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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第4章 魔王を弔う者

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第39話 死体鑑定士ではなく

 朝になっても、鑑定結果は戻らなかった。


 壊れた掘削具を見ても、何も浮かばない。


 黒曜花の種を見ても、等級も価値も表示されない。


 白面神官を縛る縄を見ても、状態も弱点も分からない。


 俺の視界は、ただの視界だった。


 泥に汚れた村。


 黒い花。


 壊れた武器。


 水を運ぶ子ども。


 傷を押さえる王国兵。


 父の墓の前に立つリュシア。


 それだけが見える。


 何も読めない。


 そのことが、思ったよりも重かった。


 死体鑑定士。


 役立たずと呼ばれた力。


 死体しか見えない力。


 それでも、俺はその力に支えられてきた。


 死者は嘘をつかない。


 そう言えたのは、俺が死者の声を読めたからだ。


 壊れた鍬の未来価値を見た。


 聖剣の破片の記憶を見た。


 拘束具の外し方を見た。


 魔道砲の中の死者を見た。


 魔王ゼルグレイスの心臓が、村と水脈と黒曜花に変わっていることを見た。


 でも今は、何も見えない。


 俺はただの男だった。


 壊れた道具の前に立っても、どこを叩けばいいか分からない。


 死者の名が埋もれていても、拾える気がしない。


 黒曜花が揺れても、それが何を意味するのか確信できない。


 朝の井戸端で、俺は水杯を持ったまま、しばらく動けずにいた。


「レインさん」


 声をかけたのは、ノアだった。


 彼は杖をつきながら、井戸のそばに来ていた。


 足の傷はまだ癒えきっていない。


 それでも、昨日より顔色はいい。


 黒花の村の水を受け取り、名前を呼ばれ、戦場で自分の役目を果たした者の顔だった。


「大丈夫ですか」


「それは、こっちの台詞だ」


「俺は大丈夫です」


「鑑定できないから分からない」


 冗談のつもりだった。


 けれど、口にした瞬間、自分で思ったより痛かった。


 ノアは少し黙り、それから言った。


「じゃあ、俺が言います。大丈夫です」


「根拠は」


「昨日より歩けます。夜も少し眠れました。水も飲めています。サナたちに怒られるくらいには動けます」


「十分だな」


「はい」


 ノアは笑った。


「鑑定じゃなくても、分かることはあります」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 分かることはある。


 確かにそうだ。


 でも、分からないことの方が多い。


 俺は今まで、その分からない部分を鑑定で補っていた。


 死因。


 由来。


 弱点。


 未来価値。


 表示されれば、信じられた。


 今は、表示されない。


 なら、何を信じればいいのか。


 自分の目か。


 耳か。


 相手の言葉か。


 それは、鑑定結果よりずっと曖昧で、間違いやすくて、怖いものだった。


「レインさん」


 ノアは少し迷ってから言った。


「俺は、鑑定してもらったからここにいられるわけじゃありません」


「何だ、急に」


「最初はそうでした。負傷して倒れていて、黒曜花の葉で助けてもらって、未来価値とか言われて」


 彼は照れたように頭をかく。


「でも、今もここにいるのは、鑑定されたからじゃないです」


「じゃあ、なぜいる」


「水をもらったからです」


 ノアは井戸を見た。


「名前を呼ばれたからです。置いていかれなかったからです。働けと言われたからです」


「グランにか」


「はい。役に立つ村人扱いされました」


 俺は少し笑った。


 ノアも笑う。


「だから、レインさんが鑑定できなくても、俺にとっては同じです」


「同じ?」


「死体鑑定士じゃなくても、レインさんはレインさんです」


 簡単に言う。


 だが、その簡単な言葉が、胸に深く刺さった。


 死体鑑定士じゃなくても。


 俺は俺。


 本当にそうなのだろうか。


 勇者でなくなったカイゼルが、何者なのか分からなくなったように。


 鑑定士でなくなった俺も、何者なのか分からなかった。


 井戸の向こうでは、グランが壊れた道具を並べていた。


 掘削具。


 王国兵の盾。


 折れた槍。


 曲がった釘。


 壊れた水桶の取っ手。


 戦場に残されたものを、鍛冶屋の目で分けている。


 俺は近づいた。


「何か手伝うことはあるか」


 グランは俺を見る。


「鑑定抜きでか」


「悪いか」


「悪くねえ」


 彼は曲がった槍を一本、俺に渡した。


「これは使えると思うか」


 俺は槍を見た。


 刃は曲がっている。


 柄には焦げ跡。


 王国軍の標準槍だろう。


 以前なら、状態、由来、未来価値が出ただろう。


 今は出ない。


 ただ、曲がった槍にしか見えない。


「分からない」


「じゃあ、見ろ」


「見てる」


「もっと見ろ」


 グランは短く言った。


「刃は曲がってるが、根元は折れてねえ。柄は焦げてるが、芯までは焼けてねえ。まっすぐな槍には戻らんが、短く切れば畑の支柱にはなる」


「……そうなのか」


「そうだ」


 グランは槌を持ち上げる。


「鑑定がなくても、傷を見れば分かることはある。全部じゃねえ。でも、何も分からねえわけじゃねえ」


 彼は曲がった槍を火に入れた。


「お前は今まで、見えすぎてたんだろう」


「見えすぎていた?」


「道具の過去だの未来だのが一気に見えたら、そりゃ便利だ。でもな、普通はもっと面倒くさい。触って、叩いて、割って、匂いを嗅いで、失敗して覚える」


「俺に鍛冶を習えと?」


「そこまでは言ってねえ。お前、不器用そうだし」


「否定できない」


 グランはにやりと笑った。


「でも、見方は覚えられる。鑑定が戻るかどうかは知らん。戻らなかったとしても、壊れたものを見る目は残せる」


 壊れたものを見る目。


 それは能力ではなく、姿勢なのかもしれない。


 俺は曲がった槍が火の中で赤くなるのを見つめた。


 表示は出ない。


 だが、グランの言葉を聞いたあとだと、少しだけ違って見えた。


 もう槍としては使えない。


 でも、支柱にはなる。


 武器から、畑を支える道具へ。


 鑑定結果がなくても、そんな未来を考えることはできる。


 しばらくして、セレナがやってきた。


「レインさん、少し来ていただけますか」


「けが人か」


「はい。でも、治療ではなく、話を聞いてほしいんです」


 案内されたのは、村境界の外側に設けた仮の手当て場だった。


 王国兵と村人が、距離を取りながら同じ場所で休んでいる。


 その端に、一人の王国兵が座っていた。


 年は三十前後。


 腕に包帯。


 顔には疲労が濃い。


 彼は俺を見ると、すぐに立ち上がろうとした。


「そのままでいい」


 俺が言うと、彼はためらいながら座り直した。


 セレナが言う。


「この方は、昨日の死者名簿で名前が出たミナ・オルセンさんの同期だった方です」


 兵士は唇を噛んだ。


「ユリオ・ナザンです」


 自分で名乗った。


 それだけで、昨日までとは違う。


「聞きたいことがあると」


「はい」


 ユリオは膝の上で拳を握った。


「ミナは、本当に炉に入れられたのでしょうか」


 俺は息を呑んだ。


 以前なら、鑑定できたかもしれない。


 ミナの死者記憶。


 魔道炉。


 聖遺物。


 その経路を読めた。


 だが今は読めない。


 何も表示されない。


 俺は正直に言った。


「今の俺には、確かめられない」


 ユリオの顔がわずかに曇った。


 当然だ。


 死体鑑定士だから、真実を聞きに来たのだろう。


 その俺が読めない。


「すまない」


「いえ……」


 彼は目を伏せた。


 セレナが俺を見る。


 何か言え、という目ではない。


 ただ、逃げないでほしいという目だった。


 俺は少し考えた。


 鑑定はできない。


 でも、最後の鑑定で見たものはある。


 俺の記憶と、ミレイユの記録に残っている。


「ミナ・オルセンという名前は、死者名簿に出た」


 俺は言った。


「王都魔道炉浄化区画で魔力毒により死亡。公式記録は名誉殉職。実際には防護不備による事故。遺体は魔力結晶化後、炉へ再投入」


 ユリオの拳が震える。


「それは、昨日も聞きました」


「ああ」


「それを、もう一度聞きたかったんです」


「なぜ」


「忘れたくないからです」


 ユリオは顔を上げた。


 涙をこらえていた。


「王都に戻れば、きっと言われます。黒花の村に惑わされた。死体鑑定士の幻を見た。ミナは名誉ある殉職者だった。聖遺物になったことは尊いのだと」


 彼の声が震える。


「そう言われ続けたら、俺は迷うかもしれない。だから、もう一度聞きたかった」


 胸の奥が痛んだ。


 鑑定ではなく、証言として求められている。


 俺は死体鑑定士としてではなく、見た者として、彼に向き合わなければならない。


「ミナ・オルセンは、素材じゃない」


 俺は言った。


「聖遺物という管理名でもない。君の同期だった人だ」


 ユリオの目から涙が落ちた。


「はい」


「王都へ戻ったら、その名前を呼べ」


「呼んでいいんでしょうか」


「呼ばなければ、また消される」


 ユリオは震える声で頷いた。


「ミナ・オルセン」


 小さな声だった。


 それでも、呼んだ。


 セレナが静かに続ける。


「ミナ・オルセン」


 俺も呼んだ。


「ミナ・オルセン」


 黒曜花が、遠くでかすかに揺れた。


 表示は出ない。


 でも、揺れた。


 それだけで十分だった。


 ユリオは泣きながら頭を下げた。


「ありがとうございます」


 俺は首を振った。


「礼を言われることじゃない」


「でも、聞いてもらえました」


 彼は言った。


「王国では、聞いてもらえなかったので」


 その言葉が、また胸に残った。


 鑑定ではない。


 ただ聞くこと。


 それだけで、消えかけた名前をつなげることがある。


 昼過ぎ、ミレイユが記録結晶を持ってきた。


「レイン、確認して」


「俺が見ても、鑑定はできないぞ」


「鑑定じゃなくて、言葉の確認」


 彼女は記録結晶を光らせる。


 空中に、最後の鑑定で俺が叫んだ情報が映し出された。


 王都魔道炉の構造。


 死者素材化経路。


 黒曜花移植候補地。


 聖剣使用条件。


 どれも正確に記録されているように見える。


 だが、俺には鑑定で真偽を確認できない。


「俺の記憶と照らすしかない」


「それでいい」


「ミレイユなら、自分で判断できるだろう」


「私は魔導士として記録した。でも、これはあなたが見たものよ」


 彼女は真剣だった。


「あなたがどう言ったか、どう伝えたいかを確認したいの」


「どう伝えたいか」


「そう。王都へ送るなら、ただ暴くだけでは足りない。王国は必ず反論する。黒花の村は王都を見捨てる気だ、王都の暮らしを壊す気だって」


「実際、魔道炉を止める必要はある」


「段階停止よ。止め方もある。そこをちゃんと書かないと」


 ミレイユは空中の文字を指差した。


「ここ。『死者素材化経路』のあとに、『代替循環手順』を入れる。黒曜花種子の移植、毒脈切断、魔道炉段階停止。責めるだけじゃなく、道を示す」


 俺は彼女を見た。


「ずいぶん、冷静だな」


「そう?」


「ああ」


「怒ってるわよ」


 ミレイユは即答した。


「ものすごく怒ってる。でも、怒りだけで書いた記録は、怒ってる人にしか届かない」


 彼女は記録結晶を見つめた。


「王都には、何も知らずに魔道灯の下で暮らしている人がいる。病院の治癒魔法を待つ人もいる。炉を止めるなと言う人もいる。そういう人に届く言葉にしなきゃいけない」


 俺は少し驚いた。


 以前のミレイユなら、王国の嘘を暴くことに集中したかもしれない。


 だが今の彼女は、見せ方を考えている。


 燃やすためではなく、照らすために魔法を使う。


 彼女は本当に、それを選び始めている。


「いいと思う」


 俺は言った。


「代替手順を入れよう」


「あなたも書くのよ」


「俺が?」


「死体鑑定士の証言として」


「今は鑑定できない」


「昨日見たでしょう」


「見た」


「なら、証人」


 証人。


 その言葉は、少し重かった。


 死体鑑定士ではなく。


 証人。


 見た者。


 聞いた者。


 伝える者。


 それなら、今の俺にもできるのかもしれない。


 夕方、カイゼルが俺のところへ来た。


 彼は一人だった。


 聖剣アステリオスは腰にある。


 だが、以前のように誇示することはない。


 むしろ、重荷のように見えた。


「話がある」


 彼は言った。


「俺に?」


「ああ」


 周囲では、ベルクが遠くからこちらを見ていた。


 ミレイユも気づいている。


 セレナは心配そうだったが、近づいては来なかった。


 リュシアは魔王の墓の前で黒曜花の種を選んでいる。


 カイゼルはその方を一度見てから、俺に向き直った。


「お前は今、鑑定できないのか」


「ああ」


「完全にか」


「分からない。今は何も見えない」


「そうか」


 彼は少し黙った。


「なら、聞きたい」


「何を」


「俺を見て、お前はどう思う」


 予想していない問いだった。


「鑑定ではなく?」


「そうだ」


「なぜ俺に聞く」


「お前は、俺を一番嫌っているだろう」


「リュシアの方が嫌っていると思う」


「彼女に聞く資格は、まだ俺にはない」


 それは、カイゼルにしてはまともな判断だった。


 俺は彼を見る。


 白銀の鎧は傷だらけだ。


 凱旋の輝きはない。


 顔には疲労。


 目の奥には、眠れなかった者の影。


 だが、以前のような揺るぎない傲慢さは薄れている。


 代わりに、空白がある。


 勇者という名が剥がれた場所。


 まだ何も埋まっていない場所。


「どう思うか」


 俺は言葉を選んだ。


「危うい」


 カイゼルは眉を動かした。


「危うい?」


「ああ。お前はまだ、自分を責めることと、自分の罪を見ることの区別がついていない」


「どう違う」


「自分を責めるだけなら簡単だ。全部俺が悪いと言えば、そこから何も見なくて済む」


 カイゼルの顔が強張る。


「罪を見るなら、何をしたか、誰を傷つけたか、何をしなければならないかを、一つずつ見続ける必要がある」


「……」


「お前は今、どちらにも倒れそうだ」


 カイゼルはしばらく黙った。


 怒鳴られるかと思った。


 だが、彼は怒らなかった。


「では、俺はどうすればいい」


「知らない」


「またそれか」


「俺に決められることじゃない」


 俺はリュシアの方を見た。


「ただ、リュシアに許されるために動くな」


「なぜ」


「それはまた、彼女を使うことになる」


 カイゼルは息を呑んだ。


「自分が楽になるために、彼女の許しを目的にするな。許されなくてもやるべきことをやれ」


 言いながら、自分にも刺さっていた。


 俺も同じだ。


 魔王を世界のために使おうとしたことを謝った。


 でも、許されるために動くなら、またリュシアを使うことになる。


 大事なのは、許されるかどうかではない。


 これ以上、死者を素材にしないこと。


 生者を置いていかないこと。


 名前を呼び続けること。


 カイゼルは低く言った。


「許されなくても、やるべきことをやる」


「ああ」


「それが、勇者か」


「知らない」


 俺は首を振った。


「でも、人としては、たぶんそうだ」


 カイゼルは目を伏せた。


 しばらくして、彼は小さく言った。


「人として、か」


 その言葉は、彼にとって新しいもののようだった。


 夜になる前、黒花の村では出発の準備が始まった。


 すぐに旅立つわけではない。


 負傷者も多い。


 王国兵の扱いも決めなければならない。


 白面神官をどこへ引き渡すか、あるいは黒花の村で証言を取るかも議論が必要だ。


 王都へ記録を送る手段も考えなければならない。


 だが、目的地は決まった。


 最初はリーベル。


 焼かれた村。


 ネルが死んだ村。


 そこに、最初の黒曜花の種を植える。


 セレナは死者の名前を書いた小さな紙束を準備している。


 ミレイユは記録結晶を複写している。


 グランは小さな境界鍬を作っている。


 ノアは巡回路を地図に描いている。


 ベルクは護衛の道順を確認している。


 リュシアは、黒曜花の種を一粒ずつ布に包んでいた。


 俺は、そのそばに座っていた。


「手伝えるか」


 リュシアは顔を上げ、少し笑った。


「はい。布を押さえてください」


「それだけ?」


「大事です」


 俺は言われた通り、布を押さえる。


 リュシアが種を置き、丁寧に包む。


 鑑定はできない。


 でも、手元の種が小さく、軽く、壊れやすいことは分かる。


 強く押さえれば潰れる。


 雑に包めば落ちる。


 湿りすぎても、乾きすぎてもよくない。


 そんな当たり前のことを、一つずつ確かめながら手伝った。


「レインさん」


「何だ」


「鑑定が戻らなかったら、どうしますか」


 俺はすぐには答えられなかった。


 怖くないと言えば嘘になる。


 でも、朝ほどの空虚さはなかった。


「分からない」


 正直に答えた。


「でも、たぶん、死者を見なくなるわけじゃない」


 リュシアは手を止めた。


「どういう意味ですか」


「鑑定できなくても、墓は見える。名前は聞ける。壊れた道具も、触れば冷たいとか重いとか分かる。全部は読めなくても、何も見えないわけじゃない」


 俺は黒曜花の種を見る。


「死体鑑定士ではなくても、死者を素材にしないことは選べる」


 リュシアは静かに頷いた。


「はい」


「だから、もし戻らなくても」


 少しだけ息を吸う。


「俺は、死者を読む者ではなく、死者を置いていかない者でいたい」


 リュシアの目が揺れた。


 それは、鑑定結果ではない。


 肩書きでもない。


 ただの願いだ。


 でも、今の俺には、それが一番近い言葉だった。


 死体鑑定士ではなく。


 死者を置いていかない者。


 リュシアは包んだ種を俺の掌に一つ置いた。


「では、これを持ってください」


「いいのか」


「はい」


「鑑定できないぞ」


「だからです」


 彼女は穏やかに言った。


「価値を見るためではなく、落とさないために持っていてください」


 俺は、その小さな包みを握った。


 軽い。


 でも、重かった。


 魔王の心臓を一人に戻さないための種。


 死者と生者をつなぐ、世界で一番やさしい花の種。


 それを、鑑定できない手で持つ。


 不安はある。


 でも、悪くなかった。


 夜、魔王の墓の前で、リュシアが薬草茶の杯を新しく入れ替えた。


 相変わらず、黒銀の灯は少し離れた場所で揺れたように見えた。


 リュシアが小さく笑う。


「お父さま。明日から、少し忙しくなります」


 黒曜花が揺れる。


「レインさんも来てくれます。今は鑑定できませんが」


「余計なことを言うな」


「大事な報告です」


 リュシアは真面目な顔で言った。


 俺は苦笑した。


 黒銀の灯が、かすかにこちらへ寄ったような気がした。


 表示は出ない。


 言葉も聞こえない。


 けれど、不思議と責められている気はしなかった。


 むしろ、見られている。


 死体鑑定士としてではなく。


 一人の生者として。


 俺は魔王の墓に向かって、深く頭を下げた。


「ゼルグレイス」


 初めて、肩書きなしでその名を呼んだ気がした。


「あなたの心臓を、もう誰か一人に戻さないために行きます」


 黒曜花が静かに揺れる。


「それから」


 少し迷って、続けた。


「リュシアを、できるだけ無理させないようにします」


「できるだけ、ですか」


 隣からリュシアが突っ込む。


「絶対と言うと嘘になる」


「そこは言い切ってください」


「努力する」


「弱いです」


 そんなやり取りをしていると、黒銀の灯が薬草茶からさらに少し離れた。


 まるで、呆れたように。


 リュシアが笑った。


 俺も、少し笑った。


 戦いは終わっていない。


 王都へ行かなければならない。


 リーベルへ種を植えなければならない。


 死者素材化を止めなければならない。


 白面神官の背後にいる宰相グラウスも、研究院も、聖教会も残っている。


 鑑定も戻らない。


 不安は尽きない。


 それでも、今夜だけは思えた。


 俺は、死体鑑定士ではなくてもいい。


 死者を置いていかない者でいられるなら。


 名前を聞き、水を分け、黒い花の種を落とさず運ぶことができるなら。


 その選択の積み重ねが、きっと俺を形作っていく。


 勇者とは称号ではなく、選択の連続である。


 ならば、俺も同じだ。


 死体鑑定士とは能力ではなく、死者をどう扱うかの選択なのかもしれない。


 黒花の村の夜風が、静かに吹いた。


 俺の掌の中で、黒曜花の種が小さく温かかった。


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