大警報
『サイレン』。神話ではセイレーンとも呼び、美しい歌声で船乗りを惑わす、面妖な海の魔物として知られている。
芸術家たちの多くは、この魔物を妖しくとも嫋やかな女性として描いた。抱き締めれば折れてしまいそうに、華奢で儚い女性を。ヒトを惹きつける程の美しい歌声と知れば、そこに庇護欲が生まれて創造されるのも無理はない。
しかし、そんな魔物の名を付けられた目の前のモンスターは、つぶらな瞳を持ちながらも、白く反った牙を上顎に備え、
「でっけえ……」
「なにこの大きさ……」
それはまるで巨岩。砂泥より突如として現れた消炭色の巨躯に、二人が圧倒された。
そんな二人を見下げる海牛が、櫂の如き尾鰭をしならせる。
尾鰭が泥砂を掻き、泥が海へと大きく撥ねる。そして胸鰭を掻いて二人に近付こうとする。
急いであなたが二人を呼び、後ろに下がらせる。
「ね、ねえキミ。戦う?」
「勝てるかな……? あの大きさ、クマ超えてるぞ」
二人が戦うことをためらった。
状況から見て妥当だろう。敵はジュリアが言ったとおりクマを超える巨体だ。戦えば苦戦は必然である。
それに、ドラゴンを一度倒しているあなたたちだが、あの時とは事情が異なる。あの時は島を守るという意義があり負けられなかったが、今回は特に得られるものがない。
たとえ勝っても、あなたたちの得は無いに等しいのだ。誰にも感謝されず、せいぜい牙や皮を得られるくらいで、危険を冒してまで挑むには見合っていない。敵は幸い水生動物、逃げるのは容易いだろう。
しかし海牛が、鯨飲するが如く口を開き、あなたたちにとって見過ごせない物を暴露する。
「えっ、あれって、まさか……」
「ヒトの、頭だ!」
そのショッキングな光景にあなたたちが驚愕した。
海牛が、口の中に含んでいたヒトの頭を、あなたたちにはっきりと見せたのだ。
そして海牛が口を閉ざし、バキバキと、コリコリと、犠牲者の頭を噛み砕いて呑み込む。
「……これはちょっと、見過ごせないね」
「ああ。難民のヒトだったんだろうな。追い出された挙句、モンスターの餌食になるなんて」
ワラビが背から長刀を抜き、ジュリアが弩に矢を番えた。
ジュリアの推測だが、間違ってないだろう。ここは地元の者ですら寄り付かない場所だ。この回廊のような海岸を通る者など、あなたたち以外には難民しか考えられない。
先のあなたたちを脅そうとしたゴロツキ二人の可能性もあるが、あのような悪党ほど生き残るものである。何より、あなたたちは戦士だ。人々の生活を脅かす存在は倒さねばならない。
「よくもっ!」
先手必勝。ジュリアが引金を絞り、矢を海牛に向けて放った。
敵は鈍重にして巨体だ。外すなどということはなく、矢が海牛の体に深く突き刺さる。
矢筒から次の矢をジュリアが取り出す。だが、
「……やっぱり、効かねえか」
ジュリアが苦い顔をして呟いた。矢は海牛の厚い脂肪を貫くには至らなかった。
こうなる事は薄々分かっていた。だがもしも通じるなら、近付かずに撃つだけで討伐できた。
やはり、一筋縄ではいきそうもない。
「ねえあいつ、何か食べてるよ!」
ワラビが注意を促す。海牛が地面に口を付け、泥を口内へ啜るように入れ始めた。
一頻り口に入れた海牛が、天を仰ぐように体を反らす。今、海牛はあなたたちを見ていない。一見切り込むチャンスに思えるが、あなたたちには熱砂の蠕虫という前例があり、あの時と似た雰囲気を今の海牛から感じ取る。
何をするつもりなのか。身構えるあなたたち。間もなくして、
「……わっ!」
「うわっ!?」
海牛の膨らんだ口から出た物に二人が驚く。
泥は想定していた。けれどその勢いが凄まじい。したたかにも海牛が、口に含んだ多量の泥を、あなたたちに向けて噴気の如く吹き出した。
「やっ、ちょっと!」
「くっ!」
泥が豪雨のような音を立てて降り注ぐ。
あなたが盾を傘にして防ぐ。だが、二人には防ぐ手立てがない。ワラビは腕で顔を庇い、ジュリアは弩を隠すべく体を丸めている。
もちろん泥の雨自体にダメージはない。だが、もしも目に入れば、排出するまで不十分な視界で戦わなければならず、何よりもジュリアの弩が使い物にならなくなってしまう。
弩は機械だ。泥を被ることは致命的である。そんなジュリアの苦境を見てか海牛が、
「ジュリア!」
「うっ!」
巨躯を翻し、尾鰭を大きく払った。
更に泥砂を浴びせようとした海牛だったが、これをあなたが庇って防いだ。
「こいつが壊れちまうとこだった。助かったアンタ」
ジュリアの礼もそこそこにあなたが、二人に散開するよう指示を出す。
固まっているとまた泥を吹き出すだろう。何より敵にペースを握られる訳にはいかない。
指示を受けたワラビが左に大きく周り、逆にジュリアは右に小さく周る。
「キミ! ジュリア! いいよ、やろう!」
「分かった! 頼むぞ!」
あなたたちは海牛を取り囲んだ。あなたが海牛の正面に立ち、ジュリアが海牛の左、ワラビが海牛の右後ろに周っている。
少ない言葉で合図を送ったワラビにジュリアが応える。この包囲は即興で敷いたものではない。事前に打ち合わせていたもので、あなたたちはこのような敵と相対したときの為に、作戦を予め組んでいた。
概要としては、あなたとジュリアが敵の気を引き、その隙にワラビが後ろから斬る。これはジュリアの矢が通じず、ワラビの剣が頼りのときに適用される、ワラビの長所を生かした主に大物相手の作戦である。
「くらえっ!」
効かずとも囮にはなるだろう。ジュリアが海牛の気を引くべく矢を撃った。
休む間なくジュリアが次の矢を番え、その間にあなたはにじり寄る。海牛の注意を引き寄せ、かつ間合いに入らない所を見極めて。
海牛が、毒も混ぜてやれと聖母錯乱を唱えるジュリアを見定め、
「来たっ! ワラビ!」
ワラビに合図を送ったジュリア。あなたたちの目論見に従い、海牛がジュリアに向かった。
長い胴体を躍らせ、胸鰭と尾鰭をしきりに掻き。あなたがこの海牛の側面を見据える。
あなたはワラビが仕留めきれなかった場合に追い打ちをかけるつもりだ。渾身の力を叩き付けるべく、あなたが剣を握り締めて用意する。
下がるジュリアを後目に、長刀を駆るワラビが海牛の背へ走る。しかし――。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
突如として宙を切り裂いた咆哮に、あなたたちが怯まされる。
あなたたちの目論見は打破された。海牛が大きな声で咆えて怯ませることで、あなたたちの企てを止めていた。




