第30話 死者たちの名前
王国軍本隊が、森を抜けて姿を現した。
白い旗が幾重にも並ぶ。
王国の青い旗。
聖教会の白い旗。
そして、勇者の紋章。
その下に、歩兵隊、神官兵隊、魔道砲部隊、聖油運搬隊が続いている。
朝霧は、軍靴に踏み荒らされて薄れていった。
廃村だったアシュベルの前に、王国そのものが立っていた。
黒花の村境界は、村を囲むように黒銀の光を放っている。
その内側には、井戸があり、共同畑があり、黒曜花が咲いている。
昨日の祭りで置かれた水杯も、まだ畑の端に残っていた。
死者のための杯。
生きて帰る者のための杯。
ユーディアの杯も、黒曜花の根に守られている。
サナは家の陰で、母の姿を見つめていた。
ユーディアは拘束具を外され、まだ足元がおぼつかない。それでも、捕虜たちの前に立とうとしていた。
王国兵たちは、それを見ていた。
捕虜だったはずの女が、盾にされていたはずの女が、いま自分の足で立っている。
その事実だけで、王国軍の前列には小さな動揺が広がっていた。
だが、後方の魔道砲は止まらない。
車輪台が並べられ、砲身が黒花の村へ向けられる。
聖油の樽が運び込まれ、神官兵たちが術式を唱え始める。
白面神官は本隊の中央に立ち、仮面越しに村を見ていた。
「反逆者どもへ告げる」
彼の声が、魔法で拡大されて響いた。
「黒花の村アシュベルは、王国法により魔王復活派拠点と認定された。直ちに武装を解除し、魔王の遺体、黒曜花、古代石碑、ならびに反逆者レイン・オルディアを引き渡せ」
村の空気が張り詰める。
俺は剣を握った。
だが、まだ抜かない。
ここで剣を抜けば、白面神官の望む形になる。
反逆者が武器を取った。
魔王復活派が王国へ敵対した。
そう記録される。
白面神官は続けた。
「聖女セレナ、魔導士ミレイユ、盾騎士ベルクについては、王国へ帰還するならば、審問の上で減刑を考慮する」
ミレイユが鼻で笑った。
「減刑ですって」
ベルクは答えなかった。
大盾を構えたまま、ただ前を見ている。
セレナは、少しだけ目を伏せた。
その顔には恐れがあった。
けれど、退く気配はなかった。
「捕虜を解放せよ!」
王国兵の隊列の後ろから、別の声が飛んだ。
「黒花の村に騙された者たちを保護せよ!」
保護。
またその言葉だ。
サナの肩が震える。
ノアが苦い顔をした。
「兵士たちは、本当にそう思っている人もいます」
「騙された者を保護する、と?」
「はい。王国では、魔族や混血者は自分で判断できない危険な存在だと教えられる。だから、拘束してでも王国の管理下に置くのが保護だと」
俺は王国軍を見た。
前列の兵士たちの中には、まだ迷っている者がいる。
聖剣の記憶を見た。
捕虜の名前を聞いた。
拘束具が支配具だったことを見た。
それでも、彼らは命令に従っている。
なぜなら、命令の方が簡単だからだ。
考えるより、従う方が楽だ。
俺にも、その気持ちは分からなくはなかった。
勇者パーティーにいたころ、俺も何度か黙った。
違和感を覚えても、言わなかった。
言っても無駄だと思った。
だが、死者は黙っていても消えない。
名前を呼ばれなければ、何度でも消される。
「レインさん」
リュシアが隣に立った。
「黒曜花が、揺れています」
「ああ」
黒曜花の花びらが、一斉に低く震えていた。
攻撃を受ける前の防衛反応ではない。
もっと深いところから、何かが浮かび上がろうとしている。
俺は黒曜花に触れた。
【対象:黒曜花群】
【状態:死者記憶反応、拡大】
【反応原因:王国軍による魔王遺体回収宣言、古代循環碑破壊予告、捕虜再拘束の意図】
【蓄積記憶:アシュベル、リーベル、ノーラ、ハーグ、王国西部枯死村、魔王戦死者、王国兵戦死者】
【開示条件:名呼び、墓守の許可、死体鑑定士の接触】
【警告:記憶開示により、王国軍全体に心理的動揺発生】
王国兵戦死者。
俺は息を呑んだ。
黒曜花は、魔族や村人だけを覚えているわけではない。
魔王城で死んだ王国兵。
王国が素材として扱った戦死者。
魔道炉へ送られた者。
名前を刻まれなかった補充兵。
それらの記憶も、地下の魔力循環を通じて黒曜花へ届いている。
死者に敵味方はない。
死んだあとでさえ、王国は彼らを分類しようとする。
英雄。
反逆者。
魔族。
素材。
だが、黒曜花は別の基準で覚えている。
名前があったか。
誰かに呼ばれたか。
弔われたか。
それだけだ。
「セレナ」
俺は振り返った。
「名前を呼べるか」
セレナは俺を見た。
少しだけ驚いた顔をしたあと、静かに頷いた。
「呼びます」
「王国兵の死者もいる」
その言葉に、彼女の表情が変わった。
「王国兵の……」
「ああ。黒曜花は覚えている。魔族だけじゃない。村人だけじゃない。王国が使い捨てた兵士たちも」
ノアが顔を上げた。
「補充兵も?」
「たぶん」
ノアの手が震えた。
彼は自分の認識布を握りしめる。
王国補充兵ノア・テイル。
置いていかれた少年。
もしアシュベルで拾われなければ、彼も名前のない未帰還兵になっていた。
ノアは小さく言った。
「呼んでください」
セレナが彼を見る。
「分かりました」
白面神官の声がさらに響く。
「最後通告である! 従わぬ場合、黒花の村全体を浄化対象とする!」
浄化対象。
その言葉に、黒曜花が強く揺れた。
リュシアが魔王の墓の前へ進む。
彼女は両手を重ね、深く息を吸った。
「墓守リュシアが許可します」
その声は、戦場に不思議なほど澄んで響いた。
「この村に眠る死者。名前を奪われた死者。敵と呼ばれ、素材と呼ばれ、記録から削られた死者たち。あなたたちの名を、今ここで呼びます」
黒曜花が開いた。
共同畑だけではない。
井戸のそば。
旧水路。
村境界。
昨日、新しく来た避難民たちが眠る家の床下。
そして、王国軍の足元の土までも、かすかに黒銀の光を帯びた。
白面神官が叫ぶ。
「何をしている! 止めろ!」
神官兵たちが浄化札を投げようとする。
ミレイユが杖を振った。
青い魔力灯が空中で弾け、札の軌道を照らす。
「ノア!」
「左から三枚、右から二枚!」
ノアの声に合わせて、グランが鉄片を投げる。
札は空中で弾かれ、地面に落ちた。
ベルクが大盾を構え、王国兵の前進を止める。
「まだ来るな」
彼の低い声に、前列の兵士が足を止めた。
セレナが黒曜花の前に立った。
白い法衣の裾が朝の風に揺れる。
彼女は聖印を握らなかった。
祈りの構えも取らなかった。
ただ、両手を胸の前で重ね、名前を呼び始めた。
「マリア・バルザ」
最初は、アシュベルの死者。
バルザが目を閉じる。
黒曜花の上に、銀色の灯が浮かんだ。
「グランの父、トルド」
グランの槌を握る手が震えた。
「井戸が枯れた年に亡くなった子、エル」
エナが涙を拭う。
「名前を残せなかったアシュベルの人たち」
小さな灯が、いくつも浮かぶ。
王国兵たちがざわついた。
彼らには、それが攻撃には見えなかったのだろう。
ただ、死者の名を呼んでいるだけだ。
それなのに、空気が変わっていく。
セレナは続けた。
「エイダ」
リーベルの死者。
「ロム」
エイラが涙をこらえる。
「カイさんの祖父」
カイがリーネの手を握る。
「ネル。八歳。逃げ遅れた人を助けに戻った子」
小さな銀色の灯が、黒曜花の上で強く光った。
王国兵の一人が、かすかに呟いた。
「八歳……」
その声は、槍の列の中に消えた。
だが、確かに聞こえた。
セレナは次に、昨日来た避難民たちの村の名を呼んだ。
「ノーラ村で亡くなった人たち」
老婆ハンナが膝をつく。
「ハーグの井戸で倒れた人たち」
片目を包帯で覆った混血者が、唇を噛む。
「名前を持っていたのに、王国記録に残らなかった人たち」
黒曜花の灯が増える。
それはもう、共同畑の中だけに収まらなかった。
村の上空へ。
境界線の外へ。
王国軍の前まで、銀色の灯が浮かんでいく。
白面神官が杖を振る。
「消せ! 幻だ!」
神官兵が浄化魔法を放つ。
だが、灯は消えなかった。
むしろ、浄化の光に触れた瞬間、灯の中から別の名が浮かび上がる。
セレナが息を呑む。
俺の視界に鑑定が出た。
【対象:王国神官兵の浄化魔法】
【接触対象:未弔い王国兵記憶】
【反応:名の開示】
【開示名:エミル・ラグ】
エミル・ラグ。
俺は覚えていた。
魔王城から棺を運び出す夜、森で見つけた王国斥候兵の遺骨。
追跡者に偽の足跡を見せる短剣を残していた男。
俺は声に出した。
「エミル・ラグ」
王国軍の前列で、一人の兵士が肩を震わせた。
「兄さん……?」
その声は小さかった。
だが、周囲の兵士が彼を見た。
彼は若い兵だった。
兜の下で目を見開き、銀色の灯を見ている。
灯の中に、かすかな人影が見えた。
王国斥候兵。
エミル・ラグ。
死者の姿ははっきりとは見えない。
だが、若い兵には分かったのだろう。
「兄さんは、魔王城で戦死したって……遺品も戻らなくて……」
白面神官が怒鳴る。
「惑わされるな!」
だが、兵士は槍を握りしめたまま動けない。
俺の視界に、さらに名前が流れる。
【未弔い王国兵記憶、開示】
【ダリオ・ベン】
【カスパル・ノイン】
【リック・ハウゼ】
【ミナ・オルセン】
【補充兵番号のみ登録、名未確認:多数】
俺は一つずつ読み上げた。
「ダリオ・ベン」
王国兵の列で、別の兵士が顔を上げる。
「カスパル・ノイン」
「リック・ハウゼ」
「ミナ・オルセン」
ミナという名を聞いたとき、神官兵の一人が杖を落とした。
「ミナ……?」
セレナがその兵士を見る。
「知っているのですか」
神官兵は震える声で言った。
「同期でした。魔力炉事故で死んだと……でも、殉職扱いで」
俺の鑑定が、勝手に深まった。
【対象:ミナ・オルセンの死者記憶】
【死因:王都魔道炉浄化区画での魔力毒暴露】
【公式記録:名誉殉職】
【実記録:防護不備、事故隠蔽、遺体魔力結晶化後に炉へ再投入】
俺は言葉を失った。
遺体魔力結晶化後に炉へ再投入。
死者を素材にする国。
王国は、魔族だけではなかった。
王国兵も、神官兵も、死んだあとで炉へ入れていた。
名前だけ名誉殉職にして。
身体は素材として。
俺はそれを読み上げるべきか迷った。
だが、死者は嘘をつかない。
そして、嘘をつかない死者の前で、俺が黙れば同じことになる。
「ミナ・オルセン」
俺は言った。
「王都魔道炉浄化区画で魔力毒により死亡。公式記録は名誉殉職。実際には、防護不備による事故。遺体は魔力結晶化され、炉へ再投入された」
王国軍の中に、明確な動揺が走った。
「嘘だ……」
「そんなことをするはずが」
「でも、魔道炉には殉職者の聖遺物が使われてるって……」
「聖遺物って、そういう意味なのか?」
兵士たちの声が広がる。
白面神官が怒鳴る。
「黙れ! 反逆者の死体鑑定を信じるな!」
俺は白面神官を見た。
「なら、反論しろ」
「何?」
「ミナ・オルセンの遺体はどこにある」
白面神官は答えなかった。
「殉職者の墓はどこだ。遺族に遺骨は返したのか」
沈黙。
その沈黙が答えだった。
神官兵の一人が膝をついた。
「ミナ……」
彼の手から杖が落ちる。
白面神官が顔を向ける。
「立て。任務中だ」
「彼女は、王国のために死んだのに」
「だからこそ聖遺物となった」
その言葉は、決定的だった。
神官兵の顔が凍る。
王国兵たちも聞いていた。
聖遺物。
名誉。
浄化。
保護。
それらの言葉の下に、死者の身体が使われている。
魔族だけではない。
敵だけではない。
味方の死者さえ、素材にされていた。
黒曜花が強く揺れる。
セレナは涙を流しながら、さらに名前を呼んだ。
「ミナ・オルセン」
銀色の灯が、神官兵の前へ降りる。
彼は震える手を伸ばした。
触れられない。
けれど、そこにいる。
「エミル・ラグ」
若い兵士の前にも、灯が降りる。
彼は槍を地面に落とした。
「兄さん……」
セレナの声は続く。
「ダリオ・ベン」
「カスパル・ノイン」
「リック・ハウゼ」
「補充兵番号だけで記録された人たち」
ノアが震えながら前に出た。
「補充兵にも、名前があります」
彼の声は大きくなかった。
だが、王国軍の中の若い兵たちには届いた。
「俺はノア・テイルです。補充兵番号ではありません。置いていかれた兵士です。でも、ここで名前を呼ばれました」
ノアは王国兵の列を見た。
「あなたたちも、死んだら番号だけになるかもしれない。名誉殉職と書かれて、遺体は炉に入れられるかもしれない。それでも、進むんですか」
前列の兵士たちが動けなくなる。
白面神官が叫ぶ。
「扇動だ! 補充兵の逃亡者に惑わされるな!」
そのとき、王国軍後方から低い号令が響いた。
「前列交代」
カイゼルだった。
彼は聖剣を握ったまま、冷たい目で前列の兵士たちを見ていた。
「動けない者は下がれ。神官兵、規律違反者を拘束。第二列、前へ」
迷った兵士たちが後ろへ下げられる。
代わりに、より重装備の兵士たちが前に出た。
彼らの兜には、耳を塞ぐ小さな魔道具がついていた。
声を遮断する道具だ。
白面神官が命じていたのだろう。
死者の名前を聞かせないために。
ミレイユが歯を食いしばる。
「耳を塞いで進む軍隊なんて、最低ね」
カイゼルは言った。
「王国軍、再前進。死者の幻に惑わされるな」
ベルクが叫ぶ。
「幻ではない!」
「ベルク。お前の声も、もう兵には届かない」
カイゼルの言う通り、第二列の兵士たちは表情を変えない。
耳を塞がれ、命令だけを魔道具で受け取っている。
名前を呼ぶ声は届かない。
死者の記憶も、視界の端に追いやられている。
王国は、死者の声を聞かせない軍を作っていた。
「なら、見せる」
ミレイユが低く言った。
彼女は杖を高く掲げる。
「耳を塞ぐなら、目を塞げないくらい照らしてやる!」
青い魔力が空へ広がった。
それは攻撃魔法ではない。
黒曜花の銀色の灯を、より鮮明に映し出す光。
死者たちの名前が、空に文字として浮かび上がる。
マリア。
エイダ。
ロム。
ネル。
エミル。
ミナ。
ダリオ。
カスパル。
リック。
そして、名未確認の死者たちのために、空白の灯が並ぶ。
耳を塞いでも、名前が見える。
王国兵たちの足がまた鈍る。
白面神官が怒号を上げる。
「魔道砲、準備!」
後方の魔道砲部隊が動いた。
砲身が黒花の村境界へ向けられる。
俺の視界に警告が浮かぶ。
【警告:魔道砲照準】
【弾種:圧縮魔力弾】
【効果:広域結界破壊】
【危険:村境界に甚大負荷】
魔道砲。
王都の魔道炉から供給される圧縮魔力を使う兵器。
撃たれれば、境界が耐えられるか分からない。
リュシアが黒曜花へ手を重ねる。
グランが境界鍬を構える。
ベルクが大盾を前に出す。
だが、魔道砲の威力は盾一枚で受け止めるものではない。
セレナが空に浮かぶ死者の名を見上げた。
「まだ、呼べていない名前があります」
「誰だ」
俺が尋ねると、彼女は王国軍の後方を見た。
「魔道砲を動かしている人たちにも、死者がいるはずです」
俺は魔道砲へ目を向けた。
壊れたものではない。
まだ稼働している兵器。
だが、その砲身の奥に使われている魔力結晶。
そこには、死者の痕跡があるかもしれない。
俺は黒曜花の根に手を当て、魔道砲へ鑑定を伸ばした。
距離がある。
だが、死者の名が空に満ちている今なら、届く気がした。
【対象:王国式魔道砲】
【状態:発射準備中】
【動力核:混合魔力結晶】
【結晶由来:魔石、戦死者魔力結晶、処刑魔術師骨片、魔族遺骸粉末】
【未弔い反応:多数】
やはり。
魔道砲そのものが、死者の素材でできている。
俺は叫んだ。
「その魔道砲の中にも死者がいる!」
王国軍後方までは届きにくい。
だが、ミレイユが俺の声を魔法で拡大した。
セレナが続ける。
「名前を!」
俺は鑑定を深めた。
死者の情報が、断片的に浮かぶ。
【開示名:ユリアン・ホフ】
【開示名:セド・マルク】
【開示名:イリナ・テス】
【開示名:魔族名不明、角片記録あり】
【開示名:処刑魔術師ラザル】
「ユリアン・ホフ!」
セレナが呼ぶ。
「セド・マルク!」
魔道砲の砲身が震える。
「イリナ・テス!」
砲身の奥で、青白い光が乱れた。
「名の分からない魔族の方!」
黒曜花が強く光る。
「処刑魔術師ラザル!」
その名前を呼んだ瞬間、魔道砲の一基が火花を噴いた。
砲手たちが慌てる。
「核が乱れています!」
「安定しません!」
「死者反応に干渉されています!」
白面神官が怒鳴る。
「強制発射しろ!」
「危険です!」
「撃て!」
砲手が震える手で発射機構へ触れる。
だが、その前にベルクが動いた。
大盾を構えたまま、境界線の外へ一歩踏み出す。
「ベルク!」
ミレイユが叫ぶ。
彼は振り返らなかった。
大盾の聖剣破片が光っている。
ベルクは王国軍に向かって叫んだ。
「その砲を撃つなら、まず私を撃て!」
王国兵たちが動きを止める。
反逆者扱いされていても、ベルクは元勇者パーティーの盾騎士だ。
魔王討伐戦で、何度も勇者を守った英雄の一人。
その彼が、魔道砲の前に立っている。
カイゼルの顔が険しくなる。
「ベルク、下がれ」
「下がりません」
「命令だ」
「今の私は、守るべきものの前に立っています」
ベルクの大盾が黒銀に光る。
聖剣破片が、空に浮かぶ死者の名と共鳴している。
「この盾は、勇者の物語を守るためだけにあるのではありません」
ベルクは言った。
「名前を消される者の前にも、立ちます」
魔道砲部隊が撃てない。
白面神官が苛立ちをあらわにする。
「撃て! 撃たぬ者は反逆だ!」
砲手の一人が叫んだ。
「撃てません! 盾騎士ベルク様が前に!」
「反逆者だ!」
「それでも、ベルク様です!」
王国軍の中で、初めて明確な命令拒否が起きた。
白面神官の仮面が、怒りで震えているように見えた。
カイゼルは聖剣を握りしめた。
その刃はまだ不安定に震えている。
死者の名。
聖剣の記憶。
裏切り者の聖女。
反逆騎士。
疑う魔導士。
置いていかれた元兵士。
それらが、王国軍の足を止めている。
だが、戦いは終わらない。
むしろ、白面神官の目には、決定的な焦りが宿っていた。
彼は懐から黒い札を取り出した。
白い札ではない。
黒い、骨のような札。
セレナが息を呑む。
「それは……禁式札」
白面神官は札を高く掲げた。
「死者の名を使うなら、こちらも死者を使うまで」
嫌な予感がした。
俺の鑑定が警告を出す。
【対象:禁式・死骸兵起動札】
【状態:発動準備】
【用途:魔道炉由来の戦死者魔力結晶を強制再起動し、一時的な死骸兵として使役】
【危険:高】
【冒涜度:極大】
死骸兵。
戦死者の魔力結晶を、強制的に兵として使う。
死者を素材にするだけではない。
死者をもう一度戦わせる気だ。
リュシアの顔が怒りで白くなる。
「死者を、まだ使うのですか」
白面神官は答えなかった。
黒い札が燃える。
魔道砲の動力核から、歪んだうめき声のようなものが響いた。
空に浮かぶ銀色の灯の一部が、無理やり引きずられるように揺れる。
セレナが叫ぶ。
「やめなさい!」
白面神官は言った。
「死者の名を呼ぶだけでは国は守れない。死者は王国のために再び働くのだ」
その言葉で、黒曜花が激しく震えた。
魔王の墓から、黒銀の光が立ち上がる。
俺の視界に表示が浮かぶ。
【黒曜花群:強制防衛反応】
【理由:死者冒涜行為、極大】
【発動候補:死者名簿展開】
【条件:死体鑑定士による名の確定、聖女による名呼び、墓守による弔い許可】
死者名簿展開。
俺は黒曜花に手を置いた。
膨大な名前が、視界に流れ込む。
アシュベル。
リーベル。
王国兵。
神官兵。
魔族。
処刑魔術師。
魔道炉で消費された者。
名もなく登録された補充兵。
名を奪われた子ども。
数が多すぎる。
頭が割れそうだった。
だが、ここで止めなければ、死者たちはまた使われる。
「セレナ!」
「はい!」
「読み切れないほどの名前が来る!」
「私が呼びます!」
「多すぎる!」
「それでも!」
セレナは黒曜花の前に立った。
リュシアも隣に立つ。
「墓守リュシアが許可します」
彼女は涙を浮かべながら、怒りに震える声で言った。
「死者を兵に戻さないために。死者を、死者として呼んでください」
俺は目を閉じた。
鑑定結果の濁流の中から、名前を拾う。
全部は無理だ。
だが、一つでも多く。
死者を兵器から名前へ戻すために。
「ユリアン・ホフ!」
セレナが呼ぶ。
「セド・マルク!」
ミレイユが空に名前を映す。
「イリナ・テス!」
ベルクの盾が光る。
「ラザル!」
黒曜花が開く。
「エミル・ラグ!」
若い王国兵が泣き崩れる。
「ミナ・オルセン!」
神官兵が杖を捨てる。
「ダリオ・ベン!」
「カスパル・ノイン!」
「リック・ハウゼ!」
名前が、朝の空を埋めていく。
白面神官の黒い札が、火花を散らし始めた。
死者を兵として縛ろうとする力と、名前を呼んで弔おうとする力がぶつかっている。
王国軍の足元で、魔力結晶が砕ける音がした。
銀色の灯が解放される。
死者たちは、兵士として立ち上がらなかった。
代わりに、空へ浮かんだ。
名前を呼ばれて。
ようやく、戦場から離れるように。
白面神官が叫ぶ。
「なぜだ! 死者は王国のものだ!」
その言葉に、カイゼルでさえ一瞬、彼を見た。
死者は王国のもの。
白面神官は、ついに本音を言った。
王国兵たちも聞いた。
耳を塞がれていた者でさえ、魔道具越しにその言葉が伝わった。
死者は王国のもの。
その一言が、王国軍の中に深い亀裂を入れた。
セレナが静かに言った。
「いいえ」
彼女の声は、激しい戦場の中でもはっきり届いた。
「死者は、誰の所有物でもありません」
黒曜花が輝く。
「死者には、名前があります」
空に浮かぶ無数の灯が、朝日に重なった。
死者たちの名前。
それは剣ではない。
砲でもない。
だが、王国軍の進軍を止めていた。
少なくとも、今この瞬間は。
俺は息を切らしながら、空を見上げた。
名前は、まだすべて呼び終えていない。
呼べなかった名前もある。
名を失ったままの死者もいる。
それでも、確かに始まった。
死者を素材から名前へ戻す戦いが。
黒花の村は、王国軍本隊の前で、武器ではなく名簿を広げた。
そしてその名簿は、王国のどんな布告よりも重く、白い旗の下に立つ兵士たちの心を揺らし始めていた。




