第33話 勇者カイゼルの凱旋、終わる
白い布に覆われた封印輸送箱が、王国軍の後方から運び込まれてきた。
鉄の鎖が幾重にも巻かれ、箱の四隅には聖教会の封印札が貼られている。
神官兵四人がかりで押しているが、その顔は青ざめていた。
彼ら自身も、その中身を恐れている。
黒曜花がざわめいた。
村境界の黒銀の光が、不規則に揺れる。
魔王の墓の前に立つリュシアの顔色が変わった。
「嫌な気配がします」
その声は、震えていた。
怒りではない。
恐怖でもない。
もっと深い、死者を冒涜されることを肌で感じ取った墓守の声だった。
白面神官は、仮面越しにこちらを見ていた。
「聖剣を封じ、魔道砲を乱し、死者の名で兵を惑わせる。見事だ、死体鑑定士」
その声には、もう余裕が戻っていた。
「だが、花があるから名を呼べるのだろう。ならば、花を汚せばよい」
俺は血の滲む肩を押さえながら、封印輸送箱を見た。
鑑定はすでに反応している。
【対象:封印輸送箱】
【状態:封印中】
【内容物:魔王由来血液サンプル、黒曜花焼却実験灰、死骸兵核、王都魔道炉汚染結晶】
【用途:黒曜花根部汚染】
【危険:極大】
魔王由来血液サンプル。
黒曜花焼却実験灰。
死骸兵核。
王都魔道炉汚染結晶。
そのすべてが、黒曜花を壊すために組み合わされている。
死者の花を、死者の素材で汚す。
白面神官は、それをためらわない。
リュシアが一歩前へ出た。
「それを開けてはいけません」
白面神官は答えない。
彼は箱へ手をかざす。
封印札が一枚、燃えるように剥がれた。
箱の隙間から、黒い煙が漏れる。
黒曜花の花びらが一斉に閉じかけた。
まるで、毒の風から身を守るように。
セレナが息を呑む。
「これは……祈りの場に持ち込んではならないものです」
「祈り?」
白面神官が笑った。
「これは戦場だ、裏切り者の聖女」
「だからこそ、持ち込んではならないのです」
セレナの顔は青ざめていたが、声ははっきりしていた。
「死者をもう一度汚すものを、死者の眠る場所へ向けるなど」
「死者は王国のために用いられる」
白面神官は当然のように言った。
「それが国を守るということだ」
王国兵たちの一部が、また動揺した。
死者は王国のもの。
その本音を聞いた直後だ。
さらに、死者を花を汚す道具として使おうとしている。
白い旗の下に立つ兵士たちは、自分たちが何を守らされているのか、分からなくなり始めていた。
だが、白面神官は兵士たちの動揺など見ていない。
彼が見ているのは、黒曜花だけだった。
いや、黒曜花さえ見ていない。
彼が見ているのは、王国に都合の悪い真実を消す方法だけだ。
「待て」
低い声がした。
カイゼルだった。
彼は、光を失った聖剣アステリオスを鞘に収めたまま、白面神官を見ている。
その手には予備剣が握られていた。
「その箱は何だ」
白面神官はわずかに首を傾けた。
「黒曜花を処理するためのものです」
「俺は、そんなものを使えとは命じていない」
「勇者様が聖剣を封じられた今、代替策が必要です」
その言葉に、カイゼルの目が鋭くなる。
聖剣を封じられた。
それは、彼にとって最大の屈辱だった。
だが、今の彼が気にしたのはそこだけではなかった。
「内容物を言え」
白面神官は一瞬、黙った。
その沈黙だけで、答えの一部は見えていた。
「勇者様が知る必要はありません」
その瞬間、戦場の空気が変わった。
カイゼルの予備剣が、わずかに持ち上がる。
「俺が知る必要はない?」
「作戦上の専門処置です。聖教会および王立魔道研究院の管理下にあります」
「俺は勇者だ」
「はい」
「魔王討伐の指揮を執ったのは俺だ」
「もちろんです」
「なら、黒曜花を焼く作戦も俺の戦いだ」
カイゼルの声が低くなる。
「その俺に、知る必要がないと言ったのか」
白面神官は、仮面の奥で笑ったように見えた。
「勇者様」
彼は丁寧な声で言った。
「勇者様の役目は、民の前で剣を掲げ、悪を討つことです。細かな素材管理や汚染処理は、我々にお任せください」
ミレイユが小さく呟いた。
「言ったわね」
ベルクの大盾を握る手に力がこもる。
セレナは唇を噛んでいる。
カイゼルは白面神官を見ていた。
その顔には、怒りだけではないものが浮かんでいた。
理解。
いや、理解しかけた者の痛み。
勇者は、王国の中心にいると思っていた。
民に称えられ、王に勲章を与えられ、聖剣を掲げる存在。
だが今、白面神官は言った。
勇者様の役目は、民の前で剣を掲げ、悪を討つこと。
それはつまり、王国が決めた悪を討つための象徴。
道具。
飾り。
カイゼルが必死に守ろうとしてきた勇者の物語が、白面神官の口から役割として説明された。
「カイゼル」
ベルクが静かに言った。
「お前も、使われていた」
「黙れ」
カイゼルは即座に返した。
だが、その声は先ほどより弱かった。
俺は封印輸送箱を見た。
もっと読まなければならない。
あの箱の中身を、カイゼルにも、王国兵にも、見せなければならない。
戦えない鑑定士にできることは、それしかない。
俺は黒曜花に手を置いた。
リュシアがすぐに気づく。
「レインさん、無理をしては」
「無理じゃない」
「嘘です」
「なら、必要な無理だ」
リュシアは何か言いかけた。
だが、俺の目を見て、静かに頷いた。
「墓守リュシアが許可します」
彼女は魔王の墓へ手を添えた。
「死者を汚す箱の中身を、暴いてください」
黒曜花の根が俺の足元から伸びる。
封印輸送箱へ向かって。
白面神官が気づき、杖を振った。
「止めろ!」
神官兵が札を投げる。
ミレイユが青い光で札を弾く。
「させないわよ!」
ベルクが大盾を構え、飛んでくる魔力弾を受け止める。
グランが境界鍬で地面を叩き、根の進路を守る。
セレナが名前を呼び続ける。
「レイン・オルディア!」
黒曜花の光が、俺の視界をつなぐ。
箱へ。
中身へ。
死者の残滓へ。
鑑定が深まる。
【対象:封印輸送箱】
【封印名:黒花根部汚染処置具】
【管理者:聖教会白面回収班、王立魔道研究院第三処理室】
【作成目的:黒曜花の死者記憶保持機能の破壊、魔力毒浄化反応の反転、魔王遺体の再回収】
【副次目的:古代循環碑の記録無効化、聖剣記憶開示現象の遮断】
俺は読み上げた。
王国兵にも聞こえるように。
「黒曜花の記憶保持機能を破壊する箱だ。魔力毒浄化を反転させ、魔王の遺体を再回収するために作られている」
王国軍がざわめく。
白面神官が叫ぶ。
「黙れ!」
俺は止まらない。
「副次目的は、古代循環碑の記録を無効化すること。聖剣記憶開示現象を遮断すること」
ミレイユが怒りで声を震わせた。
「つまり、真実を消すための箱じゃない」
白面神官は答えなかった。
俺はさらに深く読む。
箱の中の一つ目。
【内容物一:魔王由来血液サンプル】
【採取元:聖剣アステリオス刀身付着血】
【採取時期:勇者凱旋式前夜】
【管理名:凱旋聖血】
【用途:魔王遺体反応追跡、黒曜花根部への逆汚染】
凱旋聖血。
その言葉を見た瞬間、俺はカイゼルを見た。
彼の顔色が変わっていた。
「凱旋聖血」
俺は声に出した。
「魔王の血は、勇者凱旋式の前夜に聖剣から採取されている」
カイゼルの目が見開かれる。
「何だと」
「管理名は、凱旋聖血」
「知らない」
彼は白面神官を見る。
「俺は知らないぞ」
白面神官は淡々と言った。
「聖剣に付着した魔王の血は、聖教会の規定により処理されました」
「処理?」
「凱旋式において、聖剣を清める必要がありましたので」
「清める……?」
カイゼルの声がかすれた。
あの日。
王都の広場。
民衆の歓声。
国王から授けられた勲章。
白銀の鎧。
高く掲げられた聖剣。
魔王を討った勇者の凱旋。
その前夜に、聖剣から魔王の血が採取されていた。
勇者の象徴を清めるという名目で。
そして、その血は今、黒曜花を汚すための素材として箱に入っている。
カイゼルは聖剣の鞘に手を触れた。
その手が震えていた。
「俺の凱旋を……」
彼は低く呟いた。
「お前たちは、そんなものに使っていたのか」
白面神官は答える。
「魔王由来素材は、王国の資産です」
その言葉に、リュシアが息を呑んだ。
魔王由来素材。
父の血を、そう呼んだ。
カイゼルも、同じ言葉に反応した。
「素材……」
彼の視線が、リュシアへ向かう。
魔王の娘。
墓守。
父を父として弔おうとする少女。
その前で、魔王の血が素材と呼ばれた。
カイゼルは、何かを言おうとして言えなかった。
俺はさらに読む。
【内容物二:黒曜花焼却実験灰】
【採取元:王国西方臨時収容地】
【実験対象:黒曜花断片】
【処置:聖油焼却、白面神官管理】
【結果:完全焼却失敗】
【再利用用途:黒曜花根部に対する腐食誘導】
「黒曜花焼却実験灰。収容地で焼いた花の灰だ。完全には焼けず、その残骸を今度は根を腐らせるために使うつもりだ」
セレナが顔を歪めた。
「あの収容地で……」
サナの母ユーディアが、遠くで拳を握る。
あの実験の影響で、黒曜花は苦しんでいた。
リュシアも胸を押さえていた。
その灰が、今ここにある。
父の墓の花を殺すために。
俺は次を読む。
【内容物三:死骸兵核】
【由来:戦死者魔力結晶複合体】
【構成:王国兵十七名、魔族兵六名、未登録補充兵九名、処刑魔術師二名】
【用途:黒曜花の死者記憶機能を過負荷にし、記憶混濁を発生させる】
【備考:個別名は管理上不要として削除】
胸の奥が冷えた。
個別名は管理上不要として削除。
それが王国のやり方だ。
「死骸兵核」
俺は読み上げる。
「王国兵十七名、魔族兵六名、未登録補充兵九名、処刑魔術師二名の魔力結晶を混ぜたものだ。個別名は、管理上不要として削除」
王国兵たちの間で、低いざわめきが走った。
未登録補充兵九名。
ノアが顔を青ざめさせる。
「九名……」
彼は自分の認識布を握りしめた。
「俺も、ああなっていたかもしれない」
セレナが目を閉じた。
「名前を、削除……」
彼女の声は震えていた。
「人の名前を、管理上不要と」
ミレイユが杖を握りしめる。
「そんなものを作って、まだ王国の正義だって言うの?」
白面神官は言った。
「国を守るための犠牲だ」
ベルクが低く問う。
「誰の犠牲か分かって言っているのか」
「王国に命を捧げた者たちだ」
「捧げたのではない。奪われたのだ」
ベルクの声に、怒りが宿っていた。
最後の内容物。
俺は読みたくなかった。
だが、読む。
【内容物四:王都魔道炉汚染結晶】
【採取元:王城地下魔道炉第三循環区】
【状態:魔力毒高濃縮】
【由来:王都魔道炉の長期運用による毒性蓄積】
【用途:黒曜花根部へ注入し、浄化許容量を超過させる】
【危険:黒曜花の浄化反応反転、土地再毒化、水脈停止、死者記憶崩壊】
【注意:使用時、周辺生者への魔力毒暴露危険】
王都魔道炉汚染結晶。
王都の毒そのもの。
それを黒曜花へ注入する。
浄化できる限界を超えさせ、花を壊す。
花を壊すだけではない。
土地を再び毒で満たす。
水脈を止める。
死者の記憶を崩壊させる。
そして周辺の生者にも毒が及ぶ。
つまり、村人や避難民が死ぬ危険がある。
「白面神官」
俺は声を低くした。
「この箱を使えば、村人も死ぬぞ」
「反逆者の村だ」
「避難民もいる。子どももいる」
「魔王復活派に匿われた者たちだ」
「王国兵も巻き込まれる」
「必要な犠牲だ」
その言葉で、王国軍の兵士たちがまた動揺した。
必要な犠牲。
それは、自分たちにも向いている言葉だった。
カイゼルが白面神官へ歩み寄った。
「その箱を下げろ」
「勇者様」
「下げろと言った」
「できません」
白面神官は一歩も退かなかった。
「黒曜花を残せば、王国の記録が崩れます」
「王国の記録?」
「魔王討伐の正当性。勇者様の凱旋。聖剣の神聖性。王都魔道炉の安定神話。すべてが危うくなります」
カイゼルの顔が歪む。
「俺の凱旋も、そこに入るのか」
「当然です」
白面神官は言った。
「勇者カイゼルの凱旋は、王国が民を統合するために必要な物語です。魔王が世界を支えていたなどという異端記録が広まれば、凱旋は疑われる。聖剣の誤用などと騒がれれば、勇者様の名にも傷がつく」
「俺の名を守るために、これを使うのか」
「王国を守るためです」
「俺の名を、王国の記録として守るために?」
「同じことです」
カイゼルは黙った。
その沈黙は長かった。
王国軍も、黒花の村も、誰も動けなかった。
勇者カイゼル。
魔王を討った英雄。
王都に凱旋した男。
その物語を守るために、王国は魔王の血を採り、死者を混ぜ、毒を結晶化し、黒曜花を汚そうとしている。
そして、それを本人には知らせなかった。
勇者は中心ではなかった。
勇者もまた、王国の記録に使われる素材だった。
俺はカイゼルを見た。
「カイゼル」
彼は俺を見ない。
「お前の凱旋は、もう終わっている」
その言葉に、彼の肩がわずかに震えた。
「民が歓声を上げた日じゃない。聖剣が封印されたからでもない。今、白面神官が言った。お前の凱旋は、王国が民を統合するための物語だと」
「黙れ」
声は小さかった。
「お前は、その物語を守るために魔王を殺した。でも、その物語は最初から、お前だけのものじゃなかった。王国が作り、教会が飾り、研究院が素材を回収するためのものだった」
「黙れ」
「お前が守っていた英雄譚は、死者を素材にする国の蓋だった」
「黙れ!」
カイゼルが予備剣を振り上げる。
俺へ向かってくると思った。
だが、違った。
彼は白面神官へ向かって踏み込んだ。
白面神官も予想していなかったのだろう。
反応が遅れた。
カイゼルの剣が、封印輸送箱を縛る鉄鎖を斬った。
火花が散る。
鉄鎖が一本、二本と落ちる。
「勇者様!」
白面神官が叫ぶ。
「何をなさる!」
「黙れ」
カイゼルは箱を睨んだ。
「俺の凱旋を、俺の知らないところで素材置き場にするな」
その言葉に、戦場が凍った。
ミレイユが息を呑む。
ベルクが大盾をわずかに下げる。
セレナの目に、わずかな希望が浮かんだ。
だが、俺はすぐに違和感を覚えた。
カイゼルは箱を止めようとしている。
それは確かだ。
だが、彼の目はまだ俺たちを見ていない。
黒花の村を認めたわけではない。
魔王ゼルグレイスに謝ったわけでもない。
自分が間違えたと認めたわけでもない。
彼が怒っているのは、王国が自分を道具にしたことだ。
死者を素材にしたことではない。
少なくとも、まだ。
白面神官の声が冷たくなった。
「勇者様。箱に触れないでください」
「命令するな」
「中身は極めて不安定です」
「なら、なぜ戦場へ持ってきた」
「使うためです」
「俺が許さない」
「許可は不要です」
白面神官が手を上げた。
箱の四隅に貼られていた封印札が、一斉に赤黒く光る。
カイゼルが目を見開く。
箱の起動権限は、白面神官にある。
勇者にはない。
白面神官は静かに告げた。
「黒花根部汚染処置、開始」
封印輸送箱が開いた。
中から、黒い煙と白い灰が噴き出す。
魔王の血。
黒曜花の焼却灰。
死骸兵核。
王都魔道炉汚染結晶。
それらが混ざった、最悪の毒。
黒い液体のようなものが、地面へこぼれ落ちた。
黒曜花の根が悲鳴を上げたように震える。
リュシアが胸を押さえて膝をつく。
「リュシア!」
俺は叫んだ。
黒い毒が、地面の下の根へ向かって広がろうとしている。
白面神官の狙いは、箱を村へ投げ込むことではなかった。
地面から根に染み込ませること。
黒曜花は村境界の外にも根を伸ばしている。
その根を汚染すれば、内側の花へ届く。
「水!」
グランが叫ぶ。
「水を流せ!」
「駄目だ!」
俺は鑑定結果を見て叫んだ。
【黒花根部汚染液】
【状態:地表拡散中】
【水接触時:広域希釈、拡散範囲拡大】
【推奨:水使用不可】
水を使えば広がる。
井戸水でも間に合わない。
ミレイユが魔法で焼こうとする。
だが、すぐに俺は止めた。
「燃やすな! 聖油灰が反応する!」
【火炎接触時:毒性煙化】
【危険:避難民、村人、王国兵への吸引被害】
燃やせない。
水も使えない。
近づけば毒にやられる。
俺は必死に鑑定を深めた。
【対処候補:汚染液の死者成分分離】
【必要要素:死者名の特定、聖女の名呼び、墓守の拒絶、魔王血液への血縁呼応】
魔王血液への血縁呼応。
リュシアだ。
だが、彼女は膝をつき、苦しそうにしている。
父の血を汚染物として使われているせいで、墓守として、娘として、反応を受けているのだ。
「リュシア、無理をするな!」
俺が叫ぶと、彼女は顔を上げた。
顔色は悪い。
だが、その目は強かった。
「父の血を、毒にされたままにはしません」
彼女は立ち上がろうとする。
セレナが支える。
「私も」
セレナはリュシアの手を握った。
「名前を呼びます」
「魔王の血に、名前を戻す」
俺は理解した。
魔王由来血液サンプル。
凱旋聖血。
王国はそう名づけた。
なら、その名を剥がす。
素材名ではなく、死者の名へ戻す。
リュシアが黒い毒へ向かって叫んだ。
「それは凱旋聖血ではありません!」
彼女の声が震える。
「それは、私の父、ゼルグレイスの血です!」
黒い毒の動きが止まった。
セレナが続く。
「ゼルグレイス!」
黒曜花が激しく光る。
魔王の墓から、黒銀の灯が立ち上がる。
俺は毒の中に混ぜられた死骸兵核の名前を拾う。
頭が割れそうな痛み。
だが、拾う。
【死骸兵核・残存名】
【オルナ・ベック】
【ジム・ハーヴ】
【補充兵レト】
【魔族兵ガルム】
【処刑魔術師エリオ】
「オルナ・ベック!」
俺が叫ぶ。
セレナが即座に呼ぶ。
「オルナ・ベック!」
黒い毒の中から銀色の粒が浮かぶ。
「ジム・ハーヴ!」
「ジム・ハーヴ!」
「補充兵レト!」
ノアが震えながら叫んだ。
「レト! お前、同じ訓練場にいた……!」
毒の中から、小さな灯が浮く。
「魔族兵ガルム!」
リュシアが呼ぶ。
「あなたも、もう毒ではありません!」
「処刑魔術師エリオ!」
ミレイユが叫ぶ。
「魔術を、こんなものに使わせない!」
名前が呼ばれるたび、黒い毒が分離していく。
魔王の血。
死者結晶。
焼却灰。
汚染結晶。
混ぜられ、素材として一つの毒にされたものが、名前によって解かれていく。
白面神官が叫ぶ。
「やめろ! 混濁を解くな!」
ベルクが大盾で彼の前に立つ。
「もう十分だ」
白面神官が杖を振る。
ベルクの盾が受け止める。
その隙に、カイゼルが箱へ向かって踏み込んだ。
彼は予備剣で箱の内部の赤黒い結晶を斬ろうとする。
「待て!」
俺は叫んだ。
【王都魔道炉汚染結晶】
【衝撃破壊時:毒性拡散】
斬れば爆ぜる。
カイゼルの剣は、結晶の手前で止まった。
止めたのは俺の声ではない。
たぶん、彼自身の迷いだ。
聖剣のとき、彼は止められなかった。
今度は、止まった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬は大きかった。
「どうすればいい」
カイゼルが言った。
俺を見ずに。
それでも、確かに聞いた。
どうすればいい。
勇者が、死体鑑定士に問うた。
俺は汚染結晶を見る。
【王都魔道炉汚染結晶】
【状態:高濃縮毒】
【安定化条件:黒曜花根部による直接浄化不可】
【代替処置:古代循環碑接続、聖剣循環鍵機能による毒脈切断】
【注意:聖剣は一時封印中】
聖剣が必要。
だが、封印したばかりだ。
しかも、カイゼルの適合率は低い。
このまま使えば、また壊れる。
だが、古代循環碑と接続し、毒脈だけを切るなら。
聖剣本来の機能なら。
可能性はある。
「聖剣だ」
俺は言った。
カイゼルの顔が強張る。
「今さら、俺に聖剣を使えと?」
「魔王を殺すためじゃない」
俺は彼を見た。
「毒を切るために使え」
戦場が静まり返る。
カイゼルは、光を失った聖剣の柄に手を置いた。
その手は震えている。
魔王城の玉座の間。
あのとき、ゼルグレイスも同じことを言った。
切るのは私ではない。
ここに溜まった毒だ。
今度こそ、同じ選択が彼の前にある。
魔王を殺す剣として振るうのか。
毒を切る鍵として使うのか。
カイゼルは聖剣を抜いた。
刃は灰色のまま。
光は戻らない。
だが、黒曜花の灯が、刃の根元にかすかに映った。
ベルクの盾の破片が光る。
ミレイユが古代循環碑の写しを掲げる。
セレナが名前を呼ぶ。
「カイゼル」
リュシアが魔王の墓の前で言った。
「父を殺すためではなく、父が切ってほしかった毒を切ってください」
カイゼルは目を閉じた。
長い沈黙。
王国軍も、黒花の村も、誰も動かなかった。
そして、彼は聖剣を構えた。
標的は黒曜花ではない。
魔王の墓でもない。
黒い毒の中心にある、王都魔道炉汚染結晶。
カイゼルが低く言った。
「俺は……」
その声は震えていた。
「俺は、魔王を討った勇者だ」
ミレイユの顔が曇る。
ベルクが目を伏せる。
やはり駄目かと思った。
だが、次の言葉で、カイゼルの声が変わった。
「だが、この一振りだけは……魔王を殺すためじゃない」
聖剣が、かすかに光った。
白銀ではない。
黒銀を含んだ、淡い光。
「毒を切る」
カイゼルは聖剣を振り下ろした。
刃は汚染結晶を割らなかった。
中心を通る黒い筋だけを、正確に断った。
音はなかった。
ただ、空気が軽くなった。
黒い毒が広がるのをやめる。
分離した死者の灯が、黒曜花へ解放されていく。
王都魔道炉汚染結晶は、砕けず、灰色の石として地面に落ちた。
鑑定結果が浮かぶ。
【王都魔道炉汚染結晶】
【状態:毒脈切断】
【拡散危険:停止】
【黒曜花根部汚染:回避】
【聖剣アステリオス】
【一時封印:部分解除】
【本来機能:毒脈切断、限定発動】
【使用者適合率:一時上昇】
【条件:魔王殺害意思なし】
魔王殺害意思なし。
その条件で、聖剣は応えた。
カイゼルは聖剣を見つめていた。
彼の顔には、勝利の高揚はなかった。
凱旋のときのような誇りもない。
ただ、何かを失った男の顔だった。
同時に、初めて何かを見た男の顔でもあった。
白面神官が震える声で言った。
「勇者様……なぜ……」
カイゼルは答えなかった。
だが、王国軍の兵士たちは見ていた。
勇者が、黒花の村を焼くためではなく、白面神官の毒を止めるために聖剣を振るった瞬間を。
それは、王都の広場での凱旋とは違う。
歓声もない。
勲章もない。
王もいない。
白い花も撒かれない。
あるのは泥と血と、死者の名前と、黒い花だけ。
それでも、その一振りは、彼がこれまで振るったどの剣よりも聖剣らしかった。
カイゼルの凱旋は、終わった。
魔王を殺した勇者としての物語は、ここで終わった。
だが、彼がそのあと何になるのかは、まだ誰にも分からない。
カイゼル自身にも。
戦場に、短い静寂が落ちた。
その静寂を破ったのは、白面神官の怒号だった。
「勇者カイゼル、任務放棄!」
彼は仮面の奥で、憎悪に震えていた。
「聖教会権限により、勇者資格の再審査を要請する! 全軍、勇者様を一時保護せよ!」
保護。
また、その言葉。
今度は、カイゼルへ向けられた。
王国が都合の悪い者へ使う言葉。
セレナへ。
捕虜へ。
魔族の子どもへ。
そして今、勇者へ。
カイゼルはゆっくりと白面神官を見た。
その顔には、怒りよりも空虚な笑みが浮かんでいた。
「そうか」
彼は言った。
「俺も、保護対象か」
白面神官は答えない。
神官兵たちが、迷いながらもカイゼルへ向かって動き始める。
ベルクが大盾を構えた。
ミレイユが杖を掲げた。
セレナが息を吸う。
リュシアが黒曜花へ手を添える。
俺は痛む肩を押さえながら、聖剣を持つカイゼルを見た。
敵だった勇者。
魔王を殺した男。
黒花の村を潰そうとした男。
その男が今、王国からも切り捨てられようとしている。
凱旋は終わった。
次に始まるのは、勇者が自分の物語を失ったあとの戦いだった。




