第1章 邂逅
花音は、規則正しいルーティンの中で日々を生きている。
毎朝同じ時間に目を覚まし、洗濯機を回し、身支度を整えてから朝食とお弁当を作る。午前中にポスティングのバイトをこなした帰り道、お気に入りの公園にある決まったベンチに座ってランチを食べる——それが、いまの花音の日課だった。
花音は大学を卒業後、親の反対を押し切って中学の音楽教師になった。最初の二年間は生徒たちとも良好な関係を築き、充実した日々を送っていた。
しかし三年目、転任してきた男性教師の存在が彼女の日常を狂わせる。
距離感の近さや不躾なプライベートの質問に、恋愛経験の乏しい花音は最初戸惑うばかりだった。だが、ある酒の席の帰り道、背後から突然抱きつかれ、恐怖で身体が凍りつく。
たまたま通りかかった別の男性教師が酔った彼を引き離して介抱してくれたものの、出来事は「酒の席での不始末」として処理された。花音が覚えた強い恐怖と、周囲の「大げさな」と言いたげな態度の温度差に、彼女は愕然とする。
その後も男性教師からの不快な接触はなくならなかった。毎日のように顔を合わせなければならない恐怖、全身にまとわりつく嫌悪感。誰にも相談できず体調を崩した花音は、生徒達に対し罪悪感を抱いたまま退職し、見知らぬ街へ引っ越すことを選んだのだった。
最初こそ部屋に閉じこもる生活を送っていたが、生きていくためには働かなければならない。そうして選んだのが、極力人と接せずに済むポスティングの仕事だった。
花音はお気に入りのベンチに腰掛け、ふと空を見上げる。雲ひとつない真っ青な空がどこまでも広がっていた。
「綺麗だな……」
花音は眩しそうに目を細めた。
空はずっと、そこに存在していたのだ。下ばかり向いて歩いていたから、その広大さに気づくことができなかっただけで。
バッグから取り出したのは、自分で焼いたパンで作った手作りサンドイッチ。パンをかじり、持参した紅茶を飲みながら一休みをしてから自宅へ帰る。それが彼女のささやかな平穏だった。
*
翌日、いつも通り仕事を終えてベンチへ向かうと、珍しく先客がいた。見回しても他のベンチはすべて埋まっている。花音はそっとため息をつくと、その女性に軽く会釈をしてベンチの端へ腰掛けた。
サンドイッチを口に運んだところで、飲み物を忘れてきたことに気づく。案の定、水分を失ったパンが喉に詰まり、猛烈に咳き込んでしまった。すると隣に座っていた女性が慌てて水筒を取り出し、カップ型の蓋にハーブティーを注いで差し出してくれた。
「これ、飲んでください!」
「あ、ありがとうございます……!」
温かいハーブティーでどうにかパンを流し込み、胸を撫でおろしながらもうひと口飲む。
「あ……これ、すごく美味しいです」
飲んだことのない爽やかな香りと味わいが、喉から全身へと染み渡っていくようだった。助けてくれたお礼に、花音は持っていたサンドイッチを差し出した。
「もし良かったら、召し上がってください」
「わあ、いいんですか?」
女性は嬉しそうに受け取ると、サンドイッチを大きめの口でひとくち頬張った。
「ん!! 何これ、すっごく美味しい! このサンドイッチ、どこのお店で買ったんですか?」
「あの、それ……私が作ったんです」
恥ずかしそうに答える花音に、女性は目を丸くした。
「えっ、このパンも?」
「はい、昔からパン作りが趣味で……」
「すごーい! パン屋さんの商品みたい! あ、私『東堂未来』っていいます。よろしくね!」
「私は西蓮寺花音です。こちらこそ、美味しいハーブティーをありがとうございました」
ふたりはまるで十年来の友人のように意気投合した。それ以来、晴れた平日の昼下がりにいつものベンチで会うことが、ふたりの新しい日課となった。
未来はいつも、ベンチをテーブルに見立て、足元にレジャーシートを敷いて待っていてくれた。ブランケットやクッションまで用意された快適なスペースで、花音もバスケットに詰めたサンドイッチやフルーツを広げる。未来が淹れてくれるハーブティーや紅茶はいつも絶品だった。
他愛のないお喋りに花を咲かせていたある日、ベンチの前を通りかかった初老の女性が躓き、派手に転倒した。
「大丈夫ですか!?」
ふたりは慌てて駆け寄った。
「あ、あら……ありがとうございます」
女性は起き上がろうとしたものの、足に激痛が走ったようで立ち上がることができない。ふたりは彼女を支えながら、静かにシートまで運んだ。
「ちょっと待っていてください!」
未来はそう言い残すと、脱兎のごとく走り去っていった。
しばらくして、未来はボサボサの天然パーマに少しヨレた白衣を着た男性の腕を引っ張って戻ってきた。
「お待たせ! 医者連れてきたよ!」
「えっ、待って、緊急事態って……この人? 俺、獣医なんだけど!?」
「四の五の言わないの! 診れば分かるでしょ!」
「無茶言うなよ……あ、失礼しますね」
男性は苦笑しながらも女性の足首に丁寧に触れ、状態を確認した。
「骨折している感じはなさそうですが……俺は獣医なんで、断定はできません。お宅に帰った後に、念のため整形外科で診てもらったほうがいいでしょう」
「みなさん、見ず知らずの者に親切にしていただいて……私、『北城菊』と申します」
「ああ、俺はすぐそこの桜町動物病院で獣医をやっている『東堂明』です」
「私の従兄なんですよ。私は未来です」
「西蓮寺花音と申します」
明が菊を背負い、菊の自宅へと向かった。たどり着いたのは、おもむきのある美しい洋館だった。
明が応急処置を施して戻った後、菊が一人暮らしだと知った花音と未来は、彼女をタクシーに乗せて整形外科へ連れて行った。診断は明の見立て通り捻挫だった。病院から戻ると、ふたりは夕食の手配などを済ませ、菊が一人で動ける状態になったことを確認してから帰路についた。
*
数日後、いつものベンチでランチを楽しんでいると、足を引きずりながら菊がやってきた。
「こんにちは。先日は本当にお世話になりました」
花音と未来は笑顔で振り返った。
「菊さん、こんにちは! 足の具合はいかがですか?」
「どうぞ、こちらに座ってください」
未来が手際よくクッションを敷く。
「ありがとう。今日はね、おふたりにカップケーキを焼いてきたのよ」
菊が差し出した箱を開けると、海外のパティスリーにあるような、たっぷりのクリームと鮮やかなブルーベリーが飾られた華やかなカップケーキが並んでいた。
「わあ……綺麗!」
「すごく美味しいです!」
頬をほころばせながら食べるふたりを見て、菊も目を細める。花音はサンドイッチを勧め、未来は温かいハーブティーを注いだ。
「まあ! サンドイッチもハーブティーも素晴らしいわ。本当に素敵なお茶会ね」
「菊さんのケーキこそ絶品ですよ! こんなに美味しいカップケーキ、初めて食べました」
菊はカップをそっと置くと、少し遠い目をした。
「このカップケーキね、亡くなった息子の大好物だったの。もう何年も焼いていなかったのだけれど……おふたりにこんなに喜んでいただけて、本当に嬉しいわ」
花音はそっと菊の手に自分の手を重ねた。
「私達、平日の晴れた日ならいつもここにいますから。菊さん、いつでも遊びに来てくださいね」
未来も弾んだ声で笑う。
「ケーキがあったらさらに最高です!」
「あら」
菊はくすりと微笑んだ。
「じゃあ、張り切ってたくさん焼かなくっちゃね」
澄み渡る青空の下、三人はあたたかな心地よさに包まれながら、ゆったりとした特別な時間を分かち合ったのだった。
(第2章へ続く)




