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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第4章 魔王を弔う者

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第37話 お父さまを返して

 白面神官は、地面に倒れていた。


 赤黒い禁式札は砕け、魔王の墓へ伸びようとしていた毒脈は断たれている。


 聖剣アステリオスが切ったのは、白面神官の命ではない。


 彼と魔王の心臓をつなごうとした、汚れた脈だった。


 戦場は静まり返っていた。


 王国軍も、黒花の村も、誰もすぐには動けなかった。


 空には、ミレイユが記録した巨大な循環図がまだ浮かんでいる。


 王都魔道炉。


 死者素材化経路。


 黒曜花移植候補地。


 聖剣使用条件。


 そして、最後に浮かび上がった言葉。


 ――勇者とは、称号ではなく、選択の連続である。


 王国兵たちは、それを見上げていた。


 ある者は槍を下げ、ある者は膝をつき、ある者は呆然と魔道砲の方を振り返っている。


 魔道砲の核に、かつて人だった灯があると知ってしまった兵士たちは、もう以前のようには砲に触れられない。


 神官兵の一部は白面神官へ駆け寄ろうとしたが、足を止めていた。


 彼を助けるべきなのか。


 拘束すべきなのか。


 それすら分からなくなっていた。


 カイゼルは、聖剣を握ったまま立っていた。


 刃には、澄んだ光が残っている。


 けれど、それは凱旋のときの白銀ではなかった。


 王国が民に見せた、勝利の光ではない。


 黒曜花の黒銀。


 セレナの名呼び。


 ベルクの盾。


 ミレイユの記録。


 グランの境界鍬。


 ノアの水路。


 リュシアの墓守の許可。


 それらを通した、静かな光だった。


 聖剣は、今だけカイゼルを拒まなかった。


 だが、それは彼を勇者として認め直したという意味ではない。


 彼が、魔王の心臓を奪わせないと選んだから。


 毒を切ると選んだから。


 その一振りにだけ、応えたのだ。


 俺は地面に膝をついたまま、リュシアに支えられていた。


 最後の鑑定は終わった。


 視界にはもう、鑑定結果が浮かばない。


 何も表示されない。


 ただ、土と花と人の顔が見えるだけだ。


 世界が急に静かになったようだった。


「レインさん」


 リュシアの声が近い。


「大丈夫ですか」


「……生きてる」


「それは見れば分かります」


「じゃあ、大丈夫だ」


「大丈夫ではありません」


 彼女は泣きそうな顔で俺を睨んだ。


 怒っている。


 震えている。


 それでも、手は離さなかった。


 セレナが隣に膝をつき、俺の肩と額に手を当てた。


「無理に話さないでください。魔力回路がかなり傷ついています」


「鑑定は」


「今は使わないでください」


「使えない」


 そう言うと、セレナの表情が一瞬固まった。


「見えないんだ。何も」


 俺は自分の手を見た。


 死体鑑定士。


 死体しか見えない男。


 その俺の視界から、文字が消えていた。


 壊れたものも、死んだものも、未来価値も、何も見えない。


 ただの手。


 血と泥で汚れた、自分の手。


 不安がないと言えば嘘になる。


 けれど、不思議と空っぽではなかった。


 読んできたものは、消えていない。


 魔王の遺体。


 黒曜花。


 聖剣。


 死者たちの名前。


 世界の循環。


 それらは、俺の中にも、ミレイユの記録にも、村の記憶にも残っている。


 だから今は、それでいい。


 そう思おうとした。


 だが、リュシアの手が震えていることに気づいた。


 彼女は俺を支えている。


 けれど、視線は魔王の墓へ向いていた。


 黒曜花は咲いている。


 白面神官の禁式は届かなかった。


 魔王の心臓は守られた。


 黒花の村は、まだ立っている。


 それなのに、リュシアの顔には勝利の色がなかった。


 むしろ、何かを失った者のような顔をしていた。


「リュシア」


 俺が呼ぶと、彼女は小さく息を吸った。


「はい」


「どうした」


「……分かりません」


 彼女は魔王の墓を見つめたまま言った。


「守れたはずなのに」


「ああ」


「父の心臓は、奪われなかったのに」


「ああ」


「なのに」


 彼女の声が崩れた。


「お父さまが、また遠くなった気がするんです」


 その言葉に、俺は何も言えなくなった。


 魔王の心臓。


 黒曜花根部循環核。


 世界楔核。


 水脈。


 循環。


 死者記憶。


 俺たちは、魔王ゼルグレイスを守るために、そのすべてを語った。


 王国が心臓を素材にしようとしたから、俺たちは言わなければならなかった。


 心臓は臓器ではない。


 循環核だ。


 村と水脈と死者の記憶に分散している。


 魔王一人に毒を戻してはいけない。


 その言葉は正しい。


 必要だった。


 けれど、そのたびにリュシアの父は、また世界の役目へ押し戻されていたのかもしれない。


 魔王ではなく、父として眠らせたい。


 彼女はそう言っていた。


 なのに俺たちは、戦うために何度も彼を呼んだ。


 世界楔。


 循環核。


 毒受けの王。


 魔王の心臓。


 どれも正しい。


 けれど、娘が呼びたい名ではない。


 リュシアはゆっくり立ち上がった。


 俺は手を伸ばそうとしたが、力が入らなかった。


 彼女は魔王の墓へ歩いていく。


 黒曜花の光が、彼女の足元に淡く広がる。


 戦場の全員が、その背中を見ていた。


 カイゼルも。


 セレナも。


 ベルクも。


 ミレイユも。


 王国兵たちも。


 リュシアは魔王の墓の前で立ち止まった。


 そこには、最初に咲いた黒曜花がある。


 薬草茶の杯は、倒れずに残っていた。


 昨日の祭りで、彼女が父に供えたもの。


 魔王ゼルグレイスが苦手だった、苦い薬草茶。


 リュシアはその杯を両手で持ち上げた。


 中身は冷めている。


 少し土が入っている。


 それでも、彼女は大切そうに胸へ寄せた。


「お父さま」


 声は小さかった。


 けれど、戦場全体に届いた。


「また、あなたを使ってしまいました」


 黒曜花が、静かに揺れた。


「王国があなたを素材にしようとしたから。白面神官が心臓を奪おうとしたから。私たちは、あなたが世界を支えていたことを言わなければなりませんでした」


 彼女は目を伏せる。


「あなたの心臓が水脈につながっていることも。黒曜花の核になっていることも。世界の毒を受け止めていたことも。全部、言わなければなりませんでした」


 その声が震える。


「でも、そう言うたびに、私はあなたをまた魔王に戻している気がしました」


 誰も動かなかった。


 リュシアの言葉を遮る者はいなかった。


「世界楔。毒受けの王。循環核。黒曜花根部。そんな言葉で守らなければ、あなたを奪われてしまう。でも、そんな言葉で守るほど、あなたは私のお父さまではなくなっていく」


 リュシアは杯を墓の前へ置いた。


 そして、両手で黒曜花の土を掴んだ。


 白い手が泥で汚れる。


「お父さまを返して」


 その言葉は、王国軍へ向けたものかと思った。


 けれど違った。


 リュシアは、誰か一人に向けて叫んだのではない。


 王国へ。


 教会へ。


 世界へ。


 そして、俺たちへ。


「王国は、あなたを魔王と呼びました。素材と呼びました。心臓を寄こせと言いました」


 黒曜花が震える。


「世界は、あなたを楔にしました。毒を受け止める役目を背負わせました」


 リュシアの声が大きくなる。


「魔族は、あなたを王と呼びました。父である前に、偉大な方であることを求めました」


 彼女は涙を流していた。


「レインさんも、皆さんも、あなたを守るために、循環核だと言いました。世界を救うために必要だと言いました」


 俺の胸が締めつけられた。


 その通りだ。


 俺もまた、魔王を世界のために使おうとしていた。


 一度謝ったはずだった。


 でも、戦いの中でまた同じことをした。


 世界を救うため。


 王都を救うため。


 水脈を戻すため。


 死者を守るため。


 どれも間違っていない。


 だからこそ、残酷だった。


「でも、私は」


 リュシアは声を絞り出した。


「私は、ただ娘なんです」


 黒曜花の光が、彼女の周りで淡く揺れた。


「世界を救うためではなく、王国に勝つためでもなく、証拠にするためでもなく」


 彼女は泣きながら言った。


「お父さまを、お父さまとして返してほしいんです」


 その場にいた誰もが、言葉を失った。


 セレナが涙を流していた。


 ミレイユは杖を握りしめ、唇を噛んでいる。


 ベルクは大盾を下ろし、深く頭を垂れた。


 グランは目元を乱暴に拭った。


 ノアは俯いたまま、何度も小さく頷いている。


 サナは家の陰で、ミミとトトを抱きしめていた。


 ユーディアは娘を見つめ、胸を押さえている。


 そしてカイゼルは、動けずにいた。


 彼の手には、聖剣がある。


 魔王を殺した剣。


 その剣を握る男が、魔王の娘の叫びを聞いている。


 リュシアはゆっくり振り返った。


 視線の先にいたのは、カイゼルだった。


 戦場の空気が張り詰める。


 彼女は彼を睨まなかった。


 罵らなかった。


 剣を向けることもしなかった。


 ただ、涙に濡れた目で見た。


「カイゼル様」


 その呼び方に、カイゼルの肩がわずかに震えた。


「あなたは、父を殺しました」


 短い言葉。


 誰も否定できない言葉。


 カイゼルは目を逸らさなかった。


「……ああ」


 初めて、彼はそう答えた。


 言い訳も、怒声も、反論もなかった。


 リュシアは続ける。


「父が世界を支えていたことを、あなたは知らなかったのかもしれません」


「知らなかった」


 カイゼルの声は低かった。


「知ろうとしなかった」


 その言葉に、リュシアの目が揺れた。


「父は、あなたに毒を切ってほしかった」


「……ああ」


「でも、あなたは心臓を貫きました」


「ああ」


「あなたの凱旋のために、父の血は採られました」


 カイゼルの顔が痛みに歪む。


「知らなかった」


「でも、あなたの凱旋があったから、父の血は凱旋聖血と呼ばれました」


「……ああ」


「あなたは、父を二度奪ったわけではないのかもしれません。でも」


 リュシアは胸元を握った。


「私には、何度も奪われたように感じます」


 カイゼルは何も言えなかった。


 リュシアの声は、静かだった。


 怒りを越えた声だった。


「だから、私はあなたを許せません」


 セレナが目を閉じる。


 ベルクが拳を握る。


 カイゼルは、ただ受け止めた。


「許さなくていい」


 彼は言った。


 リュシアがわずかに目を見開く。


「俺は、許されるためにここに立ったわけじゃない」


 その声は、まだ不器用だった。


 だが、以前のような英雄の響きはなかった。


「魔王を殺したことは消えない。俺は、魔王を倒した勇者であることを誇っていた。その凱旋に酔っていた。お前の父を、悪でなければならない存在にした」


 カイゼルは聖剣を見た。


「今さら、父を返すことはできない」


 リュシアの肩が震える。


「でも」


 カイゼルは、聖剣を地面に突き立てた。


 もう掲げなかった。


 王国の旗のようにも、勝利の証のようにも扱わなかった。


 墓の前で、刃を下ろした。


「これ以上、奪わせないことはできる」


 リュシアは黙っていた。


 カイゼルは続ける。


「心臓を奪わせない。血を素材にさせない。お前の父を、俺の功績として語ることも、王国の炉の核として扱うことも、もうしない」


 彼は、初めて深く頭を下げた。


 魔王の娘へ。


「許してくれとは言わない」


 その声は、かすれていた。


「だが、これ以上奪わないために、俺も動く」


 リュシアはしばらく何も言わなかった。


 涙が頬を伝う。


 やがて、彼女は小さく首を振った。


「それでも、父は返ってきません」


「ああ」


「あなたが何をしても、父はもう薬草茶を嫌がりません」


「ああ」


「私が墓守になると言ったときみたいに、三日悩んだりしません」


「ああ」


「お父さまは、もう私を呼んでくれません」


 カイゼルは答えられなかった。


 リュシアは魔王の墓へ戻る。


 そして、黒曜花の前に膝をついた。


「だから、私はあなたをすぐには許しません」


 カイゼルは頭を下げたまま、静かに言った。


「それでいい」


「でも」


 リュシアは涙を拭った。


「父をこれ以上奪わせないために立つなら、その場所にいることは止めません」


 それは許しではない。


 和解でもない。


 ただ、同じ墓の前に立つことを拒まなかっただけだ。


 それでも、カイゼルには十分すぎる言葉だったのかもしれない。


 彼は静かに頷いた。


「分かった」


 そのとき、黒曜花が一斉に淡く光った。


 魔王の墓の上に、黒銀の灯が浮かぶ。


 これまでも何度か見た、ゼルグレイスの記憶の灯。


 だが、今回の光は少し違っていた。


 大きくない。


 威厳もない。


 世界を支える王の光ではない。


 薬草茶の杯の近くで、困ったように揺れる、小さな灯だった。


 リュシアが息を呑む。


「お父さま……?」


 黒銀の灯が、杯の周りをゆっくり回る。


 そして、薬草茶から少し離れたところで止まった。


 まるで、やはり苦いものから逃げているように。


 ミトが小さく笑った。


 つられて、リナも笑う。


 その笑いはすぐに涙に変わった。


 リュシアも泣きながら笑った。


「そんなに嫌だったのですか」


 黒銀の灯が、かすかに揺れた。


 答えるように。


 戦場の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 王国兵の中にも、その光景を見て目を伏せる者がいた。


 魔王。


 災厄。


 世界楔。


 王都魔道炉の核。


 そのどれでもない。


 薬草茶を嫌がる父の灯。


 リュシアが求めていたのは、きっとこれだった。


 世界を救う巨大な真実ではなく。


 父が父としてそこにいた証。


 俺は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 鑑定はできない。


 表示は出ない。


 けれど、分かる。


 今、黒曜花は魔王を世界楔としてではなく、ゼルグレイスという死者として記憶している。


 セレナが静かに名前を呼んだ。


「ゼルグレイス」


 続いて、リュシアが呼ぶ。


「お父さま」


 黒曜花の光が、柔らかく広がった。


 ミレイユが記録魔法を浮かべようとして、手を止めた。


 俺はそれに気づいた。


「記録しないのか」


 ミレイユは小さく首を振った。


「これは、記録するものじゃない気がしたの」


「そうか」


「王国に見せるための証拠じゃない。リュシアのための記憶でしょ」


 俺は頷いた。


 ミレイユも、変わったのだと思う。


 すべてを記録して暴くことが必要なときもある。


 でも、誰かの悲しみを証拠にしてはいけないときもある。


 リュシアは黒銀の灯を見つめていた。


「お父さま」


 彼女は言った。


「私は、あなたを世界に返したくありませんでした」


 灯が揺れる。


「でも、あなたの心臓はもう、村と水脈と花になっています。私だけのものには、戻せません」


 その声は悲しげだった。


 けれど、少しだけ落ち着いていた。


「だから、せめて」


 彼女は薬草茶の杯に手を添えた。


「世界があなたを使うときではなく、私があなたを呼ぶときだけは、お父さまでいてください」


 黒銀の灯が、彼女の額の近くへ寄る。


 触れたわけではない。


 でも、リュシアは目を閉じた。


 まるで、父が娘の額に手を置いたように。


 その光景を、カイゼルは黙って見ていた。


 彼の表情には、言葉にできないものが浮かんでいた。


 後悔。


 痛み。


 戸惑い。


 そして、ほんの少しの理解。


 彼は初めて、魔王が誰かの父だったことを本当の意味で見たのかもしれない。


 白面神官が、地面の上で呻いた。


 倒れていた彼が、ゆっくりと顔を上げる。


 仮面は割れ、片目が覗いていた。


 その目には、まだ狂ったような執着が宿っている。


「茶番を……」


 声はかすれていた。


 それでも、毒は消えていない。


「魔王は災厄だ。王国の敵だ。心臓は資源だ。死者は王国のために――」


 その瞬間、王国兵の一人が前に出た。


 若い兵士。


 トマ・レイスだった。


 命令魔道具を切られ、意識を取り戻した兵士。


 彼は震える手で槍を構えている。


 だが、その穂先は黒花の村ではなく、白面神官へ向いていた。


「もう、やめてください」


 白面神官の目が見開かれる。


「兵士風情が」


「俺は、トマ・レイスです」


 トマの声は震えていた。


 だが、名乗った。


「命令だけで動く道具じゃありません」


 別の兵士も槍を下げた。


「俺は、エミル・ラグの弟です」


 彼は前に出る。


「兄を聖遺物にされたかもしれない国のために、これ以上墓を掘れません」


 神官兵の一人も、杖を下ろした。


「ミナ・オルセンの名を聞きました。もう、死者を素材と呼べません」


 王国軍の中に、静かな波が広がっていく。


 一斉に寝返るわけではない。


 全員が武器を捨てるわけでもない。


 だが、確かに亀裂が入っている。


 白面神官の命令だけでは、もう動かない者たちが出てきた。


 セレナが小さく息を吐いた。


「名前が、届いたのですね」


 ベルクが頷く。


「まだ少しだ」


「はい」


「だが、少し届いた」


 白面神官は怒りで震えていた。


「裏切り者どもが……」


 その声に、カイゼルが反応した。


 彼は聖剣を握らず、予備剣も構えなかった。


 ただ、白面神官の前へ歩いた。


「裏切り者は、誰だ」


 白面神官が彼を睨む。


「勇者をやめた男が、何を」


「俺は勇者をやめたわけじゃない」


 カイゼルは言った。


 俺たちは思わず彼を見た。


 だが、続く言葉は以前とは違った。


「王国が作った勇者を、今は下ろしただけだ」


 彼は地面に突き刺さる聖剣を見た。


「本来の勇者が何なのかは、まだ分からない」


 それは、彼にしては驚くほど正直な言葉だった。


「だが、少なくとも、死者を素材と呼ぶ者ではない」


 白面神官は口を開いたが、言葉が出なかった。


 カイゼルは王国兵たちへ向き直る。


「この場で白面神官を拘束する」


 王国軍に緊張が走る。


「命令ではない」


 カイゼルは言った。


「勇者としての号令でもない。見た者が、それぞれ選べ」


 選べ。


 その言葉が、戦場に落ちた。


 命令ではなく、選択。


 王国軍の中で、最初に動いたのはトマだった。


 彼は白面神官へ近づき、槍を構えたまま言った。


「抵抗しないでください」


 次に、エミルの弟が続く。


 ミナの同期だった神官兵も、杖を下ろして拘束札を手に取った。


 だが、その札を白面神官に投げる前に、セレナが言った。


「苦痛を与える札ではなく、普通の縄を」


 神官兵は一瞬戸惑い、それから頷いた。


「はい」


 グランが縄を投げる。


「使え」


 白面神官は抵抗しようとした。


 だが禁式の反動で体が動かない。


 彼は王国兵たちによって縛られた。


 保護ではない。


 拘束。


 その違いを、この場にいる者たちはもう知っていた。


 リュシアはその様子を見ていなかった。


 彼女はずっと、黒銀の灯を見ていた。


 やがて、その灯はゆっくりと黒曜花の中へ戻っていく。


 リュシアが手を伸ばす。


「お父さま」


 灯は消えない。


 黒曜花の奥で、静かに揺れ続ける。


 薬草茶の杯の近くで。


 世界楔としてではなく。


 黒花の村の墓に眠る、ゼルグレイスという死者として。


 リュシアは涙を拭いた。


 そして、小さく言った。


「おかえりなさい」


 その声は、戦場の終わりを告げる鐘のように静かだった。


 王国軍はまだ完全に退いたわけではない。


 宰相グラウスも、王都魔道炉も、聖教会も残っている。


 世界の毒も消えていない。


 黒曜花を各地に植え、王都魔道炉を止め、死者素材化を終わらせる戦いはこれからだ。


 けれど、この瞬間だけは。


 リュシアの父は、少しだけ娘のもとへ返ってきた。


 俺はその光景を、鑑定なしで見ていた。


 文字は出ない。


 価値も表示されない。


 未来候補も読めない。


 それでも、分かることがあった。


 死者は、役目だけで眠るのではない。


 名前を呼ばれ、癖を思い出され、愛した者に「おかえり」と言われて、ようやく少し眠れるのだ。


 黒花の村の上に、朝の光が差していた。


 長い防衛戦の果てに、初めて戦場ではなく、墓地の静けさが戻ってきた。


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