第7話 死者を素材にする国
王都の地下には、太陽が届かない。
華やかな大通りも、白い花で飾られた広場も、勇者を称える鐘の音も、そこまでは降りてこない。
あるのは、低く唸る魔道炉の音だけだった。
王城の地下深く。
厚い石壁と結界に守られた研究区画で、宰相グラウスはゆっくりと歩いていた。
彼の前には、巨大な円筒形の炉がある。
青白い魔力光を脈打たせながら、王都全体へ力を送り続ける王国最大の魔道炉。
王都の街灯も、貴族街の温室も、城壁の防御結界も、すべてこの炉から供給される魔力によって維持されている。
民は知らない。
自分たちが夜でも明るい通りを歩ける理由を。
冬でも温かい部屋で眠れる理由を。
魔族領から流れ込む魔力の澱みを、誰がどこで処理しているのかを。
知らない方が幸せなこともある。
グラウスはそう考えていた。
「宰相閣下」
白衣をまとった老研究者が、深く頭を下げた。
「魔王の遺体が消失した件、すでに報告は受けております」
「では、状況も理解しているな」
「はい。非常にまずい」
老研究者の名は、ドルトン。
王立魔道研究院の院長であり、王国の魔力技術を三十年支えてきた男だった。
彼の目の下には濃い隈がある。
魔王討伐の報せが入って以来、ほとんど眠っていないのだろう。
「魔道炉の安定率は?」
「今朝から三パーセント低下しています」
「三パーセントか。まだ誤差の範囲ではないのか」
「通常ならば、そう申し上げます。しかし今回は違います。魔王死亡後、魔族領から流れ込む魔力毒の濃度が急上昇しています。これまで魔王が何らかの形で吸収していた可能性が高い」
グラウスは眉を動かした。
「その言い方は控えろ」
「事実です」
「事実でも、言い方がある」
ドルトンは口を閉じた。
研究者は、時に政治を知らない。
魔王が世界を守っていたなどという言葉が外へ漏れれば、王国の正義は揺らぐ。
勇者の栄光も傷つく。
民は混乱し、貴族は責任を押しつけ合い、教会は教義の修正を迫られる。
そんな事態は避けなければならない。
「必要なのは事実の整理ではない。王国を維持するための対応だ」
グラウスは魔道炉を見上げた。
「魔王の遺体があれば、炉は安定するのだな」
「それどころか、王都の魔力供給は現在の三倍以上になります」
ドルトンの声に、研究者としての興奮が混じる。
「魔王ゼルグレイスの遺体には、規格外の魔力が残っているはずです。心臓、骨、角、血液、眼球、髄液……どの部位も貴重な素材になります。特に心臓は、魔道炉の永久核として利用できる可能性がある」
「永久核」
「はい。もし成功すれば、王都は二百年、いえ三百年は魔力不足に悩まされません。魔族領に頼る必要もない。辺境の枯渇地帯など切り捨てても、王都だけは永遠に栄える」
グラウスは薄く笑った。
「すばらしい話だ」
「ですが、そのためには遺体が必要です。損傷の少ない状態で、可能なら心臓を完全な形で回収したい」
「レイン・オルディアが持ち去った」
「死体鑑定士の若造ですね」
ドルトンの声に、わずかな苛立ちが混じった。
「彼の能力は以前から報告を受けていました。死体の状態や残存魔力を読む、珍しい鑑定技能です。研究院へ引き抜こうとしたこともありますが、勇者パーティーに同行していたため保留されていました」
「有用なのか」
「使い方によっては」
「勇者は役立たずと言っていたが」
「勇者様は、死者を調べる技術の価値をご存じないのでしょう」
その言葉には、勇者への軽い侮りがあった。
グラウスは聞かなかったことにした。
研究者は、時に英雄さえ素材の一つとして見る。
それはそれで使いやすい。
「その死体鑑定士は、魔王の遺体から何かを見た可能性がある」
「でしょうな」
「何を見たと思う」
ドルトンは答えに迷った。
やがて、声を落として言った。
「おそらく、魔王の遺体が世界の魔力循環に関わっていることを」
「どの程度だ」
「能力の精度によります。ただ、彼が遺体を王都へ運ばせず、魔族の娘とともに持ち去ったのなら、少なくとも兵器転用や炉への投入が危険だと判断したのでしょう」
「危険か」
「はい」
「では聞くが、魔王の遺体を炉へ入れれば、本当に危険なのか」
ドルトンは、わずかに視線を逸らした。
「制御に失敗すれば、王都の半分が消し飛びます」
「成功すれば?」
「王国は大陸を支配できます」
グラウスは笑った。
「ならば、やる価値はある」
ドルトンは何も言わなかった。
魔道炉の唸りが、地下に重く響く。
その音は、巨大な獣の呼吸のようだった。
「この国は、死者の上に立っている」
グラウスは静かに言った。
「先王の時代から、ずっとそうだ。戦で死んだ兵士の魔力結晶。処刑された魔術師の骨。魔族領で回収した遺骸。名誉ある犠牲という言葉で包めば、民は何も疑わない」
「閣下」
「何だ」
「その言葉は、私どもの前だけにしてください」
ドルトンは苦々しく言った。
「研究者は、素材を素材として扱います。しかし民は、そうではない」
「分かっている」
グラウスは微笑んだ。
「だからこそ、言葉を選ぶのだ。死体ではなく、聖遺物。実験ではなく、浄化研究。兵器ではなく、防衛技術。王国は昔から、名前を変えるのが得意だからな」
ドルトンは返事をしなかった。
魔道炉のそばに、いくつもの透明な容器が並んでいる。
中には、青白く光る結晶が浮かんでいた。
グラウスはその一つに近づく。
「これは?」
「魔族兵の心臓から抽出した魔力結晶です。出力は低いですが、安定しています」
「こちらは?」
「王国兵の遺体から採取した残留魔力です。本人の同意書は、死後に家族から取得しています」
「同意書か」
「形式上は必要です」
グラウスは容器の中の光を見つめた。
死者はよく働く。
文句を言わない。
反乱を起こさない。
眠ることも、食べることも、報酬を求めることもない。
正しく加工すれば、彼らは死後も王国を支える。
それの何が悪いのか。
生きている者のために、死んだ者を使う。
国家とは、そういうものだ。
グラウスは本気でそう思っていた。
「レイン・オルディアは、厄介だな」
「彼が遺体の価値を理解しているなら、なおさらです」
「捕らえた場合、研究院で使えるか」
「能力だけなら使えます。ただし、性格が問題でしょう」
「死者への敬意、というやつか」
グラウスは鼻で笑った。
「若いな」
「若さだけではありません。ああいう者は、死体を数字で見ない。だから研究には向きません」
「では、処分か」
「可能なら、鑑定能力だけは記録したいところです」
ドルトンの目が、研究者のものに戻る。
「もし彼の眼球や脳に、鑑定能力の痕跡が残るなら――」
「そこまでだ」
グラウスが片手を上げた。
「まだ殺すと決めたわけではない」
「失礼しました」
「だが、必要になれば許可する」
ドルトンは深く頭を下げた。
「承知しました」
そのとき、地下研究区画の扉が開いた。
一人の騎士が入ってくる。
「宰相閣下。勇者カイゼル様がお見えです」
「通せ」
ほどなくして、勇者カイゼルが姿を現した。
凱旋式の白銀鎧を脱ぎ、動きやすい戦装束に着替えている。腰には聖剣。表情からは、民衆の前で見せていた柔らかな笑みが消えていた。
「ここにいたか、宰相」
「勇者様。式典後すぐにこちらへ?」
「当然だ。レインの件を片づける」
カイゼルの視線が、地下研究区画を一巡する。
魔道炉。
容器に浮かぶ魔力結晶。
魔族の骨。
切り分けられた魔物の角。
彼は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに興味を失ったようだった。
「ここが魔王の遺体を運ぶ予定だった場所か」
「はい」
ドルトンが答えた。
「魔王の心臓を炉の核にする準備は整っていました」
「なら、必ず取り戻す」
カイゼルは即答した。
「レインはどこへ向かった」
「魔力導線の反応から見て、西方です」
ドルトンが地図を広げる。
魔王城から西へ、黒い線が薄く浮かんでいた。
「この先には、アシュベル廃村があります」
「廃村?」
「魔力枯渇地帯です。十年前に放棄された混血村。現在は数名の住人が残るのみ」
「なぜそこへ」
「魔王の遺体が、枯渇地帯に反応している可能性があります」
カイゼルは意味が分からないという顔をした。
「死体が土地を選ぶのか」
「魔王の遺体は通常の死体ではありません。世界規模の魔力循環に干渉している可能性が高い」
「難しい話はいい」
カイゼルは地図を指で叩いた。
「要するに、あいつはそこへ向かっているんだな」
「おそらく」
「なら追う」
グラウスが口を挟む。
「勇者様自ら動かれるのですか」
「俺の物語を汚された」
カイゼルの声には、怒りがにじんでいた。
「あいつは魔王を倒したこの日に、俺の凱旋に泥を塗った。反逆者として民の前に引きずり出す」
「魔王の遺体は、できれば損傷の少ない状態で」
「分かっている」
カイゼルは不快そうに言った。
「心臓が必要なんだろう」
「はい。心臓だけは必ず」
「リュシアという魔族の娘は?」
グラウスが尋ねる。
「魔王の娘です。血族として研究価値がある。生け捕りが望ましい」
「価値、価値か」
カイゼルは笑った。
「お前たちは何でも価値で見るな」
「国家運営とは、価値の配分です」
「まあいい。俺も利用できるものは嫌いじゃない」
その言葉を聞き、グラウスは満足そうに微笑んだ。
カイゼルは、王国にとって理想的な英雄だった。
民衆の前では美しい言葉を語る。
だが裏では、必要な汚れ仕事を理解している。
彼は正義を信じているのではない。
自分が正義として称えられることを信じている。
だから扱いやすい。
「勇者様」
ドルトンが慎重に口を開いた。
「一点だけ、ご注意を。魔王の遺体に無理な干渉をすると、予期せぬ反応が起きる可能性があります」
「死体だろう」
「魔王の死体です」
「俺が殺した」
カイゼルは聖剣の柄に手を置いた。
「もう一度動くなら、もう一度斬るだけだ」
ドルトンは黙った。
その沈黙を、カイゼルは同意と受け取った。
「部隊を出す。騎兵と神官兵を中心に編成しろ。セレナは置いていく」
「聖女様を?」
グラウスが尋ねる。
「余計なことを考えている顔をしていた。レインに情でも移ったのかもしれない」
「それは困りますな」
「だから連れていかない。あいつの祈りは民衆の前で使える。戦場で迷われては邪魔だ」
「承知しました」
カイゼルは地図を見下ろした。
魔王城から西へ伸びる黒い線。
その先にある廃村アシュベル。
そこへ向かうレインとリュシア。
カイゼルの目には、もう彼らは人間にも魔族にも見えていなかった。
自分の英雄譚に生まれた汚点。
消すべき染み。
ただそれだけだった。
「レイン」
カイゼルは低くつぶやいた。
「死体しか見えないお前に、国の未来など見えるはずがない」
地下の魔道炉が、再び低く唸った。
その音は、王国の心臓の鼓動のようだった。
死者の魔力で動き続ける、巨大な心臓。
地上では今も、民衆が勇者の名を叫んでいる。
白い花が舞い、鐘が鳴り、酒が配られ、子どもたちは英雄ごっこをしている。
誰も知らない。
その明るい街の地下で、死者が素材として並べられていることを。
誰も知らない。
王国が救った世界は、誰かの遺体を燃やして光っていることを。
そして今、王国は新たな素材を求めていた。
魔王の心臓。
魔王の血。
魔王の娘。
死体鑑定士の能力。
死者を素材にする国は、もう止まれない。
グラウスは地図の上に指を置き、静かに命じた。
「追討隊を出しなさい」
その命令は、地下研究区画から王城へ、王城から軍司令部へ、軍司令部から西門へと伝わっていく。
まもなく、王都の西門が開いた。
勇者カイゼルを先頭に、騎兵たちが荒野へ向かって駆け出す。
彼らの目的は、魔王の遺体を取り戻すこと。
そして、反逆者となった死体鑑定士を捕らえることだった。




