第40話 黒花の村で、朝を待つ
黒花の村に、夜が降りた。
戦場だった場所は、まだ完全には片づいていない。
折れた槍。
砕けた掘削具。
泥に沈んだ王国の旗。
封印された魔道砲。
聖油が染みた土を掘り返した跡。
そのどれもが、昼までここで戦いがあったことを示していた。
けれど、夜の村には、別の音も戻っていた。
井戸から水を汲む音。
鍛冶場で小さな槌が鳴る音。
子どもたちが杯を並べる音。
負傷者が寝返りを打つ音。
誰かが名前を呼ぶ声。
そして、黒曜花が風に揺れる音。
黒花の村は、まだ壊れていない。
むしろ、戦いの前よりも少しだけ村らしくなっていた。
王国軍の一部は、村境界の外に留まっている。
武器を置いた者。
戻る場所を失った者。
白面神官の命令に従えなくなった者。
まだ王国へ戻るべきか迷っている者。
彼らは村人ではない。
けれど、もう完全な敵でもなかった。
黒花の村は、彼らを内側へ入れてはいない。
だが、水は分けた。
名前も聞いた。
それだけで、夜の空気は昼間の戦場とは違っていた。
俺は井戸のそばに座っていた。
掌の中には、リュシアから預かった黒曜花の種がある。
布に包まれた、小さな種。
鑑定はまだ戻らない。
この種の等級も、状態も、未来価値も分からない。
ただ、小さい。
軽い。
落とせばなくなってしまいそうだ。
だから、両手で包む。
価値を見るためではなく、落とさないために。
それが今の俺にできることだった。
「眠らないのですか」
声をかけてきたのは、リュシアだった。
彼女は薄い外套を羽織り、魔王の墓の方から歩いてきた。
夜の黒曜花の光を受けて、銀色の髪が淡く光っている。
「そっちこそ」
「私は墓守ですから」
「便利な言い訳だな」
「レインさんも、よく似たことを言います」
「俺はもう鑑定士としての言い訳が使えない」
「では、今は何として起きているのですか」
リュシアは隣に座った。
俺は少し考える。
「種の番人」
「それは大事ですね」
彼女は真面目に頷いた。
冗談のつもりだったのに、真剣に受け止められると困る。
俺は掌の布包みを見る。
「リーベルに植える種だろう」
「はい」
「落としたら大変だ」
「だから、番人です」
リュシアは少しだけ笑った。
その笑みには、まだ疲れが残っている。
泣いた跡もある。
父を守り、父を返してほしいと叫び、そして父を一人の楔に戻さないために種を運ぶと決めた少女。
彼女は、たった一日の間に何度も傷つき、何度も立ち上がった。
「無理していないか」
俺が尋ねると、彼女は首を傾げた。
「それは私の台詞では?」
「俺は座っている」
「座っているだけで倒れそうに見えます」
「そこまでひどいか」
「はい」
即答だった。
俺は何も言えなくなる。
リュシアは、夜の共同畑を見る。
魔王の墓のそばには、薬草茶の杯が置かれている。
黒銀の灯は見えない。
けれど、最初の黒曜花は静かに揺れていた。
「父に、行ってきますと言いました」
「ああ」
「返事はありませんでした」
「そうか」
「でも、嫌がってはいない気がしました」
「薬草茶よりは?」
「はい。薬草茶よりは、ずっと」
彼女は小さく笑った。
それだけで、少し胸が軽くなった。
ゼルグレイスは死んでいる。
父は戻らない。
それでも、思い出せる癖がある。
笑える記憶がある。
その記憶が、リュシアを少しだけ支えている。
「怖いです」
リュシアがぽつりと言った。
「種を持っていくことが?」
「それもあります。でも、もっと怖いのは」
彼女は両手を膝の上で重ねた。
「父の花が、また利用されることです」
「……ああ」
「黒曜花が増えれば、きっと誰かが言います。これで王都を救える。これで魔道炉を動かせる。これで魔力毒を処理できる。便利だ、と」
その言葉は重かった。
黒曜花はやさしい花だ。
だからこそ、使われやすい。
傷を癒やす。
毒を土へ返す。
死者の記憶を抱く。
水脈を戻す。
そんな花を、人はすぐに役立つものとして見てしまう。
王国が魔王をそうしたように。
「父を素材にすることと、黒曜花を使うことの境目が、まだ私には分かりません」
リュシアは言った。
「種を持っていくと決めたのに、怖いです」
「怖くていいんじゃないか」
俺は答えた。
リュシアがこちらを見る。
「怖くなくなったら、危ない気がする」
「危ない?」
「ああ。黒曜花を便利なものとしてだけ見始めたら、また王国と同じになる。怖がって、迷って、これは本当に弔いなのか、利用なのか、何度も考えるしかない」
俺は掌の種を見つめる。
「俺も、たぶん何度も間違えかける」
「レインさんも?」
「俺はすでに間違えかけた」
魔王を世界のために使おうとした。
循環核として語った。
正しいことを言っているつもりで、リュシアから父を遠ざけた。
その記憶は消えない。
「だから、迷ったら止めてくれ」
俺が言うと、リュシアは少し驚いた顔をした。
「私が?」
「ああ」
「私も迷うかもしれません」
「そのときは、俺が止める」
「二人とも迷ったら?」
「セレナが名前を呼ぶ」
リュシアは少し笑った。
「セレナさんも迷ったら?」
「ミレイユが記録を見る」
「ミレイユさんも迷ったら?」
「グランが怒鳴る」
「それは頼もしいですね」
「ああ。かなり」
リュシアは、夜の鍛冶場の方を見た。
まだ小さな火が灯っている。
グランは旅用の小さな境界鍬を作っているはずだ。
あの鍛冶屋なら、俺たちが考えすぎて動けなくなったとき、遠慮なく怒鳴ってくれるだろう。
「一人で決めなくていい」
俺は言った。
「魔王一人に毒を戻さないように、リュシア一人に黒曜花の意味を背負わせちゃいけない」
リュシアは目を伏せた。
しばらくして、小さく頷いた。
「はい」
その声は、少しだけ軽かった。
夜の村を、セレナの声が歩いていた。
彼女は眠る前に、負傷者の名前を一人ずつ確認している。
「トマ・レイスさん」
「はい」
「ユリオ・ナザンさん」
「はい」
「ハンナさん」
「ここに」
「ユーディアさん」
「はい」
「サナさん、リクさん、トトさん、ミミさん」
「いる!」
子どもたちの声が重なる。
点呼のようで、祈りのようでもあった。
名前を呼ぶ。
そこにいると返す。
それだけで、夜の不安が少し薄れる。
セレナは最後に、少し迷ってから言った。
「カイゼルさん」
沈黙が落ちた。
村境界の近くで座っていたカイゼルが、ゆっくり顔を上げる。
彼はしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「いる」
セレナは頷いた。
「はい」
それ以上は言わなかった。
カイゼルも何も言わない。
ただ、名前を呼ばれ、そこにいると答えた。
王国の勇者としてではなく。
魔王殺しとしてでもなく。
カイゼルという一人の男として。
そのやり取りを聞いていた王国兵たちの中に、小さなざわめきが起きた。
勇者が点呼に答えた。
それは凱旋の広場で喝采を受けるより、ずっと静かな出来事だった。
でも、もしかしたらカイゼルにとっては、初めて自分の名前でそこにいると答えた夜だったのかもしれない。
ミレイユは村の中央で、記録結晶を複写していた。
青い小さな光が、彼女の周囲にいくつも浮かんでいる。
一つは王都へ。
一つは王立魔道研究院へ。
一つはリーベルへ持っていく。
一つは黒花の村に残す。
彼女は何度も内容を確認しながら、言葉を調整していた。
「怒りを削るのは難しいわね」
いつの間にか、俺とリュシアは彼女のそばまで来ていた。
ミレイユは疲れた顔で笑う。
「全部、燃えるような文になりそう」
「それはそれでミレイユらしい」
「王都に届かないと意味がないのよ」
彼女は結晶に浮かぶ文章を指差す。
「『王国は死者を素材にしていた』って書くと、たぶん読んだ瞬間に閉じる人がいる。だから先に『魔道炉を段階停止すれば王都の水と灯は守れる』と書く。そのあとで、死者素材化の実態を書く」
「ずいぶん戦術的だな」
「言葉も戦場だから」
ミレイユは真顔で言った。
「燃やす言葉もある。照らす言葉もある。今は照らす方を選ぶ」
その言葉に、俺は頷いた。
彼女は変わった。
いや、もともとあったものが、ようやく見えるようになったのかもしれない。
魔法も、言葉も、使い方次第。
燃やすか、照らすか。
「レイン」
ミレイユが俺を見る。
「あなたの証言文も入れるわよ」
「俺の?」
「そう。死体鑑定士レイン・オルディアの証言」
「今は鑑定できない」
「なら、元死体鑑定士?」
「やめろ」
「じゃあ、どう書く?」
俺は少し考えた。
死体鑑定士ではなく。
死者を置いていかない者。
だが、それを公的な記録に書くのは少し変だ。
「レイン・オルディアの証言でいい」
「肩書きなし?」
「ああ」
ミレイユは意外そうに眉を上げた。
「いいの?」
「今は、それがいい」
「分かった」
彼女は記録を修正する。
空中に、短い文字が浮かんだ。
――レイン・オルディアの証言。
それを見て、不思議と胸が落ち着いた。
肩書きがなくても、証言はできる。
俺が見たもの。
聞いたもの。
選んだもの。
それを残せばいい。
鍛冶場では、グランが小さな鍬を仕上げていた。
普通の鍬より短く、片手でも持てる。
刃には黒曜花の根を傷つけにくいよう、丸みがつけられている。
柄には、アシュベルの古い模様が焼き入れられていた。
「できたぞ」
グランが鍬を掲げる。
リュシアが受け取った。
「軽いです」
「墓守でも持てるようにした」
「ありがとうございます」
「ただし、武器にするなよ」
グランは釘を刺す。
「これは土を開く道具だ。人を殴る道具じゃねえ」
「分かっています」
リュシアは真剣に頷いた。
俺は鍬を見る。
鑑定結果は出ない。
でも、グランの言葉で分かる。
これは戦うための道具ではない。
種を植えるための道具。
墓を暴くためではなく、土へ命を預けるための道具。
掘削具とは、似ているようで正反対だ。
「名前は?」
ノアが尋ねた。
グランが眉をひそめる。
「道具に名前をつけるのか」
「境界鍬には名前みたいなものがあるじゃないですか」
「あれは勝手にそう呼ばれただけだ」
ミトが走ってきて言った。
「黒花ごて!」
リナも続ける。
「種まき鍬!」
トトが手を上げる。
「ちいさい鍬!」
ミミは真剣に考えてから言った。
「やさしい鍬」
その場が静かになった。
グランが頭をかく。
「……それでいいんじゃねえか」
リュシアが鍬を見つめる。
「やさしい鍬」
「変ですか」
ミミが不安そうに尋ねる。
リュシアは首を振った。
「いい名前です」
黒曜花の種を植える、やさしい鍬。
グランは照れたのか、そっぽを向いて火をいじり始めた。
ベルクは村境界の外で、武装解除した兵士たちに説明をしていた。
「王都へ戻る者は、戻っていい。ただし、今日見たことを消すな」
兵士たちは黙って聞いている。
「黒花の村へ残る者は、村の決まりに従う。名前を名乗る。水を分ける。死者を素材にしない。武器を勝手に持ち込まない」
トマが手を上げた。
「俺は、王都へ戻ります」
ベルクが頷く。
「理由は」
「妹がいます。俺が戻らないと、何も知らないままになります」
「そうか」
「でも、王国軍へそのまま戻るかは分かりません」
「それは自分で選べ」
トマは頷いた。
「はい」
別の兵士が言う。
「俺は、ここに残ってもいいでしょうか」
ベルクは彼を見る。
「名前は」
「ユリオ・ナザン」
「ミナ・オルセンの同期か」
「はい」
「残る理由は」
「ミナの名前を、ここで呼びたい。王都へ戻るのが怖いというのもあります」
ベルクは少し考えた。
「村の内側へ入るかは、村人たちと相談だ」
「はい」
「だが、水は分ける」
ユリオは深く頭を下げた。
ベルクは大盾に手を置いた。
かつて彼は、勇者の前に立つ盾だった。
今は、帰る者と残る者の境界を守っている。
それもまた、盾の役目なのだろう。
夜が深まるにつれ、村は少しずつ眠り始めた。
だが、完全な眠りではない。
不安を抱えた眠り。
明日への準備をしながらの眠り。
それでも、収容地の夜とは違う。
王国軍の野営とも違う。
ここでは、眠る前に名前を呼ばれる。
水が置かれる。
帰ってくる者の杯がある。
それだけで、夜は少しだけやさしくなる。
俺は魔王の墓の前に立った。
リュシアは少し離れたところで、種の袋を確認している。
セレナは負傷者のそば。
ミレイユは記録結晶。
グランは鍛冶場。
ノアは地図。
ベルクは境界。
カイゼルは、聖剣を膝に置いて座っていた。
それぞれが、朝を待っている。
俺は黒曜花を見る。
鑑定はない。
だから、ただ見る。
黒い花びら。
銀色の縁。
夜風に揺れる細い茎。
土に伸びる根。
その花が魔王の心臓につながっているかどうか、今の俺には読めない。
でも、知っている。
読んだ記憶がある。
そして、リュシアの声も覚えている。
お父さまを返して。
その叫びを、俺は忘れてはいけない。
「ゼルグレイス」
俺は小さく呼んだ。
黒曜花がかすかに揺れた。
「明日、リーベルへ行く」
返事はない。
それでいい。
「あなたの花を、あなた一人の心臓にしないために。ネルの名前が消えないように。焼けた村に、もう一度水が戻るか試す」
夜風が吹く。
「でも、リュシアが迷ったら止める。俺が間違えたら止めてもらう。黒曜花を便利な道具にしないように、たぶん何度も考える」
黒い花びらが月明かりを受けて光る。
「だから」
少し迷ったあと、言った。
「見ていてくれ」
死者に見守れと言うのは、勝手かもしれない。
また役目を背負わせる言葉かもしれない。
だから、言い直した。
「いや。眠れるときは、眠っていてくれ。必要なときだけ、少し花を揺らしてくれればいい」
黒曜花が、ほんの少しだけ揺れた。
偶然かもしれない。
風かもしれない。
鑑定は出ないから、分からない。
でも、今はそれでよかった。
背後で足音がした。
カイゼルだった。
彼は少し距離を置いて立ち止まる。
「邪魔か」
「いや」
「俺も、墓に言うことがある」
リュシアはいない。
だが、俺は少し迷った。
カイゼルが魔王の墓の前で何を言うのか。
リュシアに聞く権利がある気もした。
しかし、カイゼルは墓へ近づきすぎなかった。
黒曜花の外側で膝をついた。
聖剣は持っていない。
ただ、両手を膝の上に置いている。
「ゼルグレイス」
彼はその名を呼んだ。
魔王ではなく、名前で。
声は硬かった。
「俺は、まだあなたを正しく悼めない」
それは謝罪の言葉ではなかった。
でも、嘘でもなかった。
「俺は、あなたを悪だと思って殺した。そう思わなければ、ここまで来られなかった」
カイゼルは目を伏せる。
「今でも、すべてを受け入れられたわけじゃない。あなたが世界を支えていたと知っても、俺の母が戻るわけじゃない。俺の村が枯れた記憶も消えない」
その声に、痛みがあった。
「でも、その憎しみをあなた一人に押しつけていたことは、分かり始めている」
黒曜花は静かに揺れている。
「リュシアには、許されない。それでいい。許されるために動くなと、レインに言われた」
俺は少し気まずくなる。
カイゼルは続けた。
「だから、明日からは、許されるためではなく、これ以上奪わせないために動く」
彼は深く頭を下げた。
「まだ、これ以上の言葉は持てない」
それだけ言って、カイゼルは立ち上がった。
黒曜花は、ただ揺れていた。
許したのか。
拒んだのか。
俺には分からない。
でも、墓は彼を焼かなかった。
それは、答えではなく、猶予なのだろう。
カイゼルが去ったあと、俺はしばらく墓の前に残った。
空には星が出ている。
魔王城で追放された夜、俺は空を見る余裕もなかった。
棺を運び、逃げ、埋め、戦い、ここまで来た。
気づけば、黒花の村で朝を待っている。
勇者パーティーから追放された死体鑑定士が。
魔王の娘と。
裏切り者の聖女と。
疑う魔導士と。
反逆騎士と。
壊れた鍬を直す鍛冶屋と。
置いていかれた補充兵と。
魔族の子どもたちと。
武器を下ろした王国兵たちと。
そして、勇者という名を下ろしかけた男と。
不思議な夜だった。
絶望の夜ではない。
勝利の夜でもない。
ただ、朝を待つ夜。
何かを失った者たちが、まだ残っているものを数えながら、次の一歩を決める夜。
俺は井戸のそばへ戻った。
リュシアがそこにいた。
外套に包まって、少し眠そうな顔をしている。
「起きていたのか」
「種の番人が戻らないので」
「すまない」
「謝るくらいなら、少し眠ってください」
「そうする」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
掌の種を確認する。
落としていない。
それだけで、少し安心した。
「レインさん」
「何だ」
「朝が来たら、出発です」
「ああ」
「リーベルへ」
「ああ」
「怖いです」
「俺もだ」
リュシアは驚いたようにこちらを見る。
「レインさんも?」
「もちろん」
「少し安心しました」
「俺が怖がっていると?」
「はい。一人だけ怖いより、二人で怖い方がましです」
そういうものかもしれない。
俺たちは並んで、東の空を見た。
まだ暗い。
けれど、黒い森の端がほんの少し青くなり始めている。
朝は近い。
黒花の村は眠りながら、朝を待っていた。
井戸のそばの杯。
魔王の墓の薬草茶。
新しい黒曜花の種。
小さなやさしい鍬。
複写された記録結晶。
水路の地図。
縛られた白面神官。
武器を置いた兵士たち。
眠る子どもたち。
そのすべてが、朝を待っている。
俺はふと思った。
世界を変える瞬間は、きっと凱旋の広場や玉座の間だけにあるのではない。
こういう夜にもある。
誰かが名前を呼び。
誰かが水を置き。
誰かが種を包み。
誰かが眠れずに墓へ向かい。
誰かが怖いと言い。
それでも朝になったら歩き出すと決める。
そんな夜が、世界を少しずつ変える。
リュシアが小さく言った。
「朝が来ますね」
「ああ」
東の空が、ゆっくり白み始める。
黒曜花の花びらが、夜露を受けて輝いた。
黒い花なのに、朝の光をよく映す。
村のあちこちで、人が目を覚まし始める。
セレナが最初の名前を呼ぶ声がした。
グランの鍛冶場で火が入る音がした。
ミレイユの記録結晶が青く灯った。
ベルクが大盾を持ち上げる音がした。
ノアが地図を広げる音がした。
サナたちが杯を確認する声がした。
カイゼルが聖剣の鞘を締め直す音がした。
そして、魔王の墓の前で、黒曜花が静かに揺れた。
黒花の村で、俺たちは朝を待った。
死者を素材にしないために。
名前を消さないために。
毒を一人に戻さないために。
そして、世界で一番やさしい花を、次の枯れた村へ届けるために。
朝が来る。
俺は掌の種を握り直した。
鑑定は戻らない。
でも、歩く理由は見えている。
それで十分だった。
黒花の村の最初の朝が、静かに始まった。




