第3話 魔王の遺体に表示された価値
鑑定結果に浮かんだその文字を、俺は何度も読み返した。
【処置期限:夜明けまで】
【警告:期限内に埋葬されなければ、世界の魔力循環は崩壊を開始する】
冗談だと思いたかった。
だが、死体鑑定は冗談を言わない。
俺の鑑定に映るのは、死者に残された事実だけだ。誰かの願望でも、噂でも、王国が作った英雄譚でもない。肉体に残った傷、血に染みた毒、骨に刻まれた履歴。そういうものだけが、文字となって見える。
だからこそ、俺は息をするのも忘れていた。
「夜明けまでに、埋葬しなければならない」
俺がそう言うと、リュシアの顔から血の気が引いた。
「夜明け……あと、どれくらいですか」
「分からない。けれど、長くはない」
魔王城の割れた天井から、まだ夜の色が見えている。だが東の空は、ほんのわずかに薄くなり始めていた。勝利に浮かれた王国軍が城を完全に制圧するまでの時間も、そう長くはないだろう。
俺は魔王ゼルグレイスの遺体にもう一度触れた。
指先に、冷たさが伝わる。
だが、その冷たさの奥で、かすかに脈打つような魔力を感じた。
死体なのに、生きているようだった。
いや、違う。
生きているのではない。
死んだあとも、何かを支え続けているのだ。
鑑定を深く潜らせる。
【対象:魔王ゼルグレイスの遺体】
【状態:死亡】
【死因:聖剣による心臓部貫通】
【残存魔力量:測定不能】
【遺体価値:世界再生素材SSS】
【本質価値:魔力循環の楔】
【適正処置:埋葬】
【不適正処置:解体、焼却、魔道炉投入、兵器転用、王都搬送】
【推奨埋葬地:魔力枯渇地帯】
【備考:本遺体は世界に蓄積した魔力毒を吸収し、浄化し続けている】
次々と文字が浮かび、俺の視界を埋めた。
魔力循環の楔。
魔力毒の吸収。
浄化。
魔王に対して使うには、あまりにも似合わない言葉ばかりだった。
「……何が見えたのですか?」
リュシアが、恐る恐る尋ねた。
俺は少し迷った。
この結果をそのまま伝えれば、彼女は何を思うのだろう。
父親の遺体が、世界を救う素材だと言われる。埋葬すれば大地を再生するという。けれどそれは、彼女にとっては父を土に還すということでもある。
救いなのか、残酷なのか、俺には判断できなかった。
「魔王は、世界を壊していたんじゃない」
俺は、できるだけ慎重に言葉を選んだ。
「世界の壊れた部分を、引き受けていた」
リュシアの瞳が揺れる。
「父は……ずっと、そう言っていました」
「何を?」
「魔王とは、世界に嫌われる役目だと」
リュシアは、魔王のそばに膝をついた。
彼女の細い指が、魔王の冷えた手に触れる。
「父は人間を憎んでいませんでした。もちろん、戦いはしました。魔族を守るために、剣も取りました。けれど、人間を滅ぼしたいと言ったことは一度もありません」
その声は震えていた。
けれど、涙はこぼさなかった。
泣くことを、ずっと我慢してきた人の声だった。
「王国は、魔族領を魔力の吹き溜まりだと言いました。穢れた土地だと。父は違うと言っていました。人間の国が使いすぎた魔力の澱みが、こちらへ流れ込んでいるだけだと」
「魔力の澱み……」
俺は、玉座の間の床に広がる黒い血を見た。
その血が染み込んだ石の割れ目から、小さな黒い芽が顔を出している。
死から生が出ている。
普通ならあり得ない。
だが、鑑定結果は言っていた。
魔王の遺体は、世界再生素材だと。
「王国は、魔王を倒せば世界が平和になると言っていた」
「人間たちには、そう見えたのでしょう」
リュシアは静かに言った。
「父は説明しようとしました。でも、誰も聞かなかった。魔王が何を言っても、それは悪の言葉にされるから」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
勇者カイゼルの顔が脳裏に浮かぶ。
魔王を倒した英雄。
人類の希望。
あの場にいた全員が、彼を称えていた。
俺も、旅の途中までは信じていた。カイゼルが正義だと。魔王を倒すことが、世界を救うことだと。
けれど、死体は違うことを示している。
魔王の死体は、世界を壊すなと警告している。
「リュシア」
「はい」
「魔力枯渇地帯に心当たりはあるか?」
彼女は少し考えたあと、顔を上げた。
「あります。魔王城から西へ進んだ先に、アシュベルという村があります」
「村?」
「十年前までは、魔族と人間の混血の者たちが暮らしていました。でも戦争が激しくなってから、井戸が枯れ、畑が枯れ、ほとんどの者が去りました。今は、死にかけた土地です」
魔力枯渇地帯。
死にかけた土地。
鑑定結果が示した推奨埋葬地に、あまりにも近い。
「そこへ行く」
俺は言った。
「父を、そこに?」
「鑑定結果では、魔力が枯れた土地に埋葬するのが正しい。魔王の遺体は、そこなら力を正しく使える」
「正しく……」
リュシアはその言葉を噛みしめるようにつぶやいた。
「王国は父を切り刻もうとしているのに、あなたは父を正しく扱おうとしてくれるのですね」
「俺が正しいかどうかは分からない」
俺は首を振った。
「ただ、死体を見れば分かることがある。少なくとも、魔王の遺体は王都へ運ばれることを望んでいない」
「死者の望みも、鑑定できるのですか?」
「望みじゃない。残った価値だ」
俺は魔王の胸元を見た。
聖剣に貫かれた傷は深い。そこから流れた黒い血は、床のひびに沿って根のように広がっている。まるで、この城そのものを最後まで支えているようだった。
「人は死ぬと、何かを残す。未練かもしれない。証拠かもしれない。毒かもしれない。誰かを守る力かもしれない。俺の鑑定は、それを見るだけだ」
そして、魔王が残した価値は、世界を再生する力だった。
それを勇者も王国も知らない。
いや、知ろうとしていない。
「レインさん」
リュシアが俺の名前を呼んだ。
第1話で名乗った覚えはない。だが、カイゼルが俺をそう呼んでいたのを聞いていたのだろう。
「父を、連れていってください」
「一緒に行くんだろう?」
「私は……」
「君がいなければ、棺を動かせない。魔王の娘である君が、最後まで見届けるべきだ」
リュシアは目を伏せた。
「私は、父を守れませんでした」
「それは違う」
「違いません。私は墓守なのに、勇者たちが城へ来たとき、地下に隠れることしかできなかった。父が戦っている間、何もできなかった」
「生き残っただろう」
俺が言うと、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「死ぬことだけが、守ることじゃない。生き残って、弔うことも守ることだ」
自分で言いながら、俺は少し驚いていた。
こんな言葉を、誰かに言ったことはなかった。
勇者パーティーでは、弔いなど弱者の言い訳だと思われていた。戦い、勝ち、生き残ることだけが価値だった。
けれど、俺はずっと死者を見てきた。
死者は、生き残った者に託している。
名前を。
記憶を。
真実を。
それらを誰かが受け取らなければ、死はただの消失になってしまう。
「……私も、行きます」
リュシアは小さく、けれどはっきりと言った。
「父を、王国の道具にはさせません」
「ああ」
俺はうなずいた。
「そのためには、急いで棺に納める必要がある」
リュシアが黒い棺を魔王の遺体のそばへ動かす。
棺は床から少し浮き、音もなく滑るように進んだ。
俺は魔王の肩に手をかけた。
人間より大きな体は重い。だが、不思議なことに、ただ重いだけではなかった。大地そのものを抱え上げようとしているような、底の知れない重みがある。
リュシアも反対側から父の体を支えた。
細い腕が震えている。
「無理するな」
「無理ではありません」
彼女は歯を食いしばった。
「娘ですから」
俺たちは魔王の遺体を棺へ納めた。
その瞬間、棺に刻まれていた魔族の文字が黒い光を放つ。
玉座の間の空気が変わった。
床に芽吹いていた小さな黒い芽が、一瞬だけ葉を開く。
それは花にはまだ遠い、弱い芽だった。
だが確かに、生きていた。
俺の視界に、新たな鑑定結果が浮かぶ。
【対象:魔王ゼルグレイスの遺体】
【状態:棺納】
【劣化進行:停止】
【処置期限:夜明けまで維持】
【次工程:魔力枯渇地帯への埋葬】
【埋葬完了時予測効果:土地再生、毒性魔力浄化、生命循環回復】
間に合う。
夜明けまでにアシュベルへ運べれば、まだ間に合う。
そう思った直後だった。
玉座の間の扉の向こうから、怒号が響いた。
「いたぞ!」
「魔族の娘だ!」
「棺を運んでいる!」
王国兵だ。
地下墓所の結界を破り、こちらまで来たのだろう。
数は分からない。だが足音は多い。
リュシアが棺の前に立った。
俺は彼女を庇うように、一歩前へ出る。
剣は持っている。
だが、まともに戦えるとは思えない。
相手は武装した兵士たちだ。こちらは追放された鑑定士と、墓守の少女と、魔王の遺体が入った棺。
普通に考えれば、逃げられるはずがない。
けれど、不思議と足は震えなかった。
たぶん、もう決めていたからだ。
俺は勇者パーティーから追放された。
報酬も、名誉も、帰る場所も失った。
だからこそ、今さら失うものは少ない。
俺は棺に手を置き、静かに言った。
「リュシア」
「はい」
「魔王の遺体を盗むぞ」
彼女は一瞬だけ目を見開き、それから小さくうなずいた。
「はい」
扉が蹴破られる。
王国兵たちがなだれ込んできた。
その先頭にいた兵士が、棺を見て叫ぶ。
「魔王の遺体を確保しろ! 王都へ運ぶんだ!」
俺は、剣を抜いた。
人を倒すためではない。
死者を守るために。
「悪いが」
俺は兵士たちを見据えた。




