第4話 墓守の少女
「この死体は、もう王国のものじゃない」
俺がそう言うと、玉座の間に踏み込んできた王国兵たちは、一瞬だけ動きを止めた。
先頭にいた兵士の兜には、王都直属軍の紋章が刻まれている。勇者カイゼルに同行していた討伐隊ではない。魔王城の制圧後、宝物や資料を押収するために後から入ってきた部隊だろう。
彼らの視線は、俺ではなく黒い棺に向いていた。
棺の中に眠る魔王ゼルグレイス。
人類の敵として倒された存在。
だが、彼らの目にあるのは恐怖でも憎しみでもなかった。
欲だった。
「そこをどけ、鑑定士」
兵士の一人が槍を構えた。
「その棺は王国が管理する。魔王の遺体は、陛下への献上品だ」
「献上品?」
俺は思わず聞き返した。
「死者を品物みたいに言うんだな」
「魔王は人ではない。討伐された魔物だ」
兵士は当然のように言った。
その言葉を聞いた瞬間、背後にいたリュシアの息が小さく震えた。
俺は振り返らなかった。
今、彼女の顔を見たら、たぶん冷静でいられない。
「魔王の遺体には、まだ膨大な魔力が残っている。王都へ運べば、研究素材として利用できる。聖剣の強化、魔道炉の燃料、不死兵団の核……使い道はいくらでもある」
「だから駄目だと言っている」
「貴様に判断する権利はない」
兵士が一歩近づいた。
「勇者カイゼル様からも通達が出ている。元パーティーメンバーのレイン・オルディアは、任務終了後に除名。以後、王国軍の指揮下にはない。つまり貴様は、ただの民間人だ」
「ずいぶん早い通達だな」
「勇者様は判断が早い」
違う。
俺を切り捨てる準備を、最初からしていたのだ。
そう思っても、不思議と腹は立たなかった。
胸の奥が少し冷えただけだった。
兵士の視線が俺の背後に移る。
「それから、魔族の娘」
リュシアの肩が強張った。
「魔王の血族なら、なおさら捕縛対象だ。抵抗しなければ、命までは取らん」
「……父を、どうするつもりですか」
リュシアが初めて口を開いた。
細い声だった。
だが、逃げる者の声ではなかった。
「父?」
兵士が鼻で笑う。
「なるほど。魔王の娘か。ならばよく聞け。お前の父親は、人類を脅かした災厄だ。その遺体は王都で研究され、王国の未来に役立てられる。名誉なことだろう」
「名誉……」
リュシアは、棺の縁を握りしめた。
「切り刻まれることが、名誉なのですか」
「魔族に弔いなど必要ない」
その言葉が、玉座の間に落ちた。
俺の中で、何かが静かに切れた。
怒鳴りたくはならなかった。
剣を振り回したくもならなかった。
ただ、目の前の兵士たちが、ひどく遠いものに見えた。
死者を前にして、ここまで何も感じない人間がいる。
いや、違う。
感じないのではない。
感じないように教えられてきたのだ。
魔王は悪。
魔族は敵。
敵の死体は素材。
そう信じれば、誰も傷つかずに死者を踏める。
「リュシア」
俺は小さく呼んだ。
「はい」
「この城に、外へ出られる別の道はあるか」
兵士たちの表情が変わった。
「貴様、逃げる気か!」
「あるか?」
俺は兵士を無視して、もう一度尋ねた。
リュシアは一瞬だけ迷ったあと、小さくうなずいた。
「墓守だけが使う道があります。地下墓所の奥から、城壁の外へ出られます」
「棺は通れるか」
「……ぎりぎり、通せます」
「なら行くぞ」
俺は剣を構え直した。
兵士たちが前へ出る。
数は六人。
正面から戦えば勝ち目はない。俺は剣士ではない。勇者パーティーにいたといっても、戦いの後に死体を調べるだけの役目だった。
だが、ここは魔王城だ。
そして、足元には多くの死者がいる。
俺は玉座の間に倒れていた魔族兵の遺体へ視線を向けた。
鑑定を発動する。
【対象:魔族槍兵の遺体】
【死因:王国兵による刺突】
【残存魔力:微量】
【遺体価値:未使用の煙幕石】
見えた。
遺体の腰袋に、小さな黒い石が残っている。
俺は素早く屈み、それを取り出した。
「何をしている!」
兵士が踏み込んでくる。
俺は煙幕石を床に叩きつけた。
瞬間、黒い煙が爆ぜるように広がった。
「くそっ!」
「視界が!」
「棺を押さえろ!」
怒号が飛ぶ。
「リュシア、今だ!」
「はい!」
リュシアが棺に魔力を流し込む。
黒い棺が床から浮いた。
俺はその横に駆け寄り、棺の動きを支える。棺は重い。魔力で浮いていても、方向を変えるには力がいる。
煙の向こうから槍が突き出された。
俺は身をひねってかわす。
刃が腕をかすめ、熱い痛みが走った。
「レインさん!」
「止まるな!」
血が流れる。
だが浅い。
今は傷を気にしている場合ではない。
俺たちは玉座の間の奥、地下墓所へ続く通路へ走った。
背後では兵士たちが咳き込みながら追ってくる。
「逃がすな! 魔王の遺体を奪われるぞ!」
奪われる。
その言葉に、リュシアが唇を噛んだ。
「……違う」
彼女がつぶやいた。
「父は、物ではない」
その声は小さかったが、俺にははっきり聞こえた。
地下へ続く階段に入ると、空気が冷たくなった。
黒い棺は階段の幅いっぱいだった。壁にこすれ、石粉が落ちる。リュシアは必死に魔力を込めていたが、額には汗が浮かんでいる。
「無理するな。少し止めるか」
「止まりません」
「でも」
「私は墓守です」
リュシアは前を向いたまま言った。
「死者を、正しい場所へ送るのが墓守の役目です」
その横顔に、さっきまでの怯えはなかった。
父を奪われまいとする娘の顔でもあり、死者を守ろうとする墓守の顔でもあった。
「墓守は、魔王城では大切な役目なのか?」
俺が尋ねると、リュシアは少しだけ呼吸を整えてから答えた。
「魔族は、人間ほど数が多くありません。だから、ひとりの死を長く覚えます。戦で死んだ者も、病で死んだ者も、名を刻み、花を供え、語り継ぎます」
「花?」
「はい。黒曜花という花です。魔族領の墓にだけ咲く花でした」
黒い花。
俺は、魔王の血から芽吹いた小さな芽を思い出した。
「父はよく言っていました。死者を忘れた国は、同じ過ちを繰り返すと」
「魔王が?」
「はい」
リュシアは小さくうなずいた。
「人間たちは、父を残虐な王だと言います。でも父は、戦で死んだ人間の兵にも墓を作らせていました。名が分からない者には、せめて亡くなった場所だけでも刻めと」
俺は言葉を失った。
そんな話は、人間の国では一度も聞いたことがない。
魔王は人間を憎み、殺し、踏みにじる存在。
俺たちは、そう教えられてきた。
だが、死体鑑定が示した魔王の価値と、リュシアの語る父の姿は、不思議なほど重なっていた。
世界を壊す者ではなく、壊れたものを引き受ける者。
死者を踏みにじる者ではなく、死者を覚える者。
「どうして君が墓守を?」
俺は尋ねた。
「魔王の娘なら、もっと別の役目もあったんじゃないのか」
「父が決めたのではありません。私が望みました」
「どうして?」
「覚えていたかったからです」
棺が階段の角に引っかかる。
俺とリュシアは力を合わせ、慎重に向きを変えた。
背後の足音は近づいている。
それでも、リュシアは言葉を続けた。
「戦争が長くなると、皆、死に慣れていきました。昨日話した人が今日死んでも、明日の戦の準備をしなければならない。泣く時間も、名を呼ぶ時間も、少しずつなくなっていく」
「……分かる気がする」
勇者パーティーの旅もそうだった。
死者が出ても、俺たちは進まなければならなかった。
村が焼かれていても、次の目的地へ向かった。
死体を調べる俺は、いつも急かされた。
そんなことをしている暇はない、と。
「私は、それが怖かったのです」
リュシアは言った。
「死ぬことより、忘れられることが怖かった。だから墓守になりました。せめて私だけは、死んだ人たちの名前を覚えていたいと思ったのです」
その言葉は、俺の胸に深く刺さった。
死体しか見えない鑑定士。
墓守の少女。
人間と魔族。
立場は違うのに、俺たちは同じものを見ていたのかもしれない。
生きている者が急いで通り過ぎる場所に、取り残された死者たちを。
「リュシア」
「はい」
「君は、いい墓守だな」
彼女は驚いたように目を瞬かせた。
「そんなことを言われたのは、初めてです」
「そうなのか?」
「墓守は、魔王の娘がするには地味な役目だと言われていました。もっと前に出ろ、魔族を導け、父の隣に立てと」
「でも、君は墓守を選んだ」
「はい」
リュシアは、棺にそっと触れた。
「今は、選んでよかったと思っています。父を送る役目を、誰かに渡さずに済みますから」
そのとき、階段の上から兵士たちの声が響いた。
「いたぞ! 地下へ逃げた!」
「追え!」
「棺ごと押さえろ!」
リュシアの顔が強張る。
俺は階段の踊り場で足を止め、周囲を見回した。
壁際に、古い甲冑が並んでいる。
魔族兵のものだろう。中には遺骨が残っているものもある。
俺はその一つに手を触れた。
【対象:魔族近衛兵の遺骨】
【死因:落城時の防衛戦】
【遺体価値:閉門機構の鍵】
見えた。
この先に、墓守の道がある。
そして、この遺骨はその扉を閉じるための鍵を残している。
「リュシア、墓守の道はこの先か?」
「はい。地下墓所の奥、古い黒扉の向こうです」
「扉を閉じたら、追ってこられないか?」
「内側からなら封鎖できます。でも、鍵は失われたと聞いています」
「失われてない」
俺は甲冑の胸元から、黒い小さな石板を取り出した。
「この人が持っていた」
リュシアの瞳が揺れた。
「近衛兵ダリオ……この方も、まだ守ってくださっていたのですね」
「急ごう。守りを無駄にしたくない」
「はい」
俺たちは棺を押し進め、地下墓所の奥へ向かった。
黒い扉は、壁と同化するように立っていた。
リュシアが魔力を込め、俺が石板を扉のくぼみに差し込む。
低い音を立てて、扉が開いた。
その向こうには、細い地下道が続いている。
湿った土の匂いがした。
外へつながっている。
「ここを抜ければ、城壁の外です」
リュシアが言った。
「その先に、アシュベルへ向かう森道があります」
「行こう」
俺たちは棺を地下道へ入れた。
直後、背後から兵士たちが墓所へ飛び込んでくる。
「止まれ!」
「魔族の娘を撃て!」
弓が引かれる音。
俺はリュシアを庇おうとした。
だが、その前に彼女が振り返った。
紫の瞳に、涙はなかった。
「私は、墓守リュシア」
彼女は静かに告げた。
「魔王ゼルグレイスの娘としてではなく、この城の死者すべてを預かる者として命じます」
黒い扉が震えた。
「ここより先に、死者を冒涜する者の侵入を禁じます」
扉が閉じ始める。
兵士たちが駆け寄る。
だが間に合わない。
分厚い黒扉は、轟音とともに閉ざされた。
追手の怒号が遠くなる。
地下道に、静けさが戻った。
リュシアは棺に手を置いたまま、深く息を吐いた。
「……初めてです」
「何が?」
「墓守として、誰かを止められたのは」
俺は彼女の横顔を見た。
震えていた。
けれど、それは恐怖だけではないように見えた。
「行こう、リュシア」
「はい」
「夜明けまでに、君の父親を埋葬する」
リュシアはうなずいた。
「お願いします、レインさん」
地下道の奥から、冷たい夜風が流れてくる。
魔王の棺は、静かに前へ進んだ。
勇者が殺した魔王を、死体鑑定士と墓守の少女が盗み出す。
歴史に残る英雄譚には、きっと書かれない夜だ。
だが俺には、この夜こそが、魔王ゼルグレイスの本当の物語の始まりに思えた。




