第2話 死体しか見えない鑑定士
リュシアに案内され、俺は魔王城の地下へ続く階段を下りていた。
石造りの階段はひどく古く、踏みしめるたびに乾いた砂が靴裏で鳴った。壁には青白い燐光を放つ鉱石が埋め込まれている。人間の城で見かける松明とは違い、火の揺らぎがない。だから地下道は、不気味なほど静かに照らされていた。
前を歩くリュシアは、何度もこちらを振り返った。
俺がついてきているか確かめているのか。
それとも、人間である俺に背中を見せるのが怖いのか。
どちらでも不思議ではなかった。
ついさっきまで、俺は勇者パーティーの一員だった。彼女から見れば、父親を殺した側の人間だ。
「怖いなら、距離を取って歩いてくれていい」
そう言うと、リュシアは小さく首を振った。
「怖くないと言えば、嘘になります。でも……あなたは、父の遺体を見て笑わなかった」
「笑えるわけがない」
「勇者たちは笑っていました。父を倒したあと、皆で勝利を喜んでいました」
それを責めるような声ではなかった。
ただ、理解できないものを理解できないまま口にしている声だった。
俺は答えに迷った。
人間にとって、魔王は恐怖の象徴だ。故郷を焼かれた者もいる。家族を失った者もいる。勇者たちが魔王の死に歓声を上げるのは、おかしなことではない。
けれど、俺にはどうしても、あの遺体を勝利の飾りには見られなかった。
死者は、死者だ。
善人でも、悪人でも、王でも、魔王でも。
死んだあとまで踏みにじっていい理由にはならない。
「俺は、死体鑑定士だからな」
自分で言って、少しだけ苦く笑った。
「死体鑑定士……」
リュシアがその言葉を繰り返す。
「人間の国には、そのような職業があるのですか?」
「ない」
「ない?」
「少なくとも、正式な職業としては認められていない。鑑定士は本来、生きている人間の能力や、武器、防具、宝石、薬草、魔道具なんかを見る仕事だ。俺みたいに死体しか見えない鑑定士は、だいたい失敗作扱いされる」
階段を下りながら、俺は右手を見た。
魔王の手首に触れた感触が、まだ指先に残っている。
冷たいのに、どこか温かい。
あんな遺体は初めてだった。
「俺が最初に鑑定したのは、飼っていた犬の死体だった」
なぜそんな話をしたのか、自分でも分からない。
たぶん、地下道があまりに静かだったからだ。
それに、リュシアが黙って俺の言葉を待っていたからかもしれない。
「小さい頃、家の近くで飼っていた老犬が死んだ。名前はロウ。もう目もほとんど見えていなくて、歩くのも遅かった。でも、俺が森へ入ろうとすると、必ず服の裾を噛んで止めた」
「あなたを守っていたのですね」
「たぶんな」
俺はうなずいた。
「死んだロウに触れたとき、文字が見えた」
今でも覚えている。
【対象:老犬ロウの遺体】
【死因:老衰】
【最後の行動:主人を森の魔狼から遠ざける】
【遺体価値:家族の記憶】
幼かった俺には、その意味がよく分からなかった。
ただ、ロウが最後まで俺を守ろうとしていたことだけは分かった。
俺は泣きながらロウを庭に埋めた。
母は気味悪がった。
父は言った。
そんな能力は人前で使うな、と。
「それから、色々な死体が見えるようになった。鳥、鹿、魔物、盗賊、兵士。死体に触れると、その死に方や残されたものが分かる」
「残されたもの?」
「毒に使える牙。薬になる骨。身元を示す指輪。誰かに届けるはずだった手紙。そういうものだ」
俺の鑑定は、便利なときもあった。
病死か毒殺かを見分けたことがある。
行方不明者の身元を、遺体に残った布切れから突き止めたこともある。
魔物に殺されたと思われていた村人が、実は人間に殺されていたと明かしたこともある。
だが、感謝されることは少なかった。
死体に触れる人間は、気味悪がられる。
死者の秘密を暴く人間は、嫌われる。
真実を知りたいと言いながら、人は知りたくなかった事実が出てくると、鑑定士を恨むのだ。
「勇者パーティーには、どうして入ったのですか?」
リュシアが尋ねた。
「王国が必要だと言ったからだ」
「王国が?」
「魔王討伐の旅では、多くの魔族や魔物と戦う。死体から情報を得られる者が一人いれば役に立つかもしれない。そういう理由だった」
実際、最初の頃は多少役に立った。
魔物の死体から毒の有無を調べた。
敵の兵士が持っていた密書を見つけた。
戦場跡で、魔族軍がどちらへ進軍したかを死体の向きや傷から割り出した。
だが、勇者カイゼルが強くなればなるほど、俺の出番は減っていった。
敵は聖剣で切り伏せればいい。
罠は魔術師が焼き払えばいい。
負傷者は聖女が癒やせばいい。
死体を調べて、地味に足跡を拾う俺は、だんだん邪魔者になった。
不吉。
陰気。
死体漁り。
そんな言葉を、何度も聞いた。
「でも、死体は嘘をつかない」
俺は言った。
リュシアの足が止まる。
「生きている人間は嘘をつく。王も、勇者も、聖女も、俺も。都合の悪いことを隠すし、自分に都合よく物語を作る。でも、死体に残った傷や持ち物は嘘をつかない」
「父の遺体も、ですか」
「そうだ」
俺は頷いた。
「だから、あの鑑定結果は無視できない」
世界再生素材。
埋葬。
最後の楔。
意味の分からない言葉ばかりだった。
けれど、それが魔王の遺体に残された真実なら、俺は受け止めなければならない。
階段を下りきると、広い地下墓所に出た。
天井は高く、柱には翼を広げた黒い竜の彫刻が刻まれている。壁際にはいくつもの石棺が並んでいた。どれも豪奢ではなく、静かで、重く、長い時間を眠るためだけに作られたような棺だった。
リュシアは一番奥へ向かった。
そこには、まだ誰も入っていない大きな棺があった。
黒曜石のような艶を持つ棺。蓋には文字が彫られている。魔族の文字は読めないが、それが祈りの言葉であることは、何となく分かった。
「父のために、母が作らせた棺です」
「母親は?」
「十年前に亡くなりました。人間との停戦交渉へ向かう途中で」
リュシアはそれ以上言わなかった。
言わなくても、だいたい分かった。
停戦交渉へ向かった魔王妃は、帰ってこなかったのだろう。
この戦争は、どれだけの死者を積み上げてきたのだろう。
人間側にも。
魔族側にも。
「この棺なら、父を運べます」
「かなり重いな」
「魔力で浮かせる仕掛けがあります。ですが、動かすには血族の魔力が必要です」
「君が?」
「はい」
リュシアは棺に手を置いた。
すると、棺に刻まれていた文字が薄く光る。重そうな黒い棺が、わずかに床から浮いた。
俺は思わず息をのんだ。
「すごいな」
「父の魔力に比べれば、私など小さな火種です」
「小さくても、火は火だ」
そう言うと、リュシアは驚いたように俺を見た。
「変なことを言ったか?」
「いえ……父も、似たようなことを言っていました」
彼女はほんの少しだけ目元を緩めた。
その表情は、魔族の姫ではなく、父親を失ったばかりの少女のものだった。
俺たちは棺を動かし、玉座の間へ戻る準備をした。
そのとき、地下墓所の入口の方から、かすかな音が聞こえた。
金属が石を叩く音。
鎧の音だ。
リュシアの顔色が変わる。
「王国兵です」
「もう地下に?」
「きっと、魔王城の宝物庫を探しているのです。墓所にも来ます」
まずい。
魔王の遺体はまだ玉座の間にある。ここで兵士に見つかれば、棺も俺たちも押さえられる。
俺は周囲を見回した。
墓所にあるのは棺ばかり。隠れる場所は少ない。戦うにも、俺は剣士ではない。
だが、ここは墓所だ。
死者の眠る場所だ。
俺に見えるものが、まったくないわけではない。
「リュシア、少し下がってくれ」
「何をするのですか?」
「使えるものを探す」
俺は近くの古い石棺に触れた。
鑑定を発動する。
【対象:魔族近衛兵ガルドの遺骨】
【死因:王族防衛戦における失血死】
【残存魔力:微量】
【遺体価値:守護の残響】
【使用可能:墓所内の侵入者感知結界を一度だけ起動】
見えた。
やはり、死者は何かを残している。
「リュシア、この墓所に結界はあるか?」
「古い守護結界ならあります。でも、動かせる者はもう……」
「この人が、まだ守っている」
「この人?」
「ガルドという近衛兵だ。王族を守って死んだらしい」
リュシアが目を見開いた。
「ガルドは、祖父の代の近衛隊長です。父から聞いたことがあります」
「なら、頼んでみる価値はある」
俺は石棺に手を置いたまま、目を閉じた。
死者に言葉が届くわけではない。
死体鑑定は、魂と会話する力ではない。
けれど、残された価値を正しく使うことはできる。
「すまない。あんたの守った王族を、もう一度だけ守ってくれ」
石棺の文字が淡く光った。
次の瞬間、地下墓所の空気が震える。
入口の方から、兵士たちの叫び声が聞こえた。
「何だ、この壁は!」
「結界だ! 進めない!」
「解除班を呼べ!」
リュシアが呆然と俺を見た。
「あなたは……死者の力を使えるのですか?」
「違う」
俺は首を振った。
「使っているんじゃない。残してくれたものを、借りているだけだ」
その違いだけは、間違えたくなかった。
死者は道具ではない。
素材でもない。
誰かが生きたあとに残した、最後の価値だ。
それを踏みにじる者にだけは、なりたくなかった。
「急ごう。結界は長く持たない」
「はい」
リュシアは黒い棺を浮かせ、俺たちは地下墓所を出た。
階段を上がる途中、俺はもう一度だけ自分の手を見た。
死体しか見えない鑑定士。
勇者はそう言って俺を笑った。
だが、もし死体にしか残らない真実があるのなら。
生きている者が見ようとしない価値が、死者の中に眠っているのなら。
俺の力にも、まだ意味はあるのかもしれない。
玉座の間へ戻ると、魔王ゼルグレイスの遺体は変わらずそこにあった。
ただ一つ、さっきとは違うことがあった。
魔王の胸の傷から流れていた黒い血が、床のひび割れに沿って広がっていた。
その先に、小さな芽が出ている。
黒い芽だった。
石の床から、あり得ないものが芽吹いている。
俺は息を呑み、魔王の遺体に近づいた。
もう一度、鑑定を発動する。
【対象:魔王ゼルグレイスの遺体】
【状態:死亡】
【遺体価値:世界再生素材SSS】
【処置期限:夜明けまで】
【警告:期限内に埋葬されなければ、世界の魔力循環は崩壊を開始する】
夜明けまで。
それが、俺たちに残された時間だった。




