第9話 魔王を畑に埋める
魔王ゼルグレイスの棺が沈んだ畑に、黒い花が一輪だけ咲いていた。
荒れ果てた共同畑の中央。
枯れた土の裂け目から顔を出したその花は、夜の欠片をそのまま花びらにしたような色をしていた。黒いのに、暗くはない。光を吸い込むのではなく、静かに抱いているような黒だった。
リュシアは、その花の前に膝をついたまま動けずにいた。
「お父さま……」
かすれた声が、風に溶ける。
俺は少し離れたところに立ち、彼女の背中を見ていた。
魔王を畑に埋めた。
言葉にすれば、それだけだ。
だが実際には、そんな簡単な話ではなかった。
父を失った娘が、父の遺体を土に還すことを選んだ。
死にかけた村が、世界を支えていた魔王の遺体を受け入れた。
そして俺は、死体鑑定士として、その埋葬が正しい処置だと知っていながら、ひとりの少女に父との別れを選ばせた。
正しいことと、優しいことは、いつも同じではない。
それを思い知らされるような埋葬だった。
老人が、杖をついて畑の端に立っていた。
名を、バルザというらしい。
アシュベルに残っていた五人のうち、最も年長の村人だ。
彼は黒い花を見つめ、何度も目元を拭っていた。
「まさか、生きているうちにもう一度、この畑に花を見るとはな」
「昔は、よく咲いていたのか」
俺が尋ねると、バルザはゆっくりとうなずいた。
「黒曜花は、魔族の墓に咲く花だ。だがこの村では、亡くなった者の墓だけでなく、共同畑の隅にも植えていた」
「畑に?」
「死んだ者が、次の実りを守ってくれるようにとな」
バルザは枯れた畑を見渡した。
「この村は、人間の国にも魔族の国にもなりきれん場所だった。だから、決まりも混ざっていた。人間式に土を耕し、魔族式に死者を弔う。祈りの言葉も、二つの国の言葉をつなげていた」
「その祈りは、まだ覚えているか」
「覚えている」
バルザは、少し驚いたように俺を見た。
「聞きたいのか」
「魔王を埋めたのがこの村なら、この村の祈りで送るべきだと思った」
そう言うと、バルザはしばらく黙った。
やがて、深く頭を下げた。
「死体鑑定士殿。あんたは妙な人間だな」
「よく言われる」
「だが、ありがたい」
バルザは村の方へ振り返った。
「おい、出てこい。魔王様の埋葬だ。生きている者は、せめて顔を見せろ」
崩れた家々の陰から、少しずつ人が出てきた。
片目に布を巻いた鍛冶屋。
熱に浮かされた幼い兄妹。
彼らを支える痩せた女。
そして、扉の陰から老婆が這うように姿を現した。
村人は、本当に五人だけだった。
五人しかいない村。
けれど、畑へ向かう彼らの足取りは、誰一人として軽くなかった。
皆、何かを背負っていた。
死んだ家族。
見捨てられた年月。
枯れた井戸。
実らなかった畑。
そして、誰にも助けを求められなかった十年。
バルザが畑の中央へ進み、黒い花の前に膝をついた。
他の村人たちも、それにならう。
リュシアは驚いたように顔を上げた。
「皆さん、やめてください。父は……人間の国では、憎まれていた存在です。あなたたちまで、王国に目をつけられます」
片目の鍛冶屋が、かすれた声で笑った。
「姫さん。見ての通り、俺たちはとっくに見捨てられてる。今さら目をつけられて困るものなんてねえよ」
熱を出している少年が、母親に支えられながら言った。
「魔王様は、悪い人なの?」
リュシアの表情が凍る。
その問いに、すぐ答えられなかった。
少年は咳をして、黒い花を見た。
「王国の人は、魔王様は悪いって言ってた。でも、今、お水が戻ったんだよね」
村の奥から、井戸水を汲む音が聞こえていた。
まだ細い水音だ。
けれど、十年枯れていた井戸が、確かに水を取り戻していた。
少年は不思議そうに言う。
「悪い人を埋めたら、水が出るの?」
誰も答えなかった。
子どもの問いは、ときどき大人の理屈をあっさり壊す。
魔王は悪。
勇者は正義。
王国は人類の守り手。
そう信じれば、世界は分かりやすい。
だが、枯れた村に水を戻したのは魔王の遺体だった。
その事実を前にすると、分かりやすい物語は途端にもろくなる。
リュシアは少年の前に膝をついた。
「私にも、まだ分かりません」
彼女は正直に言った。
「父がすべて正しかったとは、私には言えません。父は戦いました。たくさんの命が失われました。あなたたちの中にも、父を許せない人がいるかもしれません」
村人たちは黙っていた。
風が黒い花を揺らす。
「でも、父はこの村を覚えていました。たぶん、最後まで」
リュシアは畑の土に手を置いた。
「だから私は、父を英雄としてではなく、魔王としてでもなく、ひとりの死者として弔いたいのです」
バルザがうなずいた。
「それでいい」
彼はゆっくりと祈りの言葉を唱え始めた。
人間の言葉と、魔族の言葉が交互に混ざる。
完全には聞き取れない。
だが意味は、なんとなく分かった。
土へ還れ。
名を忘れない。
眠りが次の実りとなるように。
残された者が、明日を恐れずに済むように。
そんな祈りだった。
リュシアも、その祈りに声を重ねた。
最初は震えていた声が、少しずつ整っていく。
俺は黙って聞いていた。
死体鑑定士として、俺は何度も埋葬を見てきた。
だが、たいていは急ぎの作業だった。
戦場では穴を掘る時間もない。村では疫病を恐れてまとめて焼くこともあった。王都の貧民街では、名前も分からない死者が荷車に積まれて運ばれていく。
死者を送る時間は、いつも生者の都合で削られる。
けれど本当は、これほど時間をかけるべきなのかもしれない。
名を呼び、土に触れ、覚えている者が声を合わせる。
死者は何も言わない。
それでも、生きている者がどう送るかで、その死の意味は変わる。
俺の視界に、静かに鑑定結果が浮かんだ。
【対象:魔王ゼルグレイスの埋葬地】
【状態:共同祈祷中】
【埋葬適合率:上昇】
【土地との同化率:十二パーセント】
【黒曜花:一輪開花】
【副次効果:周辺死者の記憶反応】
周辺死者の記憶反応。
その文字を見た瞬間、畑の空気が変わった。
黒い花の周囲に、淡い光が浮かび始める。
白ではない。
青でもない。
月明かりのような、薄い銀色の光だった。
「これは……」
バルザが息を呑む。
光は、畑のあちこちから立ち上がった。
数え切れないほどではない。
けれど、一つ、また一つと、地面から小さな灯のように現れていく。
リュシアが目を見開いた。
「死者の記憶……?」
「たぶん、この村で亡くなった人たちだ」
俺は鑑定結果を見ながら答えた。
銀色の灯の一つが、バルザの前で揺れた。
彼はそれを見た瞬間、杖を落とした。
「マリア……?」
誰かの名だった。
灯は言葉を発しない。
姿もない。
それでも、バルザには分かったらしい。
老人は震える手を伸ばした。
「お前、まだここにいたのか」
灯は、彼の手に触れるようにふわりと揺れた。
バルザは泣き崩れた。
片目の鍛冶屋の前にも、一つの灯が浮かんだ。
彼は荒い息を吐き、顔を歪める。
「親父……」
熱を出した兄妹の周りには、小さな灯が二つ寄り添った。
母親が口元を押さえ、涙を流す。
「あなた……お母さん……」
畑は、死者の記憶で満たされていった。
声はない。
姿もない。
けれど、残された者たちはそれぞれ、そこに誰がいるのか分かっているようだった。
この村は、死んでいたのではない。
忘れられない死者たちを抱えたまま、動けなくなっていたのだ。
リュシアは黒い花の前で震えていた。
「父が、呼んだのですか」
「いや」
俺は首を振った。
「魔王が呼んだというより、魔王の遺体が、この土地に残っていた記憶を開いたんだと思う」
「記憶を……」
「この村の死者は、誰にもちゃんと弔われないまま残っていた。魔王の埋葬が、その記憶に触れたんだ」
言いながら、俺は自分の胸が重くなるのを感じた。
死者の記憶は、救いにもなる。
だが同時に、痛みでもある。
忘れたふりをしていた悲しみが、もう一度目の前に戻ってくる。
バルザは泣きながら、銀色の灯に向かって何度も謝っていた。
「すまん。守れなくて、すまん。お前を、こんな村に残して……」
灯は、ただ静かに揺れていた。
責めているようには見えなかった。
むしろ、寄り添っているように見えた。
リュシアの前にも、一つの灯が現れた。
他の灯よりも、少し大きい。
黒い花のすぐ上に浮かぶそれは、銀色の中に淡い黒を含んでいた。
リュシアは息を止めた。
「お父さま……?」
灯は、彼女の頬の近くで静かに揺れた。
リュシアの目から、涙があふれる。
「ごめんなさい。私、守れなかった。お父さまを、守れなかった……」
灯は何も言わない。
だが、リュシアの髪を撫でるように、ゆっくりと揺れた。
俺はその光景を見て、胸の奥が痛くなった。
死者は許すのか。
それとも、生きている者が許されたと感じたいだけなのか。
俺には分からない。
けれどリュシアは、初めて父の前で泣けている。
それだけで、この埋葬には意味があったと思えた。
不意に、視界の端で別の鑑定結果が浮かんだ。
【警告:王国追討隊接近】
【距離:三千歩相当】
【到達予測:短時間】
現実が戻ってくる。
俺は顔を上げた。
荒野の向こうに、土煙が見える。
馬だ。
複数の騎兵。
その先頭で、白銀の鎧が光った。
勇者カイゼル。
やはり追ってきた。
「リュシア」
俺は低く呼んだ。
彼女は涙を拭い、立ち上がった。
黒い花の上に浮かんでいた灯は、ゆっくりと花びらの中へ吸い込まれていく。
魔王の記憶は、畑に戻った。
村人たちも、次々に荒野の方を見る。
バルザが歯を食いしばった。
「王国軍か」
「ああ」
片目の鍛冶屋が、錆びた槌を握る。
「戦える奴なんて、この村にはいねえぞ」
「戦う必要はない」
俺は言った。
「まずは村人を家に入れてくれ。子どもと病人を隠す」
「それで、あんたは?」
「話をする」
鍛冶屋が呆れたように俺を見た。
「勇者相手にか?」
「俺は剣で勝てない」
「なら話でも勝てねえだろ」
「かもしれない」
俺は荒野を見据えた。
「でも、魔王の墓の上で剣を抜かせる前に、言うべきことがある」
リュシアが俺の隣に立つ。
「私も行きます」
「危険だ」
「父の墓です」
彼女は黒い花を見た。
「墓守が逃げるわけにはいきません」
俺は何も言えなかった。
その瞳には、もう昨日までの怯えだけではない強さがあった。
父を埋めた娘の強さ。
死者を守る墓守の強さ。
俺はうなずいた。
「分かった。ただし、俺より前には出るな」
「はい」
村人たちは急いで動き出した。
子どもたちは母親に連れられ、家の奥へ入る。老婆は鍛冶屋に支えられながら避難した。バルザだけは、畑の端に残った。
「じいさんも隠れてくれ」
「嫌だね」
「危ない」
「この村の長は、まだわしだ」
バルザは震える足で立っていた。
「魔王様を迎えた村の長が、最初に逃げるわけにはいかん」
頑固な老人だ。
だが、その頑固さが少しだけ頼もしかった。
黒い花が風に揺れる。
魔王を畑に埋めたことで、村は息を吹き返し始めた。
だが同時に、王国から狙われる理由も生まれた。
死者を素材にする国は、この埋葬を許さないだろう。
勇者はきっと、魔王の遺体を取り戻そうとする。
たとえ、もう大地に還り始めていたとしても。
白銀の騎兵隊が、村の入口で止まった。
先頭の馬上に、カイゼルがいる。
彼は俺を見つけると、冷たく笑った。
「レイン」
昨日まで仲間だった男が、聖剣の柄に手を置く。
「ずいぶん似合いの場所に逃げ込んだな。廃村、魔族の娘、死体の墓。お前にはぴったりだ」
俺は黒い花の前に立った。
「ここは墓だ」
「だから?」
「馬を降りろ、カイゼル」
周囲の騎兵たちがざわめいた。
勇者に向かって、追放された鑑定士が命じたのだ。
カイゼルの目が細くなる。
「何だと?」
「ここには死者が眠っている。話をするなら、馬を降りてからにしろ」
一瞬、村全体が静まり返った。
カイゼルは俺を見下ろしていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「死体しか見えない男が、俺に礼儀を説くのか」
「ああ」
俺は答えた。
「死体しか見えないからこそ、死者の前でどう振る舞うべきかは知っている」
黒い花が、俺の背後で静かに揺れた。
魔王を畑に埋めた日。
俺たちは初めて、勇者と敵として向き合った。




