第3章 奔走
伊藤夫人の行動は素早かった。
菊たちの返事を聞くやいなやご主人に電話をかけ、たまたま仕事が休みだった夫の大輔を北城家に呼び出したのだ。
大輔は挨拶も早々にキッチンとリビングを見て回り、なんと翌日には図面を携えてやってきた。
テーブルの上に広げられた図面を、大輔が指でなぞる。
「菊さん、保健所に提出する『店舗平面図』と『厨房設備配置図』を描いておきました。調理場のシンクの配置も許可基準をしっかりクリアできるよう設計してありますから、あとは僕がこの図面通りにトントン叩いて施工するだけです。安心して任せてくださいね」
菊、花音、未来の三人は、大輔に向かって深々と頭を下げた。
「伊藤さん……なにからなにまで本当にありがとうございます。これほど心強いことはありませんわ」
大輔は照れたように頭を掻いた。
「駒子がこんなに生き生きしているのを見たのは久しぶりでね。嬉しくて張り切っちゃいましたよ。これも皆さんのおかげです」
「?」
いつも太陽のように明るい駒子の、誰も知らない一面を垣間見た気がした。駒子にも、何か抱えている事情があるのかもしれない。
◇
カフェ営業に必要な「食品衛生責任者」の資格は、動物病院の仕事がある未来に代わり、菊と花音の二人で受講することになった。
受講日が近づくにつれ、菊はなぜかルンルンと胸を躍らせている。
「講習は保健所の会議室で行われるみたい。朝から夕方まで一日がかりけれど、ふたり一緒なら心強いわね」
当日、緊張した面持ちで会場に入った花音の隣で、菊はお揃いのノートを用意して微笑んでいた。数時間に及ぶ長い講習が終わった夕方、無事に『修了証』を手にした二人は、ほっと胸をなでおろす。
「これで一歩、カフェ開店に近づきましたね!」
緊張が解けた花音の顔に、柔らかい笑顔が戻った。
「ええ。花音ちゃん、これからもよろしくね」
北城家に戻ると、首を長くして待っていた未来が二人を出迎えた。二人がニッコリと微笑みながら修了証を見せると、未来は自分のことのように喜んだ。
それからの三人は、それぞれの担当分野の勉強に余念がなかった。菊は海外の伝統菓子のレシピを探して試作を重ね、花音は自宅で様々なパンを焼き、サンドイッチやお料理のメニュー考案に励む。未来は受付の仕事をこなしながら、通信教育でティーコーディネーターの資格を取るために猛勉強中だ。成果を持ち寄る週に一度のお茶会は、いっそう熱を帯びていった。
そうこうするうちに本業の区切りがついた大輔が、いよいよカフェの改修工事に取りかかった。
助手を務める弟の亮輔との息の合った作業で、店内はあっという間に形を変えていく。そして数ヶ月後、北城家の伝統ある洋館の造りを存分に活かした、美しいカフェが完成した。
庭に向かって大きく開かれた窓からは、石畳が広がるガーデンテラスが見渡せる。庭の一角には、ワンちゃん用の水飲み場まで設置されていた。
「伊藤さん……! まるで最初からこうだったかのような素晴らしい造りですわ!」
菊が感動の声をあげると、花音も目を輝かせた。
「ええ、このカウンターもすごく素敵!」
「きゃ〜〜っ♡」
その時、奥から未来の歓喜の叫び声が響き渡った。二人が慌ててサニタリースペースへ向かうと、未来が目をハートにして扉を指さしている。
「えっ……可愛い!」
アンティーク調のガラスのドアノブを回して中に入ると、手前のパウダールームには、可憐なカモミールが描かれた楕円形の陶器の洗面台が設置されていた。
「よくこんなにぴったりな洗面台がありましたね」
花音が尋ねると、菊が嬉しそうに目を細めた。
「あ、これは昔、主人が海外で仕入れたものなの。トランクルームにあることを思い出して、先日、大輔さんに一緒に行って取り出していただいたのよ」
大輔も穏やかに頷く。
「やはり飲食店は、トイレまわりが綺麗で清潔感がある方が好まれますからね。亡きご主人のコレクションがぴったり収まって、気に入っていただけたなら良かったです」
未来は目を輝かせたまま両手を合わせた。
「私、ここに住みたいくらいです……!」
その言葉に全員が顔を見合わせ、どっと笑い声が弾けた。
◇
その時、玄関のチャイムが賑やかに鳴った。
インターホンの画面を見ると、トイプートリオの夫人たちが笑顔で手を振っている。
「こんにちは〜! 今日はお祝いを持ってきたのよ!」
出迎えた菊に、林田夫人が大きな紙袋を手渡した。中を開けると、洗練されたデザインの大正ロマンを感じるフリルエプロンが入っている。
「まあ、なんて素敵……!」
「カフェのイメージに合わせて作ってみたの。制服というより、普段着の上にさらっと羽織れるレトロなデザインにしたわ」
驚く花音の横で、最後にやってきた駒子が待ってましたとばかりに自慢げに声をあげた。
「すごいでしょう! 林田さんはね、小さいけれど人気アパレルブランドのアトリエスタッフとして服を作っているのよ」
「もしかして……『アトリエ・ラ・リュンヌ』ですか!?」
花音が尋ねると、林田夫人は「あら、よく知っているわね」と嬉しそうに目を細めた。花音は着ていた上着を脱ぎ、中に着ていたワンピースを見せる。
「私、こちらのブランドの大ファンなんです! この襟のワンポイントが大好きで……! まさか憧れのエプロンを着られるなんて、夢みたいです」
花音はエプロンを抱きしめて喜んだ。
続いて川村夫人が差し出したのは、温もりのある木に可愛いイラストが描かれた看板だった。
「鎖をつけておいたから、玄関の横にでも使ってね」
「まあ……! これもなんて可愛らしいイラスト……!」
再び駒子が自慢げに胸を張る。
「川村さんは、売れっ子のイラストレーターなのよ!」
「えっ……川村渚先生!? 嘘でしょう!?」
今度は未来が大声をあげた。川村の描く優しいタッチの絵は大人気で、未来も彼女の手がけた絵本を大切に持っていたのだ。
「先生、今度ぜひサインをください!」
「ええ、お安い御用よ」
そして最後に、伊藤夫人がニッコリと笑って「私からはこれね!」と差し出したのは、ずっしりと重い特大のタッパーだった。蓋を開けると、ぎっしりと詰まった手作りの海苔巻きが顔を出す。
「みんなお腹が空いているでしょう? あと開店日が決まったら教えてね。川村さんが描いてくれたチラシに日付を入れて、ご近所に配りまくってくるから!」
「皆さん……本当に、本当にありがとうございます……」
菊の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。花音と未来も深々と3人の夫人に頭を下げる。
それから全員で駒子の海苔巻きを囲んで賑やかな昼食をとったあと、一行は菊の家具と食器を引き取りに、郊外のトランクルームへと出発するのだった。
(第4章へ続く)




