第2章 伊藤夫人登場
桜の花が咲き始める頃、菊の言っていた公園のベンチでの「素敵なお茶会」は、場所がどこであれ実に優雅なひとときとなっていた。
そんな、ある日のこと。
「あ、未来ちゃんじゃない! こんなところで何をしてるの?」
上を見上げると、少しふくよかな体型でお団子頭の女性が立っていた。桜町動物病院の常連である伊藤夫人だ。
「あ、伊藤さん! こんにちは。友人たちとお茶会をしてるんですよ」
「まあ!! 素敵ね! それにどれもこれも美味しそうだこと!!」
言った瞬間、伊藤夫人のお腹がギュルルルと盛大に音を立てた。
花音が慌てて「良かったら、ご一緒にいかがですか?」とバスケットを差し出すと、伊藤夫人の後ろにいた林田夫人と川村夫人のお腹も連動するように鳴り響く。
3人は顔を真っ赤にしながら、おずおずとシートの端っこに整列して腰掛けた。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
差し出されたサンドイッチやカップケーキを口にし、ハーブティーを一口飲んだ瞬間、3人は驚愕の表情を浮かべた。そして大興奮で口を開く。
「これ、どこで売ってるの!? この街のお店じゃないわよね。隣街かしら?」
「それに、こんなに可愛いカップケーキだもの、きっとおしゃれな専門店のものよね!?」
そんな中、黙々と味わっていた伊藤夫人がぽつりと言った。
「天国の味だわ……幸せ……♡」
うっすらと涙さえ浮かべている伊藤夫人に、花音たちはどう反応してよいかわからず戸惑ってしまう。動物病院の受付で顔なじみの未来が、苦笑いしながら説明を引き継いだ。
「伊藤さん。このサンドイッチは、こちらの花音さんがパンから手作りしたもので、カップケーキは菊さんの手作り。ハーブティーは私が淹れたものなんですよ」
「まあ!?」
3人の夫人たちは互いに顔を見合わせると、一斉に声を張り上げた。
「未来ちゃん! これは完全にお店レベルよ。そこらのカフェより断然美味しいわ!」
「本当よね。このレベルには滅多に出会えないわよ!」
一番感動していた伊藤夫人が、がっしりと未来の手を握りしめた。
「未来ちゃん!! お店やりましょう! 私達毎日通うから!」
伊藤夫人の瞳が爛々と輝き、どこか危険な熱を帯びている。
「いや、私……本業は動物病院の受付ですし、居候の身なので……」
「あら、大丈夫よ! 何年も先生一人でやってたんだし、あんな小っこい動物病院だもの。ねえ?」
伊藤夫人が振り返ると、林田夫人と川村夫人も大きく頷いている。
(あ、伊藤さん……何気に明くんの動物病院をディスってる気がする……)
未来が心の中でツッコミを入れる横で、3夫人の圧倒的なパワーに押し切られた花音と菊はすっかり固まっていた。
「あら、初対面なのにごめんなさいね。私は伊藤駒子って言います。これも何かのご縁だし、これからもよろしくね」
伊藤夫人は花音や菊とも力強く握手を交わした。
「私は林田凛です。伊藤さんと川村さんとは、動物病院で知り合って以来のお友達なの。よろしくお願いしますね」
「川村渚です。伊藤さんとはご近所付き合いからの仲なんですよ。よろしくお願いします」
「私たち、周囲からは『トイプートリオ』って呼ばれてるのよ」
3人がニコニコと親しみやすく挨拶をしてくれたことで、花音は急に人が増えた事で緊張してしまった。
「あ……私は、さ、西蓮寺花音です。よろしくお願いします」
人と接することへの震えを抑えるように手をギュッと握りしめる花音を見て、菊がすかさずフォローするように手作りのクッキー皿を差し出した。
「私は北城菊です。皆様にお会いできて本当に良かったわ」
それから小一時間、6人は賑やかにお喋りを楽しみ、お菓子を堪能してお開きとなった。
帰宅した花音は、久しぶりに大人数と話したことでどっと疲れたものの、胸の奥にはどこか心地よい温もりと疲労感が残っていた。
*
数日後の晴れた平日。
満開の桜を目当てに大勢の人で賑わう公園では、いつものベンチも先客のお花見客で埋まっていた。荷物を抱えて立ち尽くす未来に、追いついた花音と菊が声をかける。
「お花見の季節だから、今日は公園でのお茶会は無理かしらね」
「ええ、残念だけれど……」
すると、菊が優しく微笑んだ。
「今日は、うちのお庭でお茶会をしましょ。小さいけれど、桜も咲いているから」
「え? いいんですか?」
連れられて到着した菊の自宅は、荒れた花壇さえ気にならないほど美しい、石張りのガーデンテラスを持つ素晴らしい洋館だった。庭の隅には一本の小さな桜の木があり、かわいらしい花を咲かせている。おしゃれなガーデンテーブルと椅子が並び、未来が手際よくクッションをセットした。公園のベンチとはまた違う、静かで優雅な空間がそこにはあった。
「ごめんなさいね。ここだけ慌てて整えたの。花壇は、息子が亡くなってからずっと手付かずで……」
「とんでもないです! こんな素敵な空間でお茶ができるなんて、夢のようです」
花音にとって、包み込んでくれるような空間は、公園以上に心が安らぐ場所だった。
「本当、日本じゃないみたいですね」
「そう言っていただけると嬉しいわ。主人が輸入家具を扱う仕事をしていたから……」
優雅な時間を楽しんでいたところ、菊が急に真剣な面持ちでふたりを見つめた。
「私ね……カフェを開きたいと思っているの。花音さん、未来さんと一緒に」
「え……?」
「お店、ですか?」
「ええ。この家のキッチンとリビングをリフォームすれば、小さなカフェが作れると思うの。あ、もちろん費用はすべて私が出すわ。お金はお墓まで持っていけないもの」
2人は驚き、花音が慌てて首を振った。
「私もカフェには憧れがありますが、菊さんだけにそんな大きな負担をかけるわけにはいきません」
未来も強く同意する。
「あのね……主人のおかげで、私は一生お金には困らないの。けれど、家族を失ってからの孤独な時間だけは、お金でどうにかできるものじゃなかった。花音さんや未来さんと出会えて、私は久しぶりにお菓子を作る気力を取り戻せたの。だから……考えてみてくれないかしら?」
切実な菊の言葉に、花音はそっと頷いた。
「分かりました。一度、持ち帰って考える時間をください。でも、もし始めるなら費用は3人で出し合いましょう」
「そうですよ! 私にも少しは蓄えがありますし、一度従兄(明)とも相談してみます」
こうしてその日は、一度持ち帰って検討することになった。
*
数日後、花音と未来は菊の家を訪れ、荒れていた花壇の手入れをする。作業を終えると、菊が冷たいアイスティーと焼き菓子をガーデンテラスへ運んでくる。
「どうもありがとう。見違えるほど綺麗になったわね」
「色とりどりの矢車菊の種を植えました。咲いたらきっと綺麗ですよ」
花音が微笑む。菊の名前に因んで選んだお花だった。
「あっちの花壇にはカモミールを植えたので、咲いたらフレッシュハーブティーが楽しめますからね!」
未来も嬉しそうに胸を張る。
「ありがとう。花音さん、未来さん。どうぞ、お茶にしましょう」
3人がテラスで寛いでいると、突然
「あ! いたいた!!」
と賑やかな声が響いた。
見ると、塀の間から伊藤夫人が顔を覗かせていた。
「ちょっとお邪魔させてもらうわね!」
「え? あ、はい! どうぞ……」
息を切らせて庭へ走り込んできた伊藤夫人が、開口一番に言い放つ。
「カフェの話、小耳に挟んだんだけど!」
未来は一瞬で思考がフリーズした。
(居候の身だからと思って明くんに相談したのに……伊藤さんにペラペラ話したうえに、菊さんの住所まで教えるなんて! 個人情報もへったくれもないじゃない!帰ったらお仕置き決定だわ)
激怒する未来の視線に気づいたのか、伊藤夫人は「ゴメンゴメン!」と手を合わせてペコリと頭を下げた。
「あのね、うちの主人は大工なのよ。一級建築士の資格もあるから、リフォームならお手の物よ! 主人に話したら材料費だけでいいって言ってくれたの。どう? これで花音ちゃんと未来ちゃんのハードル、少し下がらないかしら?」
「材料費だけで……!?」
驚くふたりに、伊藤夫人は少しだけ声を潜めて言った。
「う、うん。それでね、ひとつだけお願いがあるんだけど……お庭だけでいいから、犬と一緒に来られるカフェにしてほしいの。この近所、愛犬と一緒に立ち寄れる場所がなくて困っていて……」
花音と未来は顔を見合わせ、深く頷いた。
「菊さんさえよろしければ……お庭でワンちゃんと一緒に過ごせるカフェを作りましょう!」
菊は目頭を押さえ、涙を浮かべながら答えた。
「ええ……! ぜひ!!」
こうして、菊の洋館をリフォームし、カフェを開く計画が正式に動き出したのだった。
4人は互いに手をしっかりと取り合った。興奮した伊藤夫人がピョンピョンと跳ね、危うくテーブルのティーカップが落ちそうになるハプニングに笑い合いながら、新しい未来への期待に胸を膨らませるのだった。
(第3章へ続く)




