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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第3章 勇者の嘘

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第29話 王国軍、出兵

 聖剣の記憶は、朝の空に映し出されていた。


 魔王城の玉座の間。


 傷ついた魔王ゼルグレイス。


 聖剣アステリオスを構える勇者カイゼル。


 そして、魔王の声。


 ――切るのは私ではない。ここに溜まった毒だ。


 その声を聞いた瞬間、王国兵たちの隊列が乱れた。


「何だ、これは……」


「魔王が、命乞いしているのか?」


「いや、違う。聖剣が止まっている」


「勇者様の剣が……拒んでいる?」


 兵士たちは、ざわめきを抑えられなかった。


 彼らが教えられてきた物語は単純だった。


 魔王は悪。


 勇者は正義。


 聖剣は魔王を討つ剣。


 魔王討伐によって世界は救われた。


 だからこそ、彼らは白い旗を掲げ、黒花の村へ来た。


 魔王復活派の拠点を潰すために。


 黒曜花という災厄を焼くために。


 反逆者レイン・オルディアを捕らえるために。


 だが今、彼らの目の前で、聖剣自身が別の記憶を見せていた。


 魔王は、殺されるためではなく、毒を切ってもらうために勇者を待っていた。


 聖剣は、魔王の心臓を貫く直前で止まっていた。


 勇者は、その抵抗を押し切っていた。


「見るな!」


 白面神官の叫びが響いた。


「これは魔王の幻術だ! 黒花が見せる偽りの記憶だ! 兵よ、目を伏せろ!」


 だが、誰もすぐには目を伏せなかった。


 聖剣の光は白銀だった。


 黒曜花の黒銀の光と混じり合ってはいるが、記憶を開いている中心は、確かにカイゼルの手にある聖剣アステリオスだ。


 それを、王国兵たちも見ていた。


 見てしまった。


 カイゼルは聖剣を握ったまま、動けずにいた。


 白銀の刃は震えている。


 まるで、持ち主の手から逃れようとしているかのように。


 俺の視界には、鑑定結果が流れ続けていた。


【対象:聖剣アステリオス】


【記録開示中】


【開示内容:魔王ゼルグレイス心臓部貫通前後】


【本体状態:拒絶反応継続】


【使用者:カイゼル】


【使用者精神状態:激しい否認、怒り、恐怖】


【適合率:低下中】


 恐怖。


 鑑定結果に出たその言葉が、妙に胸に残った。


 カイゼルは怒っている。


 それは誰にでも分かる。


 だが、同時に恐れていた。


 魔王の真実を。


 聖剣の記憶を。


 自分が勇者ではなくなることを。


 カイゼルは、ようやく声を絞り出した。


「消えろ」


 空に映る記憶は消えない。


 玉座の間の中で、過去の魔王が告げている。


 ――お前は、何のために勇者になった。


「消えろ!」


 カイゼルは聖剣を振った。


 白銀の光が空の記憶を斬ろうとする。


 だが、聖剣の斬撃は途中で歪み、黒曜花の光に吸収された。


 記憶は揺らいだが、消えなかった。


 むしろ、より鮮明になった。


 幼いカイゼル。


 枯れた村。


 冷たくなっていく母の手。


 王国神官の声。


 魔王を殺せば、すべてが救われる。


 魔王を殺せば、お前は勇者になる。


 魔王を殺せば、母の死も報われる。


 その記憶まで、兵士たちの前に晒される。


 カイゼルの顔が歪んだ。


「やめろ……」


 それは、命令ではなかった。


 懇願に近かった。


 ミレイユが小さく息を呑む。


「カイゼル……」


 セレナも顔を青ざめさせていた。


 ベルクは盾を構えたまま、目を閉じない。


 彼は見ると決めたのだ。


 守ってきた勇者の痛みも、誤りも。


 すべて。


 白面神官が杖を掲げる。


「聖浄結界、展開! 幻術を断て!」


 神官兵たちが一斉に白い札を投げた。


 札は空中で光り、記憶の映像を包囲する。


 浄化の術式。


 黒曜花の光を遮断するためのものだろう。


 だが、札が聖剣の記憶に触れた瞬間、白い光が弾け飛んだ。


 俺の視界に表示が浮かぶ。


【対象:王国式聖浄札】


【干渉対象:聖剣記録】


【判定:不適合】


【理由:聖剣由来記録を魔王幻術として処理不能】


【結果:術式崩壊】


 聖剣由来記録を、魔王幻術として処理できない。


 当然だ。


 これは黒曜花だけが見せているものではない。


 聖剣が覚えていた記憶だ。


 王国の浄化札は、自国の聖剣を否定しきれなかった。


「馬鹿な……!」


 白面神官の声が初めて乱れた。


 王国兵の一人が、震える声で言った。


「では、本物なのか……?」


「黙れ!」


 白面神官がその兵士を杖で打った。


 兵士は地面に膝をつく。


 その光景を見て、王国軍の隊列がさらにざわついた。


 カイゼルは、まだ空の記憶を見ていた。


 過去の自分が、聖剣に魔力をねじ込み、魔王の心臓を貫く瞬間。


 聖剣が欠ける音。


 魔王の黒い血。


 床に芽吹こうとした黒い芽。


 そして、死の間際に魔王が俺を見た視線。


 すべてが、朝の空に晒されている。


 勇者の勝利ではなく。


 勇者の誤用として。


「違う」


 カイゼルは低く言った。


「違う、違う……違う!」


 彼は聖剣を強く握りしめた。


 白銀の刃から、歪んだ光が溢れる。


 ベルクが前へ出た。


「カイゼル。剣を下ろせ」


「命令するな」


「命令ではない。頼んでいる」


「俺に剣を下ろせと?」


「ああ」


 ベルクの声は静かだった。


「今の聖剣は、お前に応えていない」


「黙れ、ベルク」


「お前も見ただろう」


「黙れ!」


 カイゼルはベルクへ向けて剣を振ろうとした。


 だが、その瞬間、聖剣の刃がまた震えた。


 斬撃は出ない。


 いや、出せない。


 ベルクの大盾にある破片が強く光り、本体の動きを止めている。


【聖剣アステリオス】


【攻撃対象:盾騎士ベルク】


【本来機能との矛盾:発生】


【理由:守護意思との共鳴対象】


【斬撃出力:低下】


 聖剣は、ベルクを斬ることも拒んでいる。


 カイゼルの顔に、屈辱が浮かんだ。


「俺の剣だぞ……」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 聖剣へ。


 自分自身へ。


 あるいは、もう崩れ始めている勇者という物語へ。


「俺が勇者だ」


 カイゼルは呟いた。


「俺が魔王を討った。俺が世界を救った。俺が……」


 セレナが一歩前へ出た。


「カイゼル様」


「近づくな」


「あなたも、王国に利用されていたのかもしれません」


 その言葉に、カイゼルの目が鋭くなる。


「同情するな」


「同情ではありません」


「俺を哀れむな!」


 カイゼルの怒声が響く。


 セレナは怯まなかった。


「あなたが受けた儀式は、歪められていました。魔王を殺すことだけを刻み込まれていた。そこには、毒を切る役目も、世界楔との調律もなかった」


「だから何だ」


「あなたもまた、嘘を教えられた人です」


「黙れ」


「でも、最後に選んだのはあなたです」


 その言葉は、優しくなかった。


 セレナはもう、ただ癒やすだけの聖女ではない。


 名前を呼ぶ聖女になった彼女は、傷を隠さない。


 カイゼルの傷も、罪も、両方見ていた。


「魔王ゼルグレイスは、あなたに殺さない道を示した。聖剣も止まった。それでも、あなたは押し込んだ」


「黙れ!」


「その事実から、逃げないでください」


 カイゼルは歯を食いしばった。


 その手から、白銀の魔力が荒れ狂う。


 白面神官がその隙を逃さなかった。


「勇者様!」


 彼は大声で叫んだ。


「これは反逆者の精神攻撃です! 聖女セレナも、魔導士ミレイユも、盾騎士ベルクも、すでに汚染されています! このままでは兵の士気が崩れます!」


「……」


「ご決断を!」


 決断。


 その言葉が、カイゼルの中の何かを押した。


 彼はゆっくりと顔を上げる。


 その目は、もう迷いを見せないように硬く閉ざされていた。


 いや、迷いを押し殺した目だった。


「全軍」


 カイゼルの声が響く。


 王国兵たちが、反射的に背筋を伸ばした。


 空の記憶はまだ消えていない。


 だが、勇者の命令は兵士の体に染み込んでいる。


「黒花の村を、王国転覆を企む魔王復活派拠点と認定する」


 ミレイユが歯を食いしばる。


「まだ言うの……!」


 カイゼルは続けた。


「聖女セレナ、魔導士ミレイユ、盾騎士ベルクは、反逆思想および魔王由来汚染の疑いにより拘束対象とする」


 ベルクの表情がわずかに硬くなった。


 ミレイユは笑った。


 怒りに満ちた笑いだった。


「ついに私たちまで反逆者ね」


 セレナは目を閉じ、静かに息を吐いた。


 そして目を開ける。


 そこに、もう迷いはなかった。


 カイゼルは聖剣を掲げた。


「王国軍、出兵!」


 その号令が、朝霧を裂いた。


「黒花の村を包囲し、反逆者を捕縛せよ! 黒曜花を焼却し、魔王の遺体を回収する!」


 一瞬、王国兵たちは動かなかった。


 記憶を見たばかりの者たちの足が、命令に追いつかない。


 だが、白面神官がすぐに叫ぶ。


「進め! 勇者様の命令だ! 従わぬ者は反逆幇助と見なす!」


 その言葉で、兵士たちは動き出した。


 動かざるを得なかった。


 槍が構えられる。


 盾が並ぶ。


 神官兵が聖油の小瓶を取り出す。


 捕虜たちは前面に押し出されたままだ。


 ユーディアが歯を食いしばる。


 エイラがふらつきながらも、周囲の捕虜を支えた。


 サナの母を盾にしたまま、王国軍が前進する。


 俺の胸に、冷たい怒りが沈んだ。


「リュシア!」


「はい!」


 リュシアが魔王の墓に両手を重ねる。


「墓守リュシアが願います。黒曜花よ、死者を素材にする者から、生者を盾にする者から、この村を守ってください!」


 黒曜花が一斉に開いた。


 黒花の村境界が、これまでにないほど強く光る。


 地面に刻まれた境界鍬の線が黒銀に輝き、村を囲む。


 グランが境界鍬を握り、地面へ打ち込んだ。


「境界、踏ん張れ!」


 境界線が深く光る。


【対象:黒花の村境界】


【状態:強化】


【維持要素:村人の意思、黒花の祭り、名呼びの聖女、墓守の許可、境界鍬】


【効果:聖油侵入阻止、魔力毒遮断、非戦闘避難民保護】


【警告:大規模軍事圧力により負荷上昇】


 ノアが村の入口横に走る。


「右側、神官兵三人! 札を投げる前に止めて!」


 ミレイユが杖を振る。


 青い魔力灯が空中で弾け、神官兵たちの視界を奪った。


「私は燃やすためじゃなく、照らすために魔法を使うって言ったけど」


 彼女は苦く笑う。


「眩しくするくらいは許されるわよね!」


 神官兵たちが目を押さえ、聖油瓶を落とす。


 グランがすかさず鉄くさびを投げた。


 瓶の前に突き刺さり、転がる聖油を境界外へ弾く。


 聖油が地面に染みるが、黒花の村境界の内側には入らない。


 ベルクは大盾を構え、セレナの前に立った。


「セレナ、下がっていろ」


「いいえ」


「また前に出る気か」


「名前を呼ばなければならない人がいます」


 彼女は捕虜たちを見た。


 ユーディア。


 エイラ。


 そして、名を知らない者たち。


「レイン!」


 セレナが叫ぶ。


「捕虜の拘束具を鑑定できますか!」


「近づければ!」


「では、近づきます!」


「無茶を言うな!」


 俺が叫ぶと、ミレイユが横から言った。


「無茶じゃない方法なんて残ってる?」


「ないな!」


 俺は剣を抜いた。


 だが、目的は斬ることではない。


 拘束具を読むこと。


 人質を解放すること。


 それができれば、王国軍の盾は消える。


 カイゼルの命令も、白面神官の作戦も崩れる。


 俺はベルクの盾の後ろに身を寄せながら、少しずつ前へ進んだ。


 王国兵の槍が迫る。


 ベルクがそれを盾で受け止める。


 大盾に衝撃が走るたび、聖剣の破片が光った。


「ベルク隊長……!」


 王国兵の一人が、彼に気づいて声を震わせた。


「なぜ、そちらに!」


 ベルクは短く答えた。


「見たからだ」


「何をですか!」


「守るべきものを」


 その一言で、兵士の槍がわずかに止まった。


 だが、後ろから白面神官の声が飛ぶ。


「止まるな! 反逆騎士だ!」


 反逆騎士。


 その言葉が、ベルクの背中に突き刺さる。


 だが、彼は退かなかった。


 ミレイユが青い魔力で王国兵の足元を照らし、泥を浮き上がらせる。


 兵士たちが滑る。


 彼女は攻撃魔法をほとんど使っていない。


 殺さず、止めている。


 それでも十分だった。


 魔導士ミレイユは、戦場を燃やさず、照らし、乱し、進軍を遅らせていた。


 セレナはベルクの後ろから捕虜へ声を届けた。


「ユーディアさん!」


 ユーディアが顔を上げる。


「セレナ様!」


「サナさんたちは生きています! 村の中にいます!」


 ユーディアの目に涙が浮かぶ。


 だが、彼女はすぐに首を振った。


「見せないで!」


「分かっています!」


「この姿を、あの子に見せないで!」


「必ず!」


 白面神官が杖を振る。


「捕虜を黙らせろ!」


 神官兵がユーディアの拘束具へ魔力を流す。


 ユーディアが苦痛で膝をついた。


 サナが家の奥から飛び出そうとする。


 エナが必死に止めた。


「お母さん!」


「サナ、駄目!」


 その声を聞いて、俺は走った。


 ベルクの盾の横を抜ける。


 王国兵の槍が肩をかすめる。


 痛みはある。


 だが、止まらない。


 俺はユーディアの拘束具へ手を伸ばした。


 距離が足りない。


 そのとき、黒曜花の根が地面を走った。


 俺の足元から捕虜たちの方へ。


 根はユーディアの拘束具に直接触れず、その周囲の土を持ち上げる。


 拘束具の魔力が一瞬乱れた。


 俺はその隙に、手を伸ばす。


 指先が、白い拘束具に触れた。


 鑑定。


【対象:王国式魔力封じ拘束具】


【装着者:ユーディア】


【状態:稼働中】


【機能:魔力抑制、苦痛付与、逃走防止】


【弱点:内側固定爪、神官魔力依存】


【解除方法:固定爪三点同時破損、または神官魔力遮断】


【注意:強制破壊で装着者に損傷】


 固定爪三点同時破損。


 神官魔力遮断。


 俺一人では難しい。


「ミレイユ!」


「聞こえた!」


 彼女が即座に青い光を放つ。


 神官兵と拘束具を結ぶ魔力線が、淡く浮かび上がった。


「そこね!」


 ミレイユの魔法が、その線を照らす。


 切るのではない。


 可視化する。


 見えれば、対処できる。


 グランが叫んだ。


「固定爪ってのはどこだ!」


「三か所! 手首の内側、左右、下!」


「細けえな!」


 グランは走り込み、小さな工具を投げた。


 鍛冶場で使う細い金具。


 俺はそれを受け取り、拘束具の隙間へ差し込む。


 一本目。


 硬い。


 ユーディアが苦しそうに息をする。


「痛むか」


「大丈夫……!」


「嘘だな」


「母親は、少しなら嘘をつきます」


 こんな状況でそう言う彼女に、胸が詰まった。


 俺は歯を食いしばり、固定爪を外す。


 一つ。


 二つ。


 三つ目に手をかけた瞬間、白面神官が俺へ杖を向けた。


「死体鑑定士!」


 白い魔力弾が飛ぶ。


 ベルクの盾では間に合わない。


 ミレイユも別の兵を止めている。


 俺は避けられない。


 そのとき、セレナが前に出た。


 彼女は祈らなかった。


 ただ、名前を呼んだ。


「レイン!」


 その声と同時に、黒曜花が俺の足元で光った。


 小さな黒い花が一輪、瞬時に開く。


 白い魔力弾は花に触れ、勢いを失った。


 完全には消えない。


 俺の腕にかすり、焼けるような痛みが走る。


 だが、致命傷ではない。


 俺は三つ目の固定爪を外した。


 拘束具が開く。


 ユーディアの手首から白い輪が落ちた。


【対象:王国式魔力封じ拘束具】


【状態:解除】


【現在価値:支配具から証拠品へ変化】


【未来価値候補:王国の捕虜管理を暴く物証】


 ユーディアが自由になった。


 だが、まだ逃げられない。


 周囲には兵がいる。


 俺は彼女を支えながら叫んだ。


「拘束具は外せる! 魔力線を照らせ! 固定爪三つだ!」


 ノアがすぐに反応した。


「王国兵! その拘束具、強制破壊すると捕虜が傷つく! 解除するなら内側爪だ!」


 彼の声に、一部の兵士が動揺した。


 知っている者もいるのだろう。


 拘束具が、保護具などではなく支配具だと。


 セレナが捕虜たちの名前を呼ぶ。


 名前を知らない者には、尋ねる。


「あなたの名前は!」


「ラウ!」


「ラウさん、手を上げて!」


「ミーシャ!」


「ミーシャさん、こちらへ!」


 名前を呼ばれた捕虜たちが、恐怖の中で顔を上げる。


 黒曜花の根が彼らの足元へ伸びる。


 ミレイユの魔法が拘束具の魔力線を照らす。


 グランが工具を投げる。


 ノアが解除手順を叫ぶ。


 ベルクが盾で王国兵の進路を止める。


 リュシアが黒曜花に許可を与え続ける。


 黒花の村は、一つの生き物のように動いていた。


 王国軍は数で勝っている。


 武器もある。


 聖油もある。


 勇者もいる。


 だが、彼らは迷っていた。


 目の前で捕虜の名前が呼ばれ、拘束具が外されていく。


 そして空には、まだ聖剣の記憶が揺れている。


 勇者が魔王を殺した瞬間。


 聖剣が止まった瞬間。


 それを見ながら、兵士たちは自分の足元を疑い始めていた。


 カイゼルが叫ぶ。


「進め!」


 だが、進む足は鈍い。


「進めと言っている!」


 白面神官が神官兵に命じる。


「聖油を投げろ!」


 神官兵の一人が聖油瓶を掲げる。


 その手が震えていた。


 黒曜花の上に、人がいる。


 子どもがいる。


 元仲間がいる。


 名前を呼ばれている捕虜がいる。


 そこへ聖油を投げる。


 彼は一瞬、ためらった。


 白面神官が怒鳴る。


「投げろ!」


 神官兵は目を閉じ、聖油瓶を投げた。


 だが、狙いが逸れた。


 瓶は境界線の外側に落ち、割れる。


 白い油が地面へ広がる。


 黒花の村境界がそれを拒み、内側へ入れなかった。


 グランが大声で笑った。


「手元が狂ったな、神官様!」


 神官兵は顔を伏せた。


 白面神官は彼を睨みつける。


 そのとき、王国軍の後方から新たな角笛が鳴った。


 一度ではない。


 三度。


 重い音。


 進軍の号令とは違う。


 援軍到着の合図だ。


 ノアの顔が青ざめる。


「まずい」


「何だ」


「あれは本隊の合図です」


「本隊?」


「今ここにいるのは先遣隊です。王国軍本隊が来ます」


 森の向こう、白い旗のさらに奥から、土煙が上がっていた。


 馬。


 歩兵。


 魔道砲を積んだ車輪台。


 聖教会の大きな白旗。


 王国の正規軍が、本格的に動き出していた。


 俺の視界に、黒曜花の鑑定結果が浮かぶ。


【警告:王国軍本隊接近】


【規模:大】


【構成:歩兵隊、神官兵隊、魔道砲部隊、聖油運搬隊】


【目的:黒花の村包囲、古代循環碑破壊、魔王遺体回収、反逆者公開拘束】


【到達予測:短時間】


 王国軍、出兵。


 先遣隊の小競り合いではない。


 村を潰すための本隊が来た。


 白面神官が勝ち誇ったように言う。


「見たか、反逆者ども。王国は本気だ」


 カイゼルは聖剣を握り直した。


 空の記憶は少しずつ薄れていく。


 彼はそれを見上げ、低く言った。


「この幻を消す。黒花の村ごと」


 ベルクが盾を構える。


「来るぞ」


 ミレイユが杖を掲げる。


「本当に、派手な祭りの翌朝ね」


 セレナはユーディアを支えながら、村の方を見た。


 サナが家の陰から母の姿を見ていた。


 泣きながら、それでも叫ばないよう口を押さえている。


 ユーディアも娘に気づいた。


 彼女は遠くから、ただ頷いた。


 生きている。


 まだ死者ではない。


 その合図だった。


 リュシアが魔王の墓の前に立つ。


「父の墓は、渡しません」


 グランが境界鍬を地面へ打ち込む。


「村も渡さねえ」


 ノアが震える手で杖を握る。


「俺は、もう置いていかれる側じゃない」


 ミレイユが笑う。


「私は照らす。王国が見たくないものを全部」


 ベルクが大盾を前に出す。


「私は止める。勇者でも、王国でも、守るべきものを踏みにじるなら」


 セレナが言う。


「私は名前を呼びます。消されそうになるたびに」


 俺は剣を握り直した。


 斬るためではない。


 読むために。


 死者の証言を。


 聖剣の記憶を。


 王国が消そうとする真実を。


 黒曜花が、村全体を包むように咲いていた。


 王国軍本隊が近づいてくる。


 白い旗が増える。


 魔道砲の車輪が軋む。


 聖油の樽が朝日に鈍く光る。


 廃村だったアシュベルは、黒花の村として初めて、王国そのものと向き合おうとしていた。


 遠くで、王都の鐘が鳴っているような気がした。


 枯れ始めた都が、咲き始めた廃村を潰すために兵を出す。


 それが、この国の答えだった。


 ならば、こちらも答えるしかない。


 ここは魔王復活派の拠点ではない。


 死者を素材にしない村。


 名前を聞く村。


 水を分ける村。


 黒い花が咲く、弔いと再生の村。


 王国軍が出兵した朝、黒花の村は一歩も退かなかった。


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