第8話 廃村・アシュベル
アシュベルは、地図の上ではまだ村だった。
だが、実際にたどり着いたそこは、村というより、村だったものの残骸に近かった。
夜明けを越え、昼前になっても、空は重く曇っていた。太陽は雲の向こうで白くにじみ、荒野に薄い影だけを落としている。
黒い棺は、魔王の血が作った導線に沿って進んでいた。
森を抜け、岩場を越え、干上がった小川を渡るたびに、棺の表面に刻まれた魔族の文字が弱く光る。その光を頼りに進み続けた先に、アシュベルはあった。
崩れかけた木柵。
傾いた見張り台。
屋根の落ちた家。
井戸の周りには雑草すら生えていない。
畑だったらしい場所には、黒ずんだ土が広がっていた。けれど、その土は湿っていない。指で触れれば粉のように崩れそうなほど乾ききっている。
生き物の気配がほとんどなかった。
鳥の声もない。
虫の羽音もない。
風が吹くたび、壊れた扉がぎい、と鳴るだけだった。
「ここが、アシュベルか」
俺がつぶやくと、リュシアは棺に手を置いたまま、小さくうなずいた。
「昔は、もっと緑がありました」
「来たことがあるのか?」
「幼いころに一度だけ。父に連れられて」
彼女の視線が、枯れた畑をゆっくりとなぞる。
「魔族と人間の混血の者たちが暮らしていました。どちらの国にも居場所がない者たちが、ここで畑を耕し、家を建て、子どもを育てていました」
「今は……」
「ほとんど残っていないはずです」
そう言った直後、村の奥から乾いた咳が聞こえた。
俺とリュシアは同時にそちらを向く。
崩れた家の陰に、人影があった。
老人だった。
痩せた体に、色あせた外套をまとっている。片手には木の杖。もう片方の手には、刃こぼれした短い鎌を握っていた。
老人は俺たちではなく、黒い棺を見ていた。
「……魔族か」
しわがれた声だった。
「それとも、人間か」
俺は一歩前へ出た。
「俺は人間だ。こっちは魔族。けれど、戦いに来たわけじゃない」
老人は鎌を下ろさなかった。
「こんな村に、何をしに来た」
「埋葬をしに来た」
「埋葬?」
老人の濁った目が、棺へ向く。
「誰を」
リュシアが静かに答えた。
「魔王ゼルグレイスです」
空気が止まった。
老人の指が震える。
鎌が乾いた土に落ち、かすかな音を立てた。
「魔王、様……?」
その呼び方に、俺はわずかに驚いた。
人間側の者なら、魔王に敬称などつけない。
だが老人は、恐怖ではなく、信じられないものを見たような顔をしていた。
リュシアが外套のフードを外す。
銀色の髪と、小さな角が現れた。
「私はリュシア。ゼルグレイスの娘です。父を、ここに埋葬させてください」
老人はしばらく彼女を見つめていた。
やがて、力が抜けたように膝をつく。
「姫様……」
「立ってください。私はもう姫ではありません。ただの墓守です」
「それでも、あんたは魔王様の娘だ」
老人は震える声で言った。
「魔王様は、まだこの村を覚えていてくださったのか」
リュシアは答えられなかった。
代わりに、俺が口を開く。
「この村は、魔力枯渇地帯なんだな」
老人は俺を見た。
「そう呼ばれているらしいな。王国の役人は、地図にそう書いていた」
「いつから枯れた」
「十年前だ」
老人は村の奥を振り返った。
「最初は井戸の水が濁った。次に畑が実らなくなった。家畜が死に、子どもが熱を出し、土に触れるだけで手が荒れるようになった。王国に助けを求めたが、ここは魔族寄りの土地だと言われた。魔族領に助けを求めたが、戦争中で手が回らなかった」
「それで、皆出ていったのか」
「出ていけた者はな」
老人の声が低くなる。
「病人と年寄りは残った。行き先のない混血の子も残った。だが、残った者も少しずつ死んだ」
風が吹いた。
枯れた土が舞い上がる。
俺は村を見渡した。
崩れた家。
閉ざされた窓。
誰も座っていない広場。
この村は、突然滅びたわけではない。
誰にも助けられないまま、少しずつ死んでいったのだ。
「今、村に何人いる」
俺が尋ねると、老人は少し間を置いた。
「生きているのは、五人だ」
「五人……」
「わしを入れて五人。あとは、寝たきりの婆さんが一人、熱の下がらない子どもが二人、片目の鍛冶屋が一人」
リュシアが唇を噛む。
「そんなに……」
「姫様が気に病むことじゃない。この村は、どちらの国にも捨てられた。それだけの話だ」
どちらの国にも捨てられた。
その言葉が、胸に残った。
俺も、つい昨日までは勇者パーティーの一員だった。
そして今は、王国から反逆者扱いされている。
リュシアも、魔王の娘でありながら、父を守れなかったと自分を責めている。
棺の中の魔王も、人間からは悪と呼ばれ、死後は素材にされようとしていた。
ここに来るべきだったのかもしれない。
捨てられた者たちが、捨てられた土地へ。
俺は棺に触れた。
鑑定を発動する。
【対象:廃村アシュベル】
【状態:魔力枯渇、土壌毒化、水脈停止】
【死者数:多数】
【残存価値:未弔いの記憶】
【適正処置:魔力循環の楔を埋葬】
【推奨地点:旧共同畑中央】
視界に文字が浮かぶ。
やはりここだ。
魔王の遺体は、この村に埋葬されるべきなのだ。
「旧共同畑はどこだ」
俺が尋ねると、老人は村の奥を指さした。
「あの枯れた大きな畑だ。昔は村の者みんなで使っていた。春には麦が育ち、夏には豆、秋には芋が採れた」
「そこに埋める」
老人の顔が強張った。
「魔王様を、畑に?」
「鑑定では、そこが正しいと出ている」
「鑑定?」
「俺は死体鑑定士だ。死体に残された価値が見える」
老人は怪訝そうに俺を見た。
当然だろう。
死体しか見えない鑑定士など、王国でも珍しい。まして廃村の老人が知るはずもない。
「魔王の遺体は、世界の魔力を正しく巡らせる楔だ。王都へ運べば壊される。ここに埋めれば、この土地を再生できるかもしれない」
「かもしれない、か」
「絶対とは言えない」
俺は正直に答えた。
「でも、俺の鑑定はそう示している」
老人は黙った。
乾いた風が、彼の白髪を揺らす。
しばらくして、老人はゆっくりと立ち上がった。
「なら、案内しよう」
「いいのか」
「この村はもう死んでいる」
老人は杖をつきながら歩き出した。
「死んだ村に、魔王様をお迎えする。悪くない」
俺たちは老人の後について、村の中央を抜けた。
家の隙間から、誰かの視線を感じる。
痩せた女。
包帯を巻いた男。
扉の陰に隠れる子ども。
彼らは棺を見ていた。
恐れている者もいれば、拝むように手を合わせる者もいた。
魔王は、人間にとっては災厄だ。
だがこの村にとっては、違う存在だったのかもしれない。
共同畑に着いた。
畑と言っても、そこに作物はなかった。
広い黒土の中心に、ひび割れた大地があるだけだ。井戸に近い場所なのに、土は完全に乾いている。
リュシアが棺を畑の中央へ進める。
その瞬間、棺に刻まれた文字が強く光った。
俺の鑑定が、勝手に発動する。
【推奨地点到達】
【埋葬可能】
【効果予測:土地再生、井戸水脈回復、魔力毒浄化】
【副次効果:死者の記憶開花】
【注意:埋葬者の意思が必要】
埋葬者の意思。
俺はリュシアを見た。
「君が決めることらしい」
「私が……」
「墓守だからだと思う」
リュシアは棺の前に立った。
黒い棺に、そっと手を置く。
彼女の指は震えていた。
「父を、ここに置いていくのですね」
「埋葬するというのは、そういうことだ」
「分かっています」
リュシアは小さくうなずいた。
「分かっているのに、手が離れません」
その声を聞いて、俺は何も言えなかった。
彼女にとって、棺の中にいるのは魔王ではない。
世界再生素材でもない。
父親だ。
たとえ世界を救うためでも、父を土に埋めるのは簡単なはずがない。
老人が静かに頭を下げた。
「姫様。魔王様は、この村に何度も食糧を送ってくださいました」
リュシアが振り返る。
「父が?」
「はい。表向きは、魔王軍からの支援ではありませんでした。中立商人を通したり、名のない寄付にしたり。けれど、わしらは知っていました。魔王様が、この村を見捨てなかったことを」
老人の目に涙がにじむ。
「この村は助けられませんでしたが、それでも、最後まで覚えていてくれる方がいた。それだけで、わしらは生きてこられたのです」
リュシアは目を閉じた。
長い沈黙のあと、彼女は棺に額を寄せた。
「お父さま」
声は震えていた。
「私は、あなたをまだ失いたくありません」
風が止まる。
「でも、あなたが守ろうとしたものを、私が止めることはできません」
棺の文字が、静かに光る。
「墓守リュシアが、魔王ゼルグレイスを、廃村アシュベルの共同畑に埋葬します」
その瞬間、黒い棺がゆっくりと地面へ沈み始めた。
土が割れ、棺を受け入れるように開いていく。
俺は思わず息を呑んだ。
誰も掘っていない。
だが大地が、自ら棺のための墓穴を作っている。
棺は少しずつ沈み、黒い土に包まれていった。
リュシアは最後まで手を離さなかった。
やがて、棺の蓋が土の下に消える直前、彼女は小さくつぶやいた。
「おやすみなさい、お父さま」
棺は完全に土に沈んだ。
畑に静けさが戻る。
何も起こらない。
老人が息を止めて見守っている。
リュシアも、俺も、乾いた畑の中心を見つめた。
しばらくして、地面がかすかに震えた。
ひび割れた土の隙間から、黒い芽が顔を出す。
魔王城で見た芽と同じだった。
一本。
二本。
三本。
黒い芽は、畑の中心から円を描くように広がっていく。
そのうちの一本が、ゆっくりと小さな花を開いた。
黒い花だった。
闇のように黒いのに、不思議と冷たくない。
花びらの縁には、朝露のような銀色の光が宿っていた。
老人が膝をつく。
「黒曜花……」
リュシアが震える声で言った。
「父の墓に、花が咲いた……」
そのとき、村の方から叫び声が聞こえた。
「井戸だ!」
片目の男が走ってくる。
「井戸に水が戻った!」
老人が顔を上げる。
「何だと?」
「本当だ! 水が、井戸の底から!」
村の中がざわめく。
寝たきりだったはずの老婆が、家の戸口から顔を出していた。熱にうなされていた子どもが、母親に支えられながら外を見ている。
枯れた村が、息を吹き返し始めていた。
俺の視界に、鑑定結果が浮かぶ。
【埋葬完了】
【土地再生開始】
【水脈回復率:三パーセント】
【魔力毒浄化開始】
【黒曜花:開花】
【効果範囲:廃村アシュベル中心部】
成功した。
まだ小さな変化だ。
けれど確かに、魔王の遺体はこの土地を再生し始めている。
リュシアは黒い花の前に膝をついたまま、肩を震わせていた。
泣いていた。
今度は、涙をこらえていなかった。
俺は彼女の隣に立ち、畑に咲いた黒い花を見つめた。
魔王は死んだ。
だが、彼の死は終わりではなかった。
この村で、何かが始まった。
そのとき、遠くの荒野から角笛の音が聞こえた。
王国軍のものだった。
老人が青ざめる。
「追手か」
俺は西の空を見た。
土煙が上がっている。
まだ遠いが、確実にこちらへ近づいていた。
勇者カイゼルの追討隊。
魔王の遺体を奪い返すための兵たち。
俺は黒い花から目を離し、剣の柄に手を置いた。
ここが、魔王を埋葬した村。
ならば、ここが俺たちの最初の守る場所になる。
「リュシア」
「はい」
「逃げるか、残るか。決めるのは君だ」
リュシアは涙を拭い、立ち上がった。
その瞳には、もう迷いがなかった。
「残ります」
黒い花が、風に揺れる。
「父の墓を、もう二度と奪わせません」
俺はうなずいた。
「分かった」
死体しか見えない鑑定士は、廃村アシュベルで初めて、生きている者たちを守ることになった。




