第5話 棺を盗む夜
地下道の先に、夜があった。
魔王城の外壁の下、岩と枯れ草に隠された小さな出口から、冷たい風が流れ込んでいる。東の空はまだ暗い。だが、夜の底にほんの少しだけ青が混じり始めていた。
夜明けまで、あまり時間はない。
俺とリュシアは、黒い棺をゆっくりと地下道から外へ出した。
棺はリュシアの魔力で浮いている。だが、完全に重さが消えるわけではないらしい。彼女の額には汗がにじみ、息は浅くなっていた。
「少し休むか」
「大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃない」
「でも、止まれば追いつかれます」
リュシアはそう言って、棺に添えた手にさらに力を込めた。
黒い棺が、ふわりと岩場の上を進む。
俺は周囲を見回した。
魔王城の外は、思っていたより静かだった。遠くで王国兵の声が聞こえる。城内ではまだ、宝物庫や武器庫を調べているのだろう。勝者たちは、魔王の遺体がもう城から運び出されつつあることに気づいていない。
いや、気づいていても、まだ出口を特定できていないだけかもしれない。
見つかれば終わりだ。
追放された鑑定士と魔族の墓守が、魔王の遺体を棺ごと盗み出している。
王国から見れば、完全な反逆行為だった。
「盗んでいるんだよな」
俺はぽつりと言った。
リュシアがこちらを見る。
「何をですか?」
「棺を。魔王の遺体を」
「父は、王国のものではありません」
「それは分かってる。でも王国はそう思わない」
きっと明日には、いや、数時間後には、俺は犯罪者になる。
勇者パーティーを追放された死体鑑定士。
魔王の遺体を奪った反逆者。
魔族の娘と逃げた裏切り者。
王都の連中がどんな言葉で俺を呼ぶか、想像はついた。
「怖いですか」
リュシアが尋ねた。
俺は少し考えた。
「怖くないと言えば嘘になる」
「そうですか」
「でも、置いていく方が怖い」
俺は黒い棺を見た。
「死体を切り刻まれる場所に置いて、自分だけ逃げる方が、たぶんずっと怖い」
リュシアは黙っていた。
その横顔は、夜風にさらされて青白く見えた。
「レインさんは、不思議な人ですね」
「よく言われる」
「人間なのに、死者の前では嘘をつかない」
「生きてる人間相手には嘘をつくこともある」
「それでも、父の前ではつかなかった」
その言葉に、俺は返事をしなかった。
嘘をつかなかったのではない。
つけなかっただけだ。
魔王の遺体に触れた瞬間、俺は知ってしまった。そこに残されていた価値を。王国が見ようとしない真実を。
知ってしまったものを、知らなかったことにはできない。
それが俺の鑑定だった。
岩場を抜けると、黒い森が広がっていた。
葉の落ちた木々が、無数の骨のように夜空へ枝を伸ばしている。地面は乾き、ところどころひび割れていた。魔族領と人間領の境に近い土地だ。長い戦争で、どちらのものにもなれなかった場所。
リュシアは森の奥を指さした。
「この道を西へ進めば、アシュベルへ向かう古道に出ます」
「どれくらいかかる」
「普通に歩けば半日ほど。でも、この棺を運びながらでは……」
「夜明けまでには厳しいか」
リュシアは唇を噛んだ。
「申し訳ありません」
「君のせいじゃない」
問題は距離だ。
鑑定結果は、夜明けまでに埋葬しろと言っていた。だが、目的地までは遠い。このままでは間に合わない。
俺は棺に手を置いた。
もう一度、鑑定を発動する。
【対象:魔王ゼルグレイスの遺体】
【状態:棺納】
【処置期限:夜明けまで】
【現在地から推奨埋葬地までの通常移動:不達】
【代替処置:一時根付け】
【条件:魔力枯渇地帯に連なる土地へ、魔王の血を一滴落とす】
【効果:埋葬地までの魔力導線を形成】
一時根付け。
そんな処置があるのか。
俺は鑑定結果をリュシアに伝えた。
「魔王の血を一滴、土地に落とせばいいらしい。アシュベルまで続く魔力の道を作る、と出ている」
「父の血を……」
「嫌なら、別の方法を考える」
俺が言うと、リュシアは首を振った。
「いいえ。父はきっと、そのために血を残したのだと思います」
「分かるのか?」
「父は、死んだあとにまで何かを残す人でしたから」
リュシアは棺の蓋に手を置いた。
黒い棺の文字が淡く光り、蓋がほんの少しだけ開く。
中から、冷たい魔力が流れ出した。
魔王ゼルグレイスの遺体は、静かに眠っていた。
胸の傷からは、もう血は流れていない。だが傷口に固まった黒い血が、まだ光を帯びている。
俺は布を取り出し、慎重にその血を一滴だけ拭い取った。
重い。
血の一滴なのに、手の中に小石を乗せているような重みがあった。
いや、小石ではない。
もっと大きなもの。
森や川や空を、無理やり一滴に押し込めたような重さ。
「これが、魔王の血……」
俺は枯れた地面に膝をついた。
黒い血を、一滴落とす。
地面に触れた瞬間、乾いた土が震えた。
ひび割れの中に黒い線が走る。
それは根のように森の奥へ伸びていき、乾いた地面の下へ消えていった。
次の瞬間、風が変わった。
さっきまで死んだように冷たかった森の空気に、かすかな土の匂いが混じる。
リュシアが目を見開いた。
「道が……」
俺にも見えた。
森の奥へ続く黒い光の筋。
普通の人間には見えないかもしれない。だが、死体鑑定士である俺には、それが死者の残した価値の流れだと分かった。
魔王の遺体が、埋葬されるべき土地へ向かって道を作っている。
【一時根付け:成功】
【魔力導線形成】
【処置期限:夜明けから日没まで延長】
視界に新たな文字が浮かんだ。
俺は深く息を吐いた。
「期限が延びた」
「本当ですか?」
「ああ。日没までに埋葬すればいい」
リュシアの肩から、わずかに力が抜ける。
だが安心するには早かった。
城の方角から、角笛の音が響いた。
低く、鋭い音。
ひとつ。
続いて、二つ。
警報だ。
「気づかれたな」
俺は立ち上がった。
魔王城の上空に、赤い魔法灯が打ち上がる。夜空の中で弾け、血のような光が広がった。
リュシアの顔が強張る。
「棺が消えたことに気づいたのでしょう」
「追手が来る」
「はい」
「走れるか」
「走ります」
リュシアは棺を押し出した。
黒い棺は、先ほど地面に生まれた光の筋に沿って進み始める。まるで棺そのものが行き先を知っているようだった。
俺たちは森の中へ入った。
枝が頬をかすめる。
枯れ葉が足元で砕ける。
棺は大きく、細い道では何度も木の根に引っかかった。そのたびに俺が押し、リュシアが魔力を込め、少しずつ前へ進む。
背後から、馬のいななきが聞こえた。
王国兵が城外へ出たのだ。
「レインさん」
リュシアの声が切迫する。
「追いつかれます」
「分かってる」
だが、どうする。
戦えない。
逃げ切れない。
棺を捨てるわけにはいかない。
俺は森の中を見回した。
死者。
どこかに、死者の残したものはないか。
ここは戦場跡だ。魔王城へ攻め込む前、人間と魔族が何度も衝突した土地のはずだ。
俺は足元に半ば埋もれていた錆びた剣を見つけ、手を伸ばした。
鑑定を発動する。
【対象:王国斥候兵の遺骨付近に残された短剣】
【所有者:エミル・ラグ】
【死因:魔族領侵入時の遭難】
【遺体価値:未帰還者の道標】
【使用可能:一度だけ、追跡者に偽の足跡を見せる】
あった。
俺は短剣を地面から引き抜いた。
刃は錆びていて、武器としては使えない。だが柄には小さな布が巻かれていた。王国兵の認識布だ。
この兵士は、帰れなかったのだろう。
誰にも見つけられず、この森で朽ちた。
「借りるぞ」
俺は短剣を地面に突き立てた。
「お前を置いて帰った王国兵に、少しだけ道を間違えてもらう」
短剣がかすかに光った。
森の中に、複数の足音が生まれる。
俺たちとは反対方向へ走っていく幻の足音。
背後の追手たちが叫ぶ。
「足跡が分かれたぞ!」
「あっちだ!」
「いや、棺の跡はどこだ!」
混乱が広がる。
その隙に、俺たちは黒い光の筋を追ってさらに森の奥へ進んだ。
「また、死者に助けられたのですね」
リュシアが息を切らしながら言った。
「ああ」
「人間の兵なのに」
「死んだら、敵も味方もない」
俺はそう答えた。
「少なくとも俺の鑑定には、敵か味方かなんて表示されない。あるのは、誰がどう生きて、何を残したかだけだ」
リュシアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「父が、あなたに会えていたらよかった」
「魔王が?」
「はい。きっと、話を聞いてくれたと思います」
俺は返事に困った。
魔王と話す自分など、少し前までは想像もしなかった。
魔王は倒すもの。
死体鑑定士の俺が触れるとしたら、戦いの後だけ。
そう思っていた。
だが今、俺は魔王の棺を運んでいる。
彼の娘と一緒に。
世界を再生するかもしれない遺体を、王国から盗み出している。
本当に、何が起こるか分からない。
森を抜ける直前、突然、前方に光が走った。
白い矢のような魔法が、俺たちの足元を撃つ。
土が爆ぜ、棺が大きく揺れた。
リュシアが悲鳴をこらえる。
「止まれ」
低い声がした。
前方の木々の間から、一人の男が現れた。
王国兵ではない。
白い外套。
聖教会の紋章。
魔術杖を持った、神官兵だった。
「魔王の遺体を棺ごと盗み出すとは、愚かなことをしたな」
男は冷たい目で俺たちを見た。
「死体鑑定士レイン・オルディア。魔族の娘と共謀し、王国の重要戦利品を奪った罪は重い」
「戦利品じゃない」
俺は棺の前に立った。
「これは遺体だ」
「魔王の遺体だ。人間に仇なした災厄の残骸にすぎない」
また、その言葉だ。
残骸。
素材。
戦利品。
どうして誰も、死者と呼ばない。
神官兵は杖を構えた。
「そこをどけ。魔族の娘は捕縛。貴様は反逆者として拘束する」
「断る」
「ならば、手足の一本は失うと思え」
白い魔力が杖の先に集まる。
俺は剣を握り直した。
勝てる相手ではない。
さっきの兵士より、ずっと危険だ。
そのとき、棺の中から、低い鼓動のような音が響いた。
どくん。
リュシアが息を呑む。
「お父さま……?」
棺に刻まれた文字が黒く光る。
俺の視界に、勝手に鑑定結果が浮かんだ。
【対象:魔王ゼルグレイスの遺体】
【防衛反応:発動可能】
【条件:墓守の許可】
【効果:非殺傷性の魔力圧による進路確保】
【注意:遺体損耗なし】
俺はリュシアを見た。
「君の許可が必要らしい」
「父は……まだ、守ろうとしているのですか」
「たぶんな」
リュシアは棺に手を置いた。
震える声で、それでもはっきりと言った。
「墓守リュシアが許可します。父よ、死者を冒涜する者から、あなた自身をお守りください」
次の瞬間、棺から黒い風が放たれた。
それは刃ではなかった。
炎でもなかった。
ただ、圧倒的な重みを持った魔力の波だった。
神官兵の白い魔法が一瞬でかき消える。
「なっ……!」
男の体が後方へ吹き飛ばされ、木の幹に叩きつけられた。
死んではいない。
だが、しばらく動けないだろう。
道が開いた。
俺はリュシアに叫ぶ。
「行くぞ!」
「はい!」
俺たちは棺を押し、森を抜けた。
その先には、夜明け前の荒野が広がっていた。
遠くに、低い丘が見える。
その向こうに、アシュベルがあるのだろう。
背後では、まだ王国兵の怒号が聞こえる。
だが、黒い光の筋はまっすぐ前へ続いていた。
俺たちはもう引き返せない。
魔王の棺を盗んだ夜。
俺は王国の民ではなくなった。
勇者の仲間でもなくなった。
ただ、ひとりの死者を正しく弔うために走る、死体鑑定士になった。
東の空が、少しずつ白み始める。
リュシアは棺に寄り添いながら、かすれた声で言った。
「父を、朝までに安全な場所へ」
「ああ」
俺は荒野の先を見据えた。
「必ず連れていく」
黒い棺は、夜明けへ向かって進んでいった。




