第6話 勇者は英雄になった
その朝、王都は鐘の音で目を覚ました。
一つ目の鐘は、勝利を告げる鐘。
二つ目の鐘は、魔王討伐を告げる鐘。
三つ目の鐘は、新たな英雄の誕生を告げる鐘だった。
王都中央大通りには、夜明け前から人々が押し寄せていた。パン屋の店主も、仕立屋の娘も、兵士の妻も、孤児院の子どもたちも、皆が通りへ出ている。窓という窓から布が垂らされ、白い花が撒かれ、酒場では朝から樽が開けられていた。
「勇者様が帰ってくるぞ!」
「魔王が倒されたんだ!」
「これで戦争は終わる!」
誰もが笑っていた。
誰もが泣いていた。
長く続いた魔王との戦争が、ようやく終わったのだと信じていた。
やがて、王都の正門が開いた。
真っ先に姿を現したのは、白銀の鎧をまとった勇者カイゼルだった。
金色の髪が朝日に輝き、背には聖剣。鎧には魔王城で受けた傷が残っていたが、それさえ民衆の目には英雄の証に映った。
カイゼルが片手を上げる。
それだけで、王都は割れんばかりの歓声に包まれた。
「勇者カイゼル!」
「人類の剣!」
「魔王殺しの英雄!」
花びらが舞う。
白い花。
赤い花。
黄色い花。
それらがカイゼルの肩に、髪に、聖剣の柄に降りかかる。
彼は微笑んでいた。
誰から見ても、完璧な英雄の笑みだった。
その少し後ろを、聖女セレナが歩いていた。
純白の法衣に身を包み、胸元には聖教会の紋章。彼女にも民衆から多くの祈りと感謝が向けられていた。
「聖女様!」
「息子を救ってくださってありがとうございます!」
「あなたの祈りのおかげです!」
セレナは微笑み、手を振った。
けれど、その笑みはカイゼルほど明るくはなかった。
彼女の脳裏には、魔王城の玉座の間が残っている。
倒れた魔王。
黒い棺。
そして、そこに残された一人の青年。
死体鑑定士レイン・オルディア。
彼が最後にどんな表情をしていたのか、セレナははっきり覚えていた。
怒りではなかった。
恨みでもなかった。
ただ、見捨てられた者の静かな諦めがあった。
「セレナ」
前を歩いていたカイゼルが、振り返らずに言った。
「顔が暗いぞ。民が見ている」
「……申し訳ありません」
「今日は人類の勝利の日だ。余計なことは考えるな」
余計なこと。
その言葉に、セレナの胸がわずかに痛んだ。
レインのことも、魔王の遺体のことも、カイゼルにとっては余計なことなのだろうか。
だが、セレナは何も言えなかった。
大通りの先、王城のバルコニーでは、国王と重臣たちが勇者の凱旋を待っていた。
王城前広場にたどり着くと、カイゼルは馬を降り、膝をついた。
国王が高らかに宣言する。
「勇者カイゼルよ。そなたは人類の宿敵、魔王ゼルグレイスを討ち果たした。ここに、王国最高位の勲章を授ける」
民衆の歓声がさらに大きくなる。
カイゼルは恭しく頭を垂れた。
「すべては陛下と、王国の民のために」
美しい言葉だった。
台本のように整った言葉だった。
王国の記録官たちが、忙しく筆を走らせている。
その場には、討伐隊の功績をまとめるための公式記録係もいた。
魔王討伐の参加者名簿。
勇者カイゼル。
聖女セレナ。
宮廷魔術師バルド。
剣士グラン。
神官兵団。
王国騎士団選抜隊。
そこに、レイン・オルディアの名前はなかった。
記録官の一人が、小声で上官に尋ねる。
「死体鑑定士の名は、入れなくてよろしいのですか」
上官は、顔も上げずに答えた。
「不要だ」
「しかし、討伐隊には同行していたはずでは」
「勇者様の正式な補佐ではない。現地調査員扱いだ」
「ですが、旅の初期記録には――」
「削れ」
短い命令だった。
記録官は黙って、名簿の端に書きかけていた名前を線で消した。
レイン・オルディア。
その名は、王国の公式な英雄譚から消えた。
カイゼルは、それを横目で確認していた。
当然だと思った。
魔王を倒したのは自分だ。
聖剣を振るったのも自分だ。
民衆の前に立つべきなのも自分だ。
死体しか見えない陰気な鑑定士など、英雄譚には似合わない。
彼がいたところで、物語が汚れるだけだ。
「勇者様」
式典が終わると、王国宰相グラウスがカイゼルのそばへ歩み寄ってきた。
痩せた男だった。
目だけが妙に鋭く、口元には常に薄い笑みを浮かべている。
「凱旋、お見事でした」
「民は単純だな」
カイゼルは小さく笑った。
「魔王を殺したと言えば、あれほど喜ぶ」
「それだけ、民は英雄を求めていたということです」
「英雄、か」
カイゼルは自分の聖剣に手を置いた。
「悪くない響きだ」
「今後、王国は勇者様を中心に新たな秩序を築くことになります。魔族領の再編、辺境地の管理、聖剣の研究……やるべきことは多い」
「魔王の遺体は?」
カイゼルが尋ねると、宰相の笑みがわずかに薄くなった。
「現在、魔王城で回収作業中です」
「遅いな」
「制圧直後ゆえ、多少の混乱があるようです」
「魔王の死体には、膨大な魔力が残っているはずだ。王都へ運べば、聖剣の強化にも使える。学者どもも欲しがっていただろう」
「はい。魔道炉の新型核としても、極めて有望です」
魔道炉。
その言葉を聞き、少し離れた場所にいたセレナの表情が曇った。
魔道炉は、王都を支える巨大な魔力機関だ。
街の灯りも、結界も、貴族街の温室も、すべて魔道炉によって維持されている。
だが、その燃料がどこから来るのか、民衆は知らない。
セレナも、詳しくは知らされていなかった。
「魔王の遺体を、燃料にするのですか」
思わず口を挟んだ。
宰相グラウスが、ゆっくりと彼女を見る。
「聖女殿。燃料という言い方は正確ではありません。魔王の遺体は、王国の未来を支える資源です」
「遺体です」
「魔王の、です」
宰相は静かに言った。
「人ではありません」
セレナは言葉を失った。
その言い方を、彼女はどこかで聞いた気がした。
玉座の間で、王国兵がリュシアに向かって言った言葉。
魔族に弔いなど必要ない。
胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
「セレナ」
カイゼルの声が冷たく響く。
「まさか、魔王に同情しているのか」
「そういうわけでは……」
「なら黙っていろ。君の役目は、民の前で祈ることだ。戦後処理は俺と宰相に任せておけばいい」
セレナは唇を結んだ。
言い返したかった。
だが、何と言えばいいのか分からなかった。
魔王は敵だ。
カイゼルは勇者だ。
王国は正義の側だ。
そう信じてここまで来た。
ならば、なぜ自分は今、こんなにも息苦しいのだろう。
そのとき、広場の外から一人の兵士が駆け込んできた。
鎧は汚れ、額には汗が浮かんでいる。
「報告します!」
兵士は膝をついた。
「魔王城より緊急伝令! 魔王ゼルグレイスの遺体が、棺ごと消失しました!」
周囲の空気が凍った。
カイゼルの笑みが消える。
「消失?」
「はい! 地下墓所から城外へ運び出された形跡があります。現場には魔族の娘と、元討伐隊員レイン・オルディアの姿が確認されています!」
セレナの心臓が大きく跳ねた。
レイン。
生きていた。
いや、それどころか、魔王の遺体を持ち出した。
カイゼルはゆっくりと立ち上がった。
「レインが?」
「はっ。兵士の証言によれば、死体鑑定士レインは魔族の娘と共謀し、魔王の棺を運んで逃亡したとのことです」
宰相グラウスの目が細くなる。
「勇者様。これは面倒なことになりましたな」
「面倒?」
カイゼルは低く笑った。
「違う。あいつは最後まで、自分の役割を分かっていなかっただけだ」
「いかがなさいますか」
「決まっている」
カイゼルは民衆の歓声がまだ残る広場を見渡した。
つい先ほどまで、彼は英雄として称えられていた。
その英雄譚に、余計な影が差そうとしている。
死体鑑定士。
魔族の娘。
消えた魔王の遺体。
そんなものは、早いうちに潰さなければならない。
「レイン・オルディアは、魔王復活を企む反逆者だ」
カイゼルははっきりと言った。
セレナが息を呑む。
「待ってください。まだ事情も聞いていません」
「事情?」
カイゼルは彼女を見た。
「魔王の遺体を盗み、魔族の娘と逃げた。それ以上の事情が必要か?」
「ですが、レインは理由もなくそんなことをする人では――」
「君はあいつの何を知っている」
その一言で、セレナは黙った。
確かに、何も知らなかった。
旅をしていた三年間、レインはいつも後ろにいた。戦いが終わったあと、死体のそばで黙っていた。仲間たちが焚き火を囲んで笑っているとき、少し離れた場所で記録を取っていた。
彼が何を考えていたのか。
何に傷ついていたのか。
セレナは知ろうとしなかった。
知ろうとしないまま、見捨てた。
「宰相」
カイゼルは命じた。
「すぐに通達を出せ。元鑑定士レイン・オルディアは、魔族残党と結託した反逆者。発見次第、捕縛。抵抗すれば斬って構わない」
「承知しました」
「魔王の遺体は必ず回収しろ。傷をつけてもいい。棺ごと壊しても構わん」
「では、魔族の娘は?」
カイゼルは少し考えた。
「生け捕りにしろ。魔王の血族なら、利用価値がある」
利用価値。
また、その言葉だった。
セレナは、無意識に自分の胸元の聖印を握りしめた。
自分たちは、本当に正しいのだろうか。
その問いが浮かんだ瞬間、彼女は慌てて打ち消した。
勇者を疑ってはいけない。
王国を疑ってはいけない。
魔王を倒すために、どれだけの人が祈り、犠牲になってきたのか。
ここで疑えば、そのすべてが揺らいでしまう。
だが、レインの静かな声が記憶の底からよみがえる。
――この遺体は、持ち帰らない方がいい。
あのとき、彼は何を見ていたのだろう。
死体しか見えない鑑定士には、何が見えていたのだろう。
王城の上空に、追討命令を知らせる赤い魔法灯が打ち上がった。
民衆は、それを新たな祝砲だと思って歓声を上げた。
誰も知らない。
勇者の凱旋の日に、一人の鑑定士が反逆者にされたことを。
誰も知らない。
魔王の遺体が、世界を救う最後の楔であることを。
そして誰も知らない。
英雄になった勇者が、その日のうちに、死者を奪い返すための追跡を命じたことを。
カイゼルは聖剣を握り、低くつぶやいた。
「レイン。お前は最後まで、俺の物語の邪魔をするんだな」
その声は、民衆の歓声にかき消された。
王都はまだ、勇者の勝利に酔っていた。
白い花びらが舞う中で、英雄の名前だけが何度も叫ばれる。
レイン・オルディアの名は、もうどこにもなかった。




