表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
正しい顔  作者: 福山
5/5

第五章 論理の完成

 朽木誠は、凪が来ることを知っていた。


 診察所の扉を開けると、待合室はもう無人で、受付の女性もいなかった。奥の診察室の扉だけが開いていた。まるで凪のために用意されたように。


 凪は廊下を歩いた。壁の額縁を見た。神代 文の写真。白黒の、顔の見えない写真。


 今日は、その写真が気になった。


 近づいた。目を凝らした。白く飛んでいるはずの顔の部分が——今日は、見えた。


 老婆だった。


 図書館の前で凪に声をかけた、あの老婆と、同じ顔だった。


 凪は視線を引き剥がして、診察室に入った。今はそれを考える時ではない。今は、終わらせなければならない。



 朽木は椅子に座って待っていた。白衣を着て、手を膝の上で組んで、穏やかに笑って。


「来ましたね」と言った。


「廃校に行きました」凪は言った。「壁の紙を見ました。全員の名前がありました。あなたの指紋も、あの教室から出ています。全被害者との接点もある。動機も——歪んだ形での安楽死思想、と見ています」


 朽木は黙って聞いていた。


「認めますか」


 沈黙が落ちた。時計の音だけが聞こえた。コチ、コチ、コチ。


「認めます」朽木は言った。「ただし——」


「ただし?」


「私は誰も殺していない」


「六人が死んでいます」


「ええ」朽木は静かに言った。「でも私がやったのは、あの場所に連れていくことだけです。あとは——あの教室が、やるんです」


「教室が」凪は繰り返した。声が平坦になった。「教室が人を殺すんですか」


「殺す、という言葉が正しいかどうか」朽木は首を傾けた。「あの場所は、死を恐れていない人間を……正しくするんです。苦しまずに。笑顔で。それを殺すと呼ぶなら、そうかもしれない。でも彼らは皆、幸せそうだった。あなたも見たでしょう。あの笑顔を」


「幸せかどうかを決めるのはあなたじゃない」


「そうですね」朽木は微笑んだ。「決めるのは、あの場所です」


 凪は手帳を出した。今日確認した証拠を読み上げた。指紋、行動記録、証言。論理の鎖が、一つ一つ繋がっていく。朽木はそれを否定しなかった。うなずき、時に補足し、まるで自分の犯行を整理する手伝いをするように、穏やかに話した。


 おかしかった。


 自白がおかしかったのではない。その穏やかさが、おかしかった。追い詰められた人間の顔ではなかった。むしろ——終わった人間の顔だった。全てを終えて、後は何も恐れないという顔。


 凪は手錠を出した。


 朽木はおとなしく両手を差し出した。手錠をかけながら、朽木は凪を見た。


「榊原さん」


「なんですか」


「あなたは今日、廃校に行って、鏡を見たでしょう」


 凪の手が止まった。


「関係ない」


「関係ある」朽木はやさしく言った。「あなたはもう、気づいているはずです。死ぬのが、怖くなくなってきたでしょう?」


 凪は手錠を締めた。カチン、という音が診察室に響いた。


「黙秘権があります」凪は言った。「以降の発言は——」


「あなたのお父さんも、笑っていたでしょう」


 凪は固まった。


「なぜ、それを」


「神代先生が教えてくれました」朽木は言った。「あなたがここに来る前から。あなたのことを、ずっと待っていたと」


 診察室が、静かになった。


 時計だけが鳴っている。コチ、コチ、コチ。


 凪は朽木を立たせた。署に連行した。書類を書いた。上司に報告した。全部、正確に、手順通りに。体が動いた。頭が動いた。刑事としての自分が、完璧に機能した。


 それなのに。


 朽木の言葉が、頭の中で繰り返されていた。


 死ぬのが、怖くなくなってきたでしょう。


 凪はトイレに入った。洗面台の鏡を見た。


 笑っていない。


 ちゃんと、普通の顔をしている。


 大丈夫だ、と思った。


 思った瞬間、気づいた。


 怖くない。


 死ぬことが、怖くない。この発見に、恐怖がない。警戒がない。ただ静かに、「ああそうか」という感覚だけがある。まるで長年の謎がようやく解けたような、穏やかな納得。


 違う。おかしい。これはおかしい。


 凪は蛇口を全開にした。冷たい水で顔を洗った。洗って、洗って、洗い続けた。


 水が止まった。顔を上げた。鏡を見た。


 濡れた顔が映っている。


 笑っていた。



 その夜、凪は書類を書き終えた後、一人で供述調書を読み返した。


 朽木の言葉を、一行ずつ確認した。論理に穴がないか。証拠と矛盾がないか。完璧な調書だった。これで起訴できる。裁判に持ち込める。事件は解決した。


 最後のページ。朽木の最終供述。


 そこに、一段落だけ、凪の記憶にない言葉があった。


 凪が書いた字で、凪が記録したはずの言葉が。


 「私は誰も殺していない。あの教室が、勝手にやるんです。私はただ——怖くない人を、あそこに連れていくだけで。次の方も、もうすぐ正しくなられますよ。自分から来ていただけるから、楽で良い」


 凪は調書を机に置いた。


 次の方。


 自分から来る。


 凪はコートを手に取っていた。立ち上がっていた。扉に向かっていた。


 どこへ行こうとしているのか、考える前に体が動いていた。


 分かっていた。


 分かっていて、止まれなかった。


 扉に手をかけた瞬間、電話が鳴った。


 田辺からだった。


「榊原さん。今、どこにいる」


 凪は答えた。「署です」


「そこにいてください」田辺の声が、いつもと違った。低く、切迫していた。「絶対に、外に出ないでください」


「なぜ」


「……あなたの顔を、さっき廊下で見た。笑ってた。歩き方も、おかしかった。どこか行こうとしてたでしょう」


 凪はコートを握ったまま、動けなかった。


「田辺さん」凪は言った。声が、かすかに震えた。「私は、大丈夫ですか」


 長い沈黙があった。


「……まだ、電話に出られた。それだけは、大丈夫です」


 それだけは、という言葉の意味を、凪は考えないようにした。


 コートを椅子に置いた。椅子に座った。手帳を開いた。


 今日起きたことを、全部書いた。朽木の逮捕。診察室の写真。鏡の中の笑顔。調書の空白。体が動いたこと。怖くないこと。


 書きながら、凪は思った。


 これを書いているのは、まだ自分だろうか。


 最後の一行を書き終えた。ペンを置いた。


 手帳を閉じた。


 閉じた瞬間、また開きたくなった。最後のページを確認したくなった。自分が書いた最後の一行の、さらに下に、何かが書かれていないか確かめたくなった。


 凪は手帳を引き出しに入れた。


 鍵をかけた。


 鍵をポケットに入れた。


 それでもまだ、引き出しを開けたかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ