き終えた。ペンを置いた。
手帳を閉じた。
閉じた瞬間、また開きたくなった。最後のページを確認したくなった。自分が書いた最後の一行の、さらに下に、何かが書かれていないか確かめたくなった。
凪は手帳を引き出しに入れた。
鍵をかけた。
鍵をポケットに入れた。
それでもまだ、引き出しを開けたかった。




