第1話 勇者が魔王を殺した日、俺は追放された
魔王が死んだ。
その知らせを最初に聞いたとき、俺は歓声を上げることができなかった。
魔王城の玉座の間には、焦げた石と血の匂いが満ちていた。崩れた柱の隙間から灰色の光が差し込み、床に倒れた魔族の兵士たちを照らしている。誰も動かない。剣を握ったまま息絶えた者。誰かを庇うように覆いかぶさっている者。壁にもたれ、眠るように目を閉じた者。
戦いは終わった。
人間の国々を百年苦しめた魔王ゼルグレイスは、勇者カイゼルの聖剣に胸を貫かれ、黒い玉座の前に倒れていた。
「終わったぞ!」
勇者カイゼルが聖剣を掲げると、玉座の間に残っていた兵士たちが一斉に歓声を上げた。
「勇者様万歳!」
「人類の勝利だ!」
「魔王は討たれた!」
声が石壁にぶつかって、何度も反響した。
俺は、その輪の外側に立っていた。
名前はレイン・オルディア。勇者パーティーの一員。職業は鑑定士。
ただし、普通の鑑定士ではない。
俺に鑑定できるのは、死体だけだった。
剣の価値も、宝石の等級も、生きている人間の能力も、俺には見えない。王都の鑑定士なら一目で分かる魔道具の性能も、俺には何一つ分からない。
その代わり、死んだものに触れれば分かる。
死因。残された魔力。腐敗までの時間。体内に残った毒。遺品の由来。死者が最後に握っていたものの意味。
だから俺は、勇者パーティーの中でいつも後ろにいた。
戦いが終わったあと、死体を調べるために。
「レイン」
カイゼルが俺を振り返った。
金色の髪に、血の一滴もついていない。白銀の鎧はところどころ焦げていたが、それすら英雄の傷に見えた。彼は絵物語から抜け出してきたような男だった。強く、明るく、誰からも愛される。
俺とは正反対だ。
「魔王の死体を鑑定しろ」
「……分かった」
俺は魔王の遺体に近づいた。
魔王ゼルグレイス。
人間の物語では、残虐で冷酷な侵略者として語られてきた存在。黒い角。長い銀髪。人間より少し大きな体。胸には聖剣で貫かれた傷があり、そこから黒い血が流れている。
だが、その顔は不思議なほど穏やかだった。
勝者を呪うでもなく、世界を恨むでもなく、ただ何かを守り切った者のように、静かに目を閉じている。
俺は膝をつき、魔王の手首に触れた。
冷たい。
けれど、死後間もないはずなのに、妙な温かさが奥に残っていた。
鑑定を発動する。
視界に文字が浮かんだ。
【対象:魔王ゼルグレイスの遺体】
【状態:死亡】
【死因:聖剣による心臓部貫通】
【残存魔力量:測定不能】
【遺体価値:――】
そこで文字が乱れた。
俺は眉をひそめる。
今まで、こんなことはなかった。どんな死体にも、価値は表示された。薬草になる魔物の骨。解毒剤に使える毒蛇の牙。死因の証拠になる血痕。遺族に返すべき指輪。
死者は必ず、何かを残す。
それが俺の鑑定だった。
「どうした、レイン」
カイゼルが苛立った声で言った。
「早くしろ。魔王が本当に死んだか確認すればいい」
「死んでいる。それは間違いない」
「なら充分だろう」
「でも……」
もう一度、文字が浮かび上がった。
【遺体価値:世界再生素材】
【等級:SSS】
【注意:解体不可】
【注意:焼却不可】
【注意:兵器転用不可】
【正しい処置:埋葬】
【この遺体は、世界の魔力循環を安定させる最後の楔である】
息が止まった。
世界再生素材。
最後の楔。
埋葬。
そんな鑑定結果を、俺は一度も見たことがなかった。
「カイゼル」
俺は振り返った。
「魔王の遺体は、持ち帰らない方がいい」
歓声が少しずつ遠のいた。
カイゼルの青い目が、冷たく細められる。
「どういう意味だ」
「この遺体は解体してはいけない。焼いてもいけない。王都に運ぶのも危険だ。正しい処置は、埋葬だと出ている」
一瞬、玉座の間が静まり返った。
次の瞬間、誰かが噴き出した。
「埋葬?」
「魔王を?」
「何を言っているんだ、あいつ」
兵士たちの笑い声が広がっていく。
カイゼルは笑わなかった。ただ俺を見下ろしていた。
「レイン。お前は最後の最後まで空気が読めない男だな」
「これは鑑定結果だ」
「死体しか見えないお前の、気味の悪い鑑定か」
その言葉には慣れているはずだった。
それでも胸の奥が少しだけ痛んだ。
「魔王の遺体には、まだ膨大な魔力が残っている。王都に持ち帰れば、何かに利用できるかもしれない。魔道炉の燃料、聖剣の強化、不死兵の研究……王国の学者たちが喜ぶ」
「だから危険なんだ。利用していいものじゃない」
「黙れ」
カイゼルの声が低くなった。
歓声も笑い声も止まる。
「お前はいつから、俺に意見できる立場になった?」
「意見じゃない。鑑定結果を伝えている」
「その鑑定とやらが、今まで何の役に立った?」
カイゼルは聖剣の切っ先を床に向けた。
「お前は戦えない。回復もできない。結界も張れない。魔物の弱点も見抜けない。宝箱の中身も分からない。俺たちが命懸けで戦ったあと、死体を触って陰気な顔をしていただけだ」
言い返せなかった。
事実だったからだ。
俺は勇者パーティーにいながら、一度も前衛に立ったことがない。仲間を守ったことも、敵を倒したこともない。
ただ、死んだもののそばにいただけだ。
「魔王討伐は終わった。ここから先は、英雄の凱旋だ」
カイゼルは俺に背を向けるようにして言った。
「死体鑑定士など、王都に連れて帰る必要はない」
「……どういう意味だ」
「追放だ」
短い言葉だった。
だが、その一言で、俺がこの旅に費やした三年は簡単に切り捨てられた。
「報酬は?」
俺はかろうじてそう言った。
「俺も、魔王城まで同行した。最低限の――」
「報酬?」
カイゼルは笑った。
「お前に払う報酬があると思うか? むしろ、ここまで連れてきてやったことに感謝してほしいくらいだ」
周囲の兵士たちは、誰も口を挟まなかった。
聖女セレナだけが、わずかに目を伏せているのが見えた。けれど彼女も何も言わなかった。
何も言わないということは、認めたということだ。
「レイン」
カイゼルは最後に、俺の肩を軽く叩いた。
「お前には似合いの仕事があるだろう。戦場跡を回って、死体でも数えていろ」
そう言って、勇者は玉座の間を出ていった。
兵士たちが続く。
聖女セレナも、魔術師も、剣士も、俺を見ないまま去っていく。
やがて、玉座の間には俺だけが残された。
いや、正確には、俺と魔王の遺体だけが残された。
静かだった。
さっきまで人類の勝利を叫んでいた場所とは思えないほど、静かだった。
俺は魔王の遺体の前に座り込んだ。
「……埋葬、か」
死体鑑定士として、俺は数え切れないほどの死者に触れてきた。
盗賊に殺された商人。魔物に食い荒らされた兵士。疫病で死んだ子ども。誰にも名前を呼ばれなかった老人。
死者は、何も語らない。
けれど、何も残さないわけではない。
最後に握りしめていた布切れ。誰かに渡せなかった手紙。喉に詰まった毒。守ろうとした傷。
死体には、その人が最後まで生きた証が残っている。
魔王の遺体にも、きっと何かが残っている。
世界再生素材。
最後の楔。
その意味は分からない。
だが、一つだけ分かることがあった。
この遺体を、王国に渡してはいけない。
そう思ったときだった。
「その方も、そう思うのですね」
背後から声がした。
振り向くと、崩れた柱の陰に少女が立っていた。
黒い外套。銀色の髪。小さな角。瞳は夜明け前の空のような紫色をしている。
魔族だ。
少女は俺を警戒しながら、それでも魔王の遺体から目を離さなかった。
「あなたは?」
俺が尋ねると、少女は胸元を握りしめた。
「リュシア。魔王城の墓守です」
「墓守……」
「そして、その方の娘です」
俺は言葉を失った。
リュシアはゆっくりと魔王の遺体に近づいた。俺を通り過ぎるとき、少しだけ肩が震えていた。怖いのだろう。人間である俺が。勇者の仲間だった俺が。
それでも彼女は逃げなかった。
魔王の前に膝をつき、そっと額を床につける。
「お父さま」
その声は、とても小さかった。
「お迎えにあがるのが、遅くなりました」
俺は、その瞬間になってようやく気づいた。
目の前にあるのは、人類の敵の死体ではない。
誰かの父親の遺体なのだ。
リュシアは顔を上げ、俺を見た。
「人間たちは、父の体を切り刻むつもりです。魔力炉に入れ、武器にし、勝利の証として王都に飾るつもりです」
「知っているのか?」
「魔王城に残っていた者たちは、皆聞きました。勇者と王国軍の話を」
彼女は唇を噛んだ。
「父は、世界を滅ぼそうとしたのではありません。けれど、誰も信じてくれない」
「俺の鑑定にも出た」
「え?」
「この遺体は、埋葬しなければならないと」
リュシアの瞳が大きく揺れた。
「あなたは……父を、弔ってくれるのですか?」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
俺は勇者パーティーを追放されたばかりの、役立たずの死体鑑定士だ。剣もろくに使えない。金もない。行く場所もない。
魔王の遺体を抱えて逃げるなど、正気ではない。
王国を敵に回すことになる。
勇者を敵に回すことになる。
それでも、魔王の鑑定結果が目に焼きついて離れなかった。
【正しい処置:埋葬】
死者には、正しく扱われる権利がある。
それだけは、勇者よりも、王国よりも、俺の方が知っている。
俺は立ち上がった。
「棺はあるか?」
リュシアが息を呑む。
「地下墓所に……王族用のものが」
「案内してくれ」
「でも、あなたは人間です。どうしてそこまで――」
「俺は人間だけど」
俺は魔王の遺体を見下ろした。
「死者を素材扱いする連中の仲間でいるつもりはない」
リュシアはしばらく俺を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「こちらです」
俺たちは魔王の遺体を運ぶため、玉座の間を出た。
遠くで、王国軍の勝利の鐘が鳴っている。
勇者は英雄になった。
魔王は悪として歴史に刻まれる。
そして俺は、今日、勇者パーティーを追放された。
だが、まだ終わっていない。
俺の物語は、魔王が死んだところから始まる。
死体鑑定士として。
ひとりの死者を、正しく弔うために。




