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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第4章 魔王を弔う者

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第33話 勇者カイゼルの凱旋、終わる

 白い布に覆われた封印輸送箱が、王国軍の後方から運び込まれてきた。


 鉄の鎖が幾重にも巻かれ、箱の四隅には聖教会の封印札が貼られている。


 神官兵四人がかりで押しているが、その顔は青ざめていた。


 彼ら自身も、その中身を恐れている。


 黒曜花がざわめいた。


 村境界の黒銀の光が、不規則に揺れる。


 魔王の墓の前に立つリュシアの顔色が変わった。


「嫌な気配がします」


 その声は、震えていた。


 怒りではない。


 恐怖でもない。


 もっと深い、死者を冒涜されることを肌で感じ取った墓守の声だった。


 白面神官は、仮面越しにこちらを見ていた。


「聖剣を封じ、魔道砲を乱し、死者の名で兵を惑わせる。見事だ、死体鑑定士」


 その声には、もう余裕が戻っていた。


「だが、花があるから名を呼べるのだろう。ならば、花を汚せばよい」


 俺は血の滲む肩を押さえながら、封印輸送箱を見た。


 鑑定はすでに反応している。


【対象:封印輸送箱】


【状態:封印中】


【内容物:魔王由来血液サンプル、黒曜花焼却実験灰、死骸兵核、王都魔道炉汚染結晶】


【用途:黒曜花根部汚染】


【危険:極大】


 魔王由来血液サンプル。


 黒曜花焼却実験灰。


 死骸兵核。


 王都魔道炉汚染結晶。


 そのすべてが、黒曜花を壊すために組み合わされている。


 死者の花を、死者の素材で汚す。


 白面神官は、それをためらわない。


 リュシアが一歩前へ出た。


「それを開けてはいけません」


 白面神官は答えない。


 彼は箱へ手をかざす。


 封印札が一枚、燃えるように剥がれた。


 箱の隙間から、黒い煙が漏れる。


 黒曜花の花びらが一斉に閉じかけた。


 まるで、毒の風から身を守るように。


 セレナが息を呑む。


「これは……祈りの場に持ち込んではならないものです」


「祈り?」


 白面神官が笑った。


「これは戦場だ、裏切り者の聖女」


「だからこそ、持ち込んではならないのです」


 セレナの顔は青ざめていたが、声ははっきりしていた。


「死者をもう一度汚すものを、死者の眠る場所へ向けるなど」


「死者は王国のために用いられる」


 白面神官は当然のように言った。


「それが国を守るということだ」


 王国兵たちの一部が、また動揺した。


 死者は王国のもの。


 その本音を聞いた直後だ。


 さらに、死者を花を汚す道具として使おうとしている。


 白い旗の下に立つ兵士たちは、自分たちが何を守らされているのか、分からなくなり始めていた。


 だが、白面神官は兵士たちの動揺など見ていない。


 彼が見ているのは、黒曜花だけだった。


 いや、黒曜花さえ見ていない。


 彼が見ているのは、王国に都合の悪い真実を消す方法だけだ。


「待て」


 低い声がした。


 カイゼルだった。


 彼は、光を失った聖剣アステリオスを鞘に収めたまま、白面神官を見ている。


 その手には予備剣が握られていた。


「その箱は何だ」


 白面神官はわずかに首を傾けた。


「黒曜花を処理するためのものです」


「俺は、そんなものを使えとは命じていない」


「勇者様が聖剣を封じられた今、代替策が必要です」


 その言葉に、カイゼルの目が鋭くなる。


 聖剣を封じられた。


 それは、彼にとって最大の屈辱だった。


 だが、今の彼が気にしたのはそこだけではなかった。


「内容物を言え」


 白面神官は一瞬、黙った。


 その沈黙だけで、答えの一部は見えていた。


「勇者様が知る必要はありません」


 その瞬間、戦場の空気が変わった。


 カイゼルの予備剣が、わずかに持ち上がる。


「俺が知る必要はない?」


「作戦上の専門処置です。聖教会および王立魔道研究院の管理下にあります」


「俺は勇者だ」


「はい」


「魔王討伐の指揮を執ったのは俺だ」


「もちろんです」


「なら、黒曜花を焼く作戦も俺の戦いだ」


 カイゼルの声が低くなる。


「その俺に、知る必要がないと言ったのか」


 白面神官は、仮面の奥で笑ったように見えた。


「勇者様」


 彼は丁寧な声で言った。


「勇者様の役目は、民の前で剣を掲げ、悪を討つことです。細かな素材管理や汚染処理は、我々にお任せください」


 ミレイユが小さく呟いた。


「言ったわね」


 ベルクの大盾を握る手に力がこもる。


 セレナは唇を噛んでいる。


 カイゼルは白面神官を見ていた。


 その顔には、怒りだけではないものが浮かんでいた。


 理解。


 いや、理解しかけた者の痛み。


 勇者は、王国の中心にいると思っていた。


 民に称えられ、王に勲章を与えられ、聖剣を掲げる存在。


 だが今、白面神官は言った。


 勇者様の役目は、民の前で剣を掲げ、悪を討つこと。


 それはつまり、王国が決めた悪を討つための象徴。


 道具。


 飾り。


 カイゼルが必死に守ろうとしてきた勇者の物語が、白面神官の口から役割として説明された。


「カイゼル」


 ベルクが静かに言った。


「お前も、使われていた」


「黙れ」


 カイゼルは即座に返した。


 だが、その声は先ほどより弱かった。


 俺は封印輸送箱を見た。


 もっと読まなければならない。


 あの箱の中身を、カイゼルにも、王国兵にも、見せなければならない。


 戦えない鑑定士にできることは、それしかない。


 俺は黒曜花に手を置いた。


 リュシアがすぐに気づく。


「レインさん、無理をしては」


「無理じゃない」


「嘘です」


「なら、必要な無理だ」


 リュシアは何か言いかけた。


 だが、俺の目を見て、静かに頷いた。


「墓守リュシアが許可します」


 彼女は魔王の墓へ手を添えた。


「死者を汚す箱の中身を、暴いてください」


 黒曜花の根が俺の足元から伸びる。


 封印輸送箱へ向かって。


 白面神官が気づき、杖を振った。


「止めろ!」


 神官兵が札を投げる。


 ミレイユが青い光で札を弾く。


「させないわよ!」


 ベルクが大盾を構え、飛んでくる魔力弾を受け止める。


 グランが境界鍬で地面を叩き、根の進路を守る。


 セレナが名前を呼び続ける。


「レイン・オルディア!」


 黒曜花の光が、俺の視界をつなぐ。


 箱へ。


 中身へ。


 死者の残滓へ。


 鑑定が深まる。


【対象:封印輸送箱】


【封印名:黒花根部汚染処置具】


【管理者:聖教会白面回収班、王立魔道研究院第三処理室】


【作成目的:黒曜花の死者記憶保持機能の破壊、魔力毒浄化反応の反転、魔王遺体の再回収】


【副次目的:古代循環碑の記録無効化、聖剣記憶開示現象の遮断】


 俺は読み上げた。


 王国兵にも聞こえるように。


「黒曜花の記憶保持機能を破壊する箱だ。魔力毒浄化を反転させ、魔王の遺体を再回収するために作られている」


 王国軍がざわめく。


 白面神官が叫ぶ。


「黙れ!」


 俺は止まらない。


「副次目的は、古代循環碑の記録を無効化すること。聖剣記憶開示現象を遮断すること」


 ミレイユが怒りで声を震わせた。


「つまり、真実を消すための箱じゃない」


 白面神官は答えなかった。


 俺はさらに深く読む。


 箱の中の一つ目。


【内容物一:魔王由来血液サンプル】


【採取元:聖剣アステリオス刀身付着血】


【採取時期:勇者凱旋式前夜】


【管理名:凱旋聖血】


【用途:魔王遺体反応追跡、黒曜花根部への逆汚染】


 凱旋聖血。


 その言葉を見た瞬間、俺はカイゼルを見た。


 彼の顔色が変わっていた。


「凱旋聖血」


 俺は声に出した。


「魔王の血は、勇者凱旋式の前夜に聖剣から採取されている」


 カイゼルの目が見開かれる。


「何だと」


「管理名は、凱旋聖血」


「知らない」


 彼は白面神官を見る。


「俺は知らないぞ」


 白面神官は淡々と言った。


「聖剣に付着した魔王の血は、聖教会の規定により処理されました」


「処理?」


「凱旋式において、聖剣を清める必要がありましたので」


「清める……?」


 カイゼルの声がかすれた。


 あの日。


 王都の広場。


 民衆の歓声。


 国王から授けられた勲章。


 白銀の鎧。


 高く掲げられた聖剣。


 魔王を討った勇者の凱旋。


 その前夜に、聖剣から魔王の血が採取されていた。


 勇者の象徴を清めるという名目で。


 そして、その血は今、黒曜花を汚すための素材として箱に入っている。


 カイゼルは聖剣の鞘に手を触れた。


 その手が震えていた。


「俺の凱旋を……」


 彼は低く呟いた。


「お前たちは、そんなものに使っていたのか」


 白面神官は答える。


「魔王由来素材は、王国の資産です」


 その言葉に、リュシアが息を呑んだ。


 魔王由来素材。


 父の血を、そう呼んだ。


 カイゼルも、同じ言葉に反応した。


「素材……」


 彼の視線が、リュシアへ向かう。


 魔王の娘。


 墓守。


 父を父として弔おうとする少女。


 その前で、魔王の血が素材と呼ばれた。


 カイゼルは、何かを言おうとして言えなかった。


 俺はさらに読む。


【内容物二:黒曜花焼却実験灰】


【採取元:王国西方臨時収容地】


【実験対象:黒曜花断片】


【処置:聖油焼却、白面神官管理】


【結果:完全焼却失敗】


【再利用用途:黒曜花根部に対する腐食誘導】


「黒曜花焼却実験灰。収容地で焼いた花の灰だ。完全には焼けず、その残骸を今度は根を腐らせるために使うつもりだ」


 セレナが顔を歪めた。


「あの収容地で……」


 サナの母ユーディアが、遠くで拳を握る。


 あの実験の影響で、黒曜花は苦しんでいた。


 リュシアも胸を押さえていた。


 その灰が、今ここにある。


 父の墓の花を殺すために。


 俺は次を読む。


【内容物三:死骸兵核】


【由来:戦死者魔力結晶複合体】


【構成:王国兵十七名、魔族兵六名、未登録補充兵九名、処刑魔術師二名】


【用途:黒曜花の死者記憶機能を過負荷にし、記憶混濁を発生させる】


【備考:個別名は管理上不要として削除】


 胸の奥が冷えた。


 個別名は管理上不要として削除。


 それが王国のやり方だ。


「死骸兵核」


 俺は読み上げる。


「王国兵十七名、魔族兵六名、未登録補充兵九名、処刑魔術師二名の魔力結晶を混ぜたものだ。個別名は、管理上不要として削除」


 王国兵たちの間で、低いざわめきが走った。


 未登録補充兵九名。


 ノアが顔を青ざめさせる。


「九名……」


 彼は自分の認識布を握りしめた。


「俺も、ああなっていたかもしれない」


 セレナが目を閉じた。


「名前を、削除……」


 彼女の声は震えていた。


「人の名前を、管理上不要と」


 ミレイユが杖を握りしめる。


「そんなものを作って、まだ王国の正義だって言うの?」


 白面神官は言った。


「国を守るための犠牲だ」


 ベルクが低く問う。


「誰の犠牲か分かって言っているのか」


「王国に命を捧げた者たちだ」


「捧げたのではない。奪われたのだ」


 ベルクの声に、怒りが宿っていた。


 最後の内容物。


 俺は読みたくなかった。


 だが、読む。


【内容物四:王都魔道炉汚染結晶】


【採取元:王城地下魔道炉第三循環区】


【状態:魔力毒高濃縮】


【由来:王都魔道炉の長期運用による毒性蓄積】


【用途:黒曜花根部へ注入し、浄化許容量を超過させる】


【危険:黒曜花の浄化反応反転、土地再毒化、水脈停止、死者記憶崩壊】


【注意:使用時、周辺生者への魔力毒暴露危険】


 王都魔道炉汚染結晶。


 王都の毒そのもの。


 それを黒曜花へ注入する。


 浄化できる限界を超えさせ、花を壊す。


 花を壊すだけではない。


 土地を再び毒で満たす。


 水脈を止める。


 死者の記憶を崩壊させる。


 そして周辺の生者にも毒が及ぶ。


 つまり、村人や避難民が死ぬ危険がある。


「白面神官」


 俺は声を低くした。


「この箱を使えば、村人も死ぬぞ」


「反逆者の村だ」


「避難民もいる。子どももいる」


「魔王復活派に匿われた者たちだ」


「王国兵も巻き込まれる」


「必要な犠牲だ」


 その言葉で、王国軍の兵士たちがまた動揺した。


 必要な犠牲。


 それは、自分たちにも向いている言葉だった。


 カイゼルが白面神官へ歩み寄った。


「その箱を下げろ」


「勇者様」


「下げろと言った」


「できません」


 白面神官は一歩も退かなかった。


「黒曜花を残せば、王国の記録が崩れます」


「王国の記録?」


「魔王討伐の正当性。勇者様の凱旋。聖剣の神聖性。王都魔道炉の安定神話。すべてが危うくなります」


 カイゼルの顔が歪む。


「俺の凱旋も、そこに入るのか」


「当然です」


 白面神官は言った。


「勇者カイゼルの凱旋は、王国が民を統合するために必要な物語です。魔王が世界を支えていたなどという異端記録が広まれば、凱旋は疑われる。聖剣の誤用などと騒がれれば、勇者様の名にも傷がつく」


「俺の名を守るために、これを使うのか」


「王国を守るためです」


「俺の名を、王国の記録として守るために?」


「同じことです」


 カイゼルは黙った。


 その沈黙は長かった。


 王国軍も、黒花の村も、誰も動けなかった。


 勇者カイゼル。


 魔王を討った英雄。


 王都に凱旋した男。


 その物語を守るために、王国は魔王の血を採り、死者を混ぜ、毒を結晶化し、黒曜花を汚そうとしている。


 そして、それを本人には知らせなかった。


 勇者は中心ではなかった。


 勇者もまた、王国の記録に使われる素材だった。


 俺はカイゼルを見た。


「カイゼル」


 彼は俺を見ない。


「お前の凱旋は、もう終わっている」


 その言葉に、彼の肩がわずかに震えた。


「民が歓声を上げた日じゃない。聖剣が封印されたからでもない。今、白面神官が言った。お前の凱旋は、王国が民を統合するための物語だと」


「黙れ」


 声は小さかった。


「お前は、その物語を守るために魔王を殺した。でも、その物語は最初から、お前だけのものじゃなかった。王国が作り、教会が飾り、研究院が素材を回収するためのものだった」


「黙れ」


「お前が守っていた英雄譚は、死者を素材にする国の蓋だった」


「黙れ!」


 カイゼルが予備剣を振り上げる。


 俺へ向かってくると思った。


 だが、違った。


 彼は白面神官へ向かって踏み込んだ。


 白面神官も予想していなかったのだろう。


 反応が遅れた。


 カイゼルの剣が、封印輸送箱を縛る鉄鎖を斬った。


 火花が散る。


 鉄鎖が一本、二本と落ちる。


「勇者様!」


 白面神官が叫ぶ。


「何をなさる!」


「黙れ」


 カイゼルは箱を睨んだ。


「俺の凱旋を、俺の知らないところで素材置き場にするな」


 その言葉に、戦場が凍った。


 ミレイユが息を呑む。


 ベルクが大盾をわずかに下げる。


 セレナの目に、わずかな希望が浮かんだ。


 だが、俺はすぐに違和感を覚えた。


 カイゼルは箱を止めようとしている。


 それは確かだ。


 だが、彼の目はまだ俺たちを見ていない。


 黒花の村を認めたわけではない。


 魔王ゼルグレイスに謝ったわけでもない。


 自分が間違えたと認めたわけでもない。


 彼が怒っているのは、王国が自分を道具にしたことだ。


 死者を素材にしたことではない。


 少なくとも、まだ。


 白面神官の声が冷たくなった。


「勇者様。箱に触れないでください」


「命令するな」


「中身は極めて不安定です」


「なら、なぜ戦場へ持ってきた」


「使うためです」


「俺が許さない」


「許可は不要です」


 白面神官が手を上げた。


 箱の四隅に貼られていた封印札が、一斉に赤黒く光る。


 カイゼルが目を見開く。


 箱の起動権限は、白面神官にある。


 勇者にはない。


 白面神官は静かに告げた。


「黒花根部汚染処置、開始」


 封印輸送箱が開いた。


 中から、黒い煙と白い灰が噴き出す。


 魔王の血。


 黒曜花の焼却灰。


 死骸兵核。


 王都魔道炉汚染結晶。


 それらが混ざった、最悪の毒。


 黒い液体のようなものが、地面へこぼれ落ちた。


 黒曜花の根が悲鳴を上げたように震える。


 リュシアが胸を押さえて膝をつく。


「リュシア!」


 俺は叫んだ。


 黒い毒が、地面の下の根へ向かって広がろうとしている。


 白面神官の狙いは、箱を村へ投げ込むことではなかった。


 地面から根に染み込ませること。


 黒曜花は村境界の外にも根を伸ばしている。


 その根を汚染すれば、内側の花へ届く。


「水!」


 グランが叫ぶ。


「水を流せ!」


「駄目だ!」


 俺は鑑定結果を見て叫んだ。


【黒花根部汚染液】


【状態:地表拡散中】


【水接触時:広域希釈、拡散範囲拡大】


【推奨:水使用不可】


 水を使えば広がる。


 井戸水でも間に合わない。


 ミレイユが魔法で焼こうとする。


 だが、すぐに俺は止めた。


「燃やすな! 聖油灰が反応する!」


【火炎接触時:毒性煙化】


【危険:避難民、村人、王国兵への吸引被害】


 燃やせない。


 水も使えない。


 近づけば毒にやられる。


 俺は必死に鑑定を深めた。


【対処候補:汚染液の死者成分分離】


【必要要素:死者名の特定、聖女の名呼び、墓守の拒絶、魔王血液への血縁呼応】


 魔王血液への血縁呼応。


 リュシアだ。


 だが、彼女は膝をつき、苦しそうにしている。


 父の血を汚染物として使われているせいで、墓守として、娘として、反応を受けているのだ。


「リュシア、無理をするな!」


 俺が叫ぶと、彼女は顔を上げた。


 顔色は悪い。


 だが、その目は強かった。


「父の血を、毒にされたままにはしません」


 彼女は立ち上がろうとする。


 セレナが支える。


「私も」


 セレナはリュシアの手を握った。


「名前を呼びます」


「魔王の血に、名前を戻す」


 俺は理解した。


 魔王由来血液サンプル。


 凱旋聖血。


 王国はそう名づけた。


 なら、その名を剥がす。


 素材名ではなく、死者の名へ戻す。


 リュシアが黒い毒へ向かって叫んだ。


「それは凱旋聖血ではありません!」


 彼女の声が震える。


「それは、私の父、ゼルグレイスの血です!」


 黒い毒の動きが止まった。


 セレナが続く。


「ゼルグレイス!」


 黒曜花が激しく光る。


 魔王の墓から、黒銀の灯が立ち上がる。


 俺は毒の中に混ぜられた死骸兵核の名前を拾う。


 頭が割れそうな痛み。


 だが、拾う。


【死骸兵核・残存名】


【オルナ・ベック】


【ジム・ハーヴ】


【補充兵レト】


【魔族兵ガルム】


【処刑魔術師エリオ】


「オルナ・ベック!」


 俺が叫ぶ。


 セレナが即座に呼ぶ。


「オルナ・ベック!」


 黒い毒の中から銀色の粒が浮かぶ。


「ジム・ハーヴ!」


「ジム・ハーヴ!」


「補充兵レト!」


 ノアが震えながら叫んだ。


「レト! お前、同じ訓練場にいた……!」


 毒の中から、小さな灯が浮く。


「魔族兵ガルム!」


 リュシアが呼ぶ。


「あなたも、もう毒ではありません!」


「処刑魔術師エリオ!」


 ミレイユが叫ぶ。


「魔術を、こんなものに使わせない!」


 名前が呼ばれるたび、黒い毒が分離していく。


 魔王の血。


 死者結晶。


 焼却灰。


 汚染結晶。


 混ぜられ、素材として一つの毒にされたものが、名前によって解かれていく。


 白面神官が叫ぶ。


「やめろ! 混濁を解くな!」


 ベルクが大盾で彼の前に立つ。


「もう十分だ」


 白面神官が杖を振る。


 ベルクの盾が受け止める。


 その隙に、カイゼルが箱へ向かって踏み込んだ。


 彼は予備剣で箱の内部の赤黒い結晶を斬ろうとする。


「待て!」


 俺は叫んだ。


【王都魔道炉汚染結晶】


【衝撃破壊時:毒性拡散】


 斬れば爆ぜる。


 カイゼルの剣は、結晶の手前で止まった。


 止めたのは俺の声ではない。


 たぶん、彼自身の迷いだ。


 聖剣のとき、彼は止められなかった。


 今度は、止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、その一瞬は大きかった。


「どうすればいい」


 カイゼルが言った。


 俺を見ずに。


 それでも、確かに聞いた。


 どうすればいい。


 勇者が、死体鑑定士に問うた。


 俺は汚染結晶を見る。


【王都魔道炉汚染結晶】


【状態:高濃縮毒】


【安定化条件:黒曜花根部による直接浄化不可】


【代替処置:古代循環碑接続、聖剣循環鍵機能による毒脈切断】


【注意:聖剣は一時封印中】


 聖剣が必要。


 だが、封印したばかりだ。


 しかも、カイゼルの適合率は低い。


 このまま使えば、また壊れる。


 だが、古代循環碑と接続し、毒脈だけを切るなら。


 聖剣本来の機能なら。


 可能性はある。


「聖剣だ」


 俺は言った。


 カイゼルの顔が強張る。


「今さら、俺に聖剣を使えと?」


「魔王を殺すためじゃない」


 俺は彼を見た。


「毒を切るために使え」


 戦場が静まり返る。


 カイゼルは、光を失った聖剣の柄に手を置いた。


 その手は震えている。


 魔王城の玉座の間。


 あのとき、ゼルグレイスも同じことを言った。


 切るのは私ではない。


 ここに溜まった毒だ。


 今度こそ、同じ選択が彼の前にある。


 魔王を殺す剣として振るうのか。


 毒を切る鍵として使うのか。


 カイゼルは聖剣を抜いた。


 刃は灰色のまま。


 光は戻らない。


 だが、黒曜花の灯が、刃の根元にかすかに映った。


 ベルクの盾の破片が光る。


 ミレイユが古代循環碑の写しを掲げる。


 セレナが名前を呼ぶ。


「カイゼル」


 リュシアが魔王の墓の前で言った。


「父を殺すためではなく、父が切ってほしかった毒を切ってください」


 カイゼルは目を閉じた。


 長い沈黙。


 王国軍も、黒花の村も、誰も動かなかった。


 そして、彼は聖剣を構えた。


 標的は黒曜花ではない。


 魔王の墓でもない。


 黒い毒の中心にある、王都魔道炉汚染結晶。


 カイゼルが低く言った。


「俺は……」


 その声は震えていた。


「俺は、魔王を討った勇者だ」


 ミレイユの顔が曇る。


 ベルクが目を伏せる。


 やはり駄目かと思った。


 だが、次の言葉で、カイゼルの声が変わった。


「だが、この一振りだけは……魔王を殺すためじゃない」


 聖剣が、かすかに光った。


 白銀ではない。


 黒銀を含んだ、淡い光。


「毒を切る」


 カイゼルは聖剣を振り下ろした。


 刃は汚染結晶を割らなかった。


 中心を通る黒い筋だけを、正確に断った。


 音はなかった。


 ただ、空気が軽くなった。


 黒い毒が広がるのをやめる。


 分離した死者の灯が、黒曜花へ解放されていく。


 王都魔道炉汚染結晶は、砕けず、灰色の石として地面に落ちた。


 鑑定結果が浮かぶ。


【王都魔道炉汚染結晶】


【状態:毒脈切断】


【拡散危険:停止】


【黒曜花根部汚染:回避】


【聖剣アステリオス】


【一時封印:部分解除】


【本来機能:毒脈切断、限定発動】


【使用者適合率:一時上昇】


【条件:魔王殺害意思なし】


 魔王殺害意思なし。


 その条件で、聖剣は応えた。


 カイゼルは聖剣を見つめていた。


 彼の顔には、勝利の高揚はなかった。


 凱旋のときのような誇りもない。


 ただ、何かを失った男の顔だった。


 同時に、初めて何かを見た男の顔でもあった。


 白面神官が震える声で言った。


「勇者様……なぜ……」


 カイゼルは答えなかった。


 だが、王国軍の兵士たちは見ていた。


 勇者が、黒花の村を焼くためではなく、白面神官の毒を止めるために聖剣を振るった瞬間を。


 それは、王都の広場での凱旋とは違う。


 歓声もない。


 勲章もない。


 王もいない。


 白い花も撒かれない。


 あるのは泥と血と、死者の名前と、黒い花だけ。


 それでも、その一振りは、彼がこれまで振るったどの剣よりも聖剣らしかった。


 カイゼルの凱旋は、終わった。


 魔王を殺した勇者としての物語は、ここで終わった。


 だが、彼がそのあと何になるのかは、まだ誰にも分からない。


 カイゼル自身にも。


 戦場に、短い静寂が落ちた。


 その静寂を破ったのは、白面神官の怒号だった。


「勇者カイゼル、任務放棄!」


 彼は仮面の奥で、憎悪に震えていた。


「聖教会権限により、勇者資格の再審査を要請する! 全軍、勇者様を一時保護せよ!」


 保護。


 また、その言葉。


 今度は、カイゼルへ向けられた。


 王国が都合の悪い者へ使う言葉。


 セレナへ。


 捕虜へ。


 魔族の子どもへ。


 そして今、勇者へ。


 カイゼルはゆっくりと白面神官を見た。


 その顔には、怒りよりも空虚な笑みが浮かんでいた。


「そうか」


 彼は言った。


「俺も、保護対象か」


 白面神官は答えない。


 神官兵たちが、迷いながらもカイゼルへ向かって動き始める。


 ベルクが大盾を構えた。


 ミレイユが杖を掲げた。


 セレナが息を吸う。


 リュシアが黒曜花へ手を添える。


 俺は痛む肩を押さえながら、聖剣を持つカイゼルを見た。


 敵だった勇者。


 魔王を殺した男。


 黒花の村を潰そうとした男。


 その男が今、王国からも切り捨てられようとしている。


 凱旋は終わった。


 次に始まるのは、勇者が自分の物語を失ったあとの戦いだった。


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