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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第3章 勇者の嘘

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第28話 裏切り者の聖女

 夜明け前、黒花の村は静かだった。


 祭りの名残は、まだ村のあちこちに残っている。


 井戸のそばには、空になった水杯が並んでいた。


 共同畑の周りには、子どもたちが置いた小石が円を描いている。


 黒曜花の前には、死者のための杯と、生きて帰る者のための杯が置かれていた。


 ユーディアの杯。


 まだ檻の中にいるサナの母のための水。


 それを守るように、黒曜花の根が細く絡んでいる。


 夜の間に新しく来た避難民たちは、エナの家や空き家に身を寄せて眠っていた。


 ノーラ村のハンナ。


 角を隠した少年ルク。


 片目を包帯で覆った混血者。


 名前を聞かれ、水を受け取った者たち。


 その全員が、まだこの村を完全に信じたわけではない。


 それでも、ここで夜を越えた。


 それだけで、黒花の村はまた少し村になった。


 俺は共同畑の端に立ち、森の方を見ていた。


 朝霧の向こうに、白い旗が見える。


 王国軍だ。


 聖教会の白い旗。


 王国の青い旗。


 そして、その中央に、勇者の紋章が掲げられている。


 勇者カイゼルが来た。


 黒曜花が、静かに揺れる。


 恐れているのではない。


 迎え撃とうとしているのでもない。


 ただ、来るべきものが来たと知っているような揺れだった。


「来ましたね」


 隣でセレナが言った。


 白い法衣を着ている。


 だが、それは王都にいたころの汚れ一つない聖女の衣ではない。


 森を歩き、収容地で血に触れ、黒花の村で水を分けた法衣だ。


 裾には泥がつき、袖には洗っても落ちきらない血の跡が残っている。


 それでも、彼女はその服を脱がなかった。


「着替えなくてよかったのか」


 俺が尋ねると、セレナは小さく笑った。


「これが今の私です」


「王国の聖女らしくはないな」


「ええ」


 彼女は静かに頷いた。


「でも、昨日まで名前を呼んできた人たちの前で、汚れていない服を着る方が、嘘になる気がしました」


 嘘になる。


 その言葉は、今のセレナらしかった。


 祈れなくなった聖女。


 けれど、名前を呼ぶことを覚えた聖女。


 彼女はもう、王国の求める聖女ではいられないのだろう。


 村の入口では、ベルクが大盾を構えていた。


 大盾には、聖剣アステリオスの破片が光っている。


 その横にミレイユが立ち、杖の先に淡い青い光を灯していた。


 グランは境界鍬と槌を持ち、ノアは王国式の警戒札を見分けるため、地面に目印をつけている。


 リュシアは黒曜花の前に膝をつき、父の墓に手を添えていた。


 サナは弟妹たちをエナの家の奥へ連れていこうとしていたが、何度も村の入口を振り返っていた。


「サナ」


 セレナが声をかける。


 サナは足を止めた。


「お母様の杯は、私が見ています」


「……本当?」


「はい」


「こぼさないで」


「こぼしません」


「お母さんが帰ってきたら、ちゃんと渡すから」


「はい」


 セレナは深く頷いた。


 サナはそれでも不安そうだったが、ミミの手を引いて家の中へ入っていった。


 俺はその背中を見送る。


 子どもを家の奥へ隠さなければならない朝。


 それを作ったのは、魔王ではない。


 黒曜花でもない。


 王国だ。


「レイン」


 ベルクが低く呼んだ。


 森の方で動きがあった。


 王国軍が村の入口から少し離れた場所に隊列を組む。


 先頭に立つのは、勇者カイゼル。


 白銀の鎧。


 腰には聖剣アステリオス。


 その背後に、白面神官。


 神官兵。


 王国兵。


 そして捕虜が数人。


 俺は息を呑んだ。


 ユーディアがいた。


 サナの母。


 手首には白い拘束具。


 疲れ切っているが、立っている。


 その隣には、リーベル村長エイラもいた。


 他にも魔族や混血者が数人、前面に立たされている。


 盾だ。


 人質だ。


 白面神官は、やはり捕虜を前に出してきた。


 セレナの顔が青ざめる。


「ユーディアさん……」


 リュシアが黒曜花の前で立ち上がった。


 サナにはまだ見せられない。


 俺は小声でエナに伝え、子どもたちを家の奥へ下げてもらった。


 ユーディアは遠くからこちらを見た。


 村の入口に掲げられた黒い花の布。


 黒曜花の畑。


 そして、家の方に隠された子どもたち。


 彼女はサナの姿を探したのだろう。


 だが、見えないと分かると、かすかに安堵した顔をした。


 自分が盾にされている姿を、娘に見せずに済んだと思ったのかもしれない。


 カイゼルが一歩前に出た。


 朝霧の中でも、その姿はよく見えた。


 王都の広場なら、民衆が歓声を上げただろう。


 魔王を討った勇者。


 白銀の英雄。


 世界を救った男。


 だが今、彼の前にあるのは、黒い花の咲く廃村だった。


 カイゼルは村の入口を見つめた。


 黒い花の布。


 その下に立つ俺たち。


 彼の目が、ベルクで止まる。


 次にミレイユ。


 そして、セレナ。


 カイゼルの表情がわずかに硬くなった。


「セレナ」


 彼の声は、よく通った。


「戻れ」


 第一声がそれだった。


 セレナは黙っていた。


 カイゼルは続ける。


「お前は王国の聖女だ。反逆者の村にいるべきではない」


 白面神官が一歩前に出る。


「聖女セレナ。王都帰還命令に従いなさい。あなたには、魔王由来汚染の疑いがあります。今なら浄化審問の前に、自己申告による保護措置が可能です」


 保護措置。


 その言葉に、セレナの目が冷たくなった。


 収容地で聞いた言葉だ。


 保護対象。


 管理対象。


 浄化済区域。


 名前を奪う言葉。


 セレナは一歩前へ出た。


 俺が止めようとしたが、彼女は小さく首を振った。


「セレナ」


 ミレイユが呼ぶ。


「分かっています」


 セレナは境界線の内側に立ったまま、カイゼルを見る。


「私は戻りません」


 短い言葉だった。


 だが、その場にいた全員が息を呑んだ。


 王国兵たちがざわめく。


 白面神官の仮面が、わずかにこちらへ向く。


 カイゼルの目が細くなった。


「何だと」


「私は、王都へは戻りません」


「お前は自分が何を言っているか分かっているのか」


「はい」


「レインに惑わされたのか」


「いいえ」


「魔王の花に汚染されたのか」


「いいえ」


「なら、なぜだ」


 セレナは少しだけ息を吸った。


 そして、王国軍の前で、はっきりと言った。


「私は、見たからです」


 朝の光が、彼女の白い法衣を照らす。


 泥と血の跡が、かえってその言葉を強くしていた。


「アシュベルの井戸が戻ったのを見ました。黒曜花が病人の呼吸を楽にしているのを見ました。リーベル村の焼け跡を見ました。収容地の檻を見ました。水の足りない子どもを見ました。拘束具で治療を妨げられている人たちを見ました」


 白面神官が声を上げる。


「聖女セレナ。その発言は王国記録と矛盾します」


「王国記録が、現実と矛盾しているのです」


 静かな反論だった。


 だが、それは白面神官の言葉を真正面から断ち切った。


 王国兵の間にざわめきが走る。


 セレナは続けた。


「リーベル村は、魔族の村ではありませんでした。ただ、逃げてきた子どもを追い出せなかった村です」


 捕虜として前に立たされたエイラが、わずかに顔を上げた。


「私は、その村の死者の名前を聞きました」


 セレナは一人ずつ呼んだ。


「エイダ」


 黒曜花が揺れる。


「ロム」


 リーベルの避難民たちが息を呑む。


「カイさんの祖父」


 カイが家の陰で、リーネに支えられながら泣いていた。


「ネル。八歳。逃げ遅れた人を助けに戻った子」


 王国兵の一部が、目を逸らした。


 白面神官が低く言う。


「死者の名を利用して民心を惑わすな」


「利用ではありません」


 セレナは答えた。


「呼んでいるのです」


 彼女は次に、捕虜の方を見た。


「ユーディアさん」


 サナの母の肩が震える。


「エイラさん」


 リーベル村長が、涙をこらえるように顎を上げる。


「名前があります。あの人たちは、魔族残党でも、管理対象でも、作戦資材でもありません」


 作戦資材。


 その言葉に、神官兵の一人がわずかに顔を伏せた。


 カイゼルは、セレナを見たまま動かない。


「セレナ」


 彼の声は低かった。


「お前は、王国の前で何をしている」


「証言しています」


「誰のために」


「名前を消された人たちのために」


「お前は聖女だろう」


「はい」


「聖女は王国のために祈る」


 その言葉に、セレナの表情が一瞬だけ痛んだ。


 かつての彼女なら、そうだと答えたかもしれない。


 王国の聖女。


 勇者パーティーの癒やし手。


 民のために祈る者。


 だが、彼女はもう王国が選んだ民だけに祈ることはできない。


「私は、祈れなくなりました」


 セレナは言った。


 王国兵がまたざわめく。


 白面神官が鋭く言う。


「やはり信仰汚染です」


「違います」


 セレナは首を振る。


「王国が望む祈りを、そのまま唱えられなくなっただけです。浄化という言葉で村を焼き、保護という言葉で人を檻に入れ、聖なる名で死者を消す祈りを、私はもう唱えられません」


 その声は震えていた。


 だが、折れてはいなかった。


「でも、名前を呼ぶことはできます」


 セレナは井戸のそばに置かれた杯を指した。


「水を分けることはできます。傷を見ることはできます。死者の名を覚えることはできます」


 彼女はカイゼルを見た。


「それが裏切りだと言うなら、私は王国の望む聖女を裏切ります」


 風が止まったように感じた。


 白面神官が、ゆっくりと片手を上げる。


「記録せよ」


 神官兵の一人が羊皮紙を広げる。


「聖女セレナ、自ら王国聖女の職責を否定。反逆者および魔王由来汚染物への加担を認める発言あり」


「違う!」


 ミレイユが叫んだ。


「今のをどう聞いたらそうなるの!」


「魔導士ミレイユ」


 白面神官は彼女へ顔を向けた。


「あなたにも信仰汚染および反逆思想への接触疑いがあります」


「便利ね、汚染って言葉は」


 ミレイユの杖先に青い魔力が集まる。


 ベルクが一歩前に出た。


「ミレイユ、まだだ」


「分かってるわ」


 彼女は魔力を抑えた。


 だが、目は怒りで燃えていた。


 カイゼルはミレイユを一瞥し、ベルクへ視線を移す。


「ベルク。お前も、そこに立つのか」


 ベルクは大盾を持ち上げた。


「私は、守るべきものの前に立っています」


「それが反逆者の村だと?」


「私は、まだこの村を反逆者とは見なしていません」


「王国の布告を否定するのか」


「見たものと違います」


 ベルクの声は静かだった。


「ここには、魔王復活の儀式はありません。井戸と畑と、避難民と、死者の名があります」


 カイゼルの目が冷える。


「お前まで、レインの言葉に」


「私は自分の目で見ました」


 ベルクは言った。


「聖剣の破片も」


 カイゼルの表情が、そこで初めて明確に変わった。


「何?」


 ベルクは大盾を少し傾けた。


 そこに食い込んだ、聖剣アステリオスの破片が朝日に光る。


 カイゼルの視線が釘づけになる。


「それは……」


「魔王討伐の瞬間に欠けたものです」


「聖剣は欠けない」


「欠けました」


「あり得ない」


「それが、私の盾に残っています」


 カイゼルの手が聖剣の柄に伸びる。


 怒り。


 動揺。


 拒絶。


 そのすべてが、彼の顔に浮かんでいた。


 俺は一歩前へ出た。


「カイゼル」


「黙れ、レイン」


 即座に返ってきた。


 その声には、かつて勇者パーティーで何度も聞いた苛立ちがあった。


「死体しか見えないお前が、また何かを語るのか」


「ああ」


「聞く価値はない」


「聖剣は聞くかもしれない」


 カイゼルの目が細くなる。


「何を言っている」


「聖剣アステリオスは、魔王を殺す剣じゃない」


 王国兵たちがざわめく。


 白面神官が鋭く叫ぶ。


「反逆者の妄言だ!」


 だが、俺は止まらなかった。


「聖剣は循環鍵だ。魔王が抱えた毒を切り、水脈を開くためのものだった」


「黙れ」


「魔王ゼルグレイスは、お前に殺されるために待っていたんじゃない。毒を切ってもらうために待っていた」


「黙れと言っている!」


 カイゼルが聖剣を抜いた。


 白銀の刃が朝日に光る。


 その瞬間、黒曜花が一斉に揺れた。


 ベルクの盾に食い込んだ破片が、強く光る。


 俺の視界に鑑定結果が浮かぶ。


【対象:聖剣アステリオス本体】


【状態:抜剣】


【本体機能:低下】


【破片共鳴:発生】


【使用者:勇者カイゼル】


【適合状態:不安定】


【警告:使用者が真実拒絶状態】


【鑑定可能範囲:拡大中】


 来た。


 聖剣本体の鑑定が可能になっている。


 だが、距離がある。


 もっと近づかなければ、深くは読めない。


 カイゼルは剣を構えた。


「セレナを返せ。捕虜を返せ。魔王の花を焼却する。レイン、お前は王都へ連行する」


「断る」


「お前に拒否権はない」


「この村にはある」


 俺は答えた。


「ここは黒花の村だ。死者を素材にしない。生きている人を盾にしない。名前を奪わない」


「その花が王都を枯らしている」


「違う。王都を枯らしているのは魔道炉の逆流毒だ」


「王国の公式発表を否定するのか」


「死者と聖剣と石碑が、そう言っている」


「また死者か」


 カイゼルの声に、嫌悪が混じる。


「お前はいつもそうだ。生きている者の勝利より、死んだ者の言い分ばかり見ている」


「死者の言い分を無視した結果が、今の王都だ」


「王都を語るな!」


 カイゼルが一歩踏み出す。


 聖剣の光が強くなる。


 黒曜花の境界が反応した。


 だが、カイゼルは止まらない。


 境界線に聖剣が触れた瞬間、黒銀の光と白銀の光が激しくぶつかった。


 境界が軋む。


 リュシアが黒曜花へ手を重ねる。


「父の花を、守って」


 セレナも前に出る。


「待ってください、カイゼル様!」


「お前は下がれ」


「いいえ」


 セレナは境界線の前に立った。


 聖剣の光と黒曜花の光の間。


 その場所に。


「どけ、セレナ」


「どきません」


「俺はお前を傷つけたくない」


「なら、剣を下ろしてください」


「俺はお前を救いに来た」


「私は救助対象ではありません」


「セレナ!」


「私はここに、自分の意思でいます」


 その言葉に、カイゼルの顔が歪んだ。


「違う」


「違いません」


「お前は騙されている」


「私は見ました」


「見せられたものだ」


「違います」


「違わない!」


 カイゼルの声が荒くなる。


「お前は聖女だ。俺の仲間だ。勇者パーティーの癒やし手だ。こんな村にいるべきじゃない!」


 セレナは静かに彼を見た。


「私は、あなたの物語の中の聖女ではありません」


 カイゼルが動きを止めた。


 セレナは続ける。


「私は、王国のためだけに祈る人形ではありません。あなたの勝利を清めるための飾りでもありません」


「セレナ……」


「私は、傷を見ます。名前を聞きます。死者を弔います。生きている人を檻に入れる命令には従いません」


 白面神官が叫ぶ。


「聖女セレナ、反逆宣言と記録せよ!」


 記録係が震える手で筆を走らせる。


 その音が、妙に大きく聞こえた。


 反逆宣言。


 裏切り者の聖女。


 そう書かれるのだろう。


 王国の記録に。


 セレナは、その言葉を聞いても動かなかった。


「裏切り者と呼ばれても構いません」


 彼女は言った。


「ただし、私は人を裏切りません」


 その声は、黒花の村全体に届いた。


「私が裏切るのは、人の名前を消す王国の記録です。死者を素材にする魔道炉です。保護という名で子どもを檻に入れる教会です。魔王を悪にしなければ成り立たない英雄譚です」


 ミレイユが息を呑んだ。


 ベルクが大盾を構え直す。


 リュシアが涙を浮かべながらセレナを見る。


 セレナは最後に、カイゼルへ告げた。


「カイゼル様。私は、あなたを裏切ったのではありません」


 彼女の声は痛みに満ちていた。


「あなたが見捨てた人たちの側に、立っただけです」


 その瞬間、カイゼルの表情から何かが消えた。


 怒りでも悲しみでもない。


 もっと冷たいもの。


 彼は聖剣を握り直す。


「そうか」


 短い声だった。


「なら、そこにいるお前も、俺の前に立つ敵だ」


 セレナの顔がかすかに揺れた。


 それでも、下がらなかった。


 カイゼルが剣を振り上げる。


 ベルクが動いた。


 大盾を掲げ、セレナの前に立つ。


 聖剣の光が放たれた。


 白銀の斬撃が境界を越え、セレナへ向かう。


 ベルクの大盾がそれを受け止めた。


 凄まじい衝撃。


 大地が揺れる。


 盾に食い込んだ聖剣の破片が、強烈な光を放った。


 聖剣本体と破片が共鳴する。


 俺の視界に、鑑定結果が一気に流れ込んだ。


【聖剣アステリオス】


【攻撃対象:聖女セレナ】


【本来機能との矛盾:発生】


【循環鍵は、癒やし手への斬撃を拒絶】


【使用者命令:裏切り者の排除】


【本体拒絶反応:上昇】


【適合率:急低下】


 聖剣が拒んでいる。


 セレナへの斬撃を。


 癒やし手への攻撃を。


 それでも、カイゼルは力を込めていた。


 ベルクが歯を食いしばる。


「カイゼル!」


 彼は盾越しに叫んだ。


「聖剣が拒んでいる!」


「黙れ!」


「剣を見ろ!」


「黙れ!」


 カイゼルはさらに魔力を流し込む。


 白銀の光が歪む。


 黒曜花がざわめく。


 ミレイユが青い光を放ち、衝撃を横へ逸らした。


 グランが境界鍬で地面を叩き、黒花の村境界を支える。


 リュシアが黒曜花へ叫ぶ。


「父の花よ、名前を守って!」


 セレナはベルクの後ろで、震えながらも立っていた。


 そして、彼女は祈らなかった。


 代わりに、名前を呼んだ。


「ベルク!」


 盾騎士の体が光る。


「ミレイユ!」


 魔導士の青い光が強まる。


「リュシア!」


 黒曜花がさらに開く。


「グラン!」


 境界鍬が土に深く食い込む。


「ノア!」


 ノアが王国兵の動きを読み、叫ぶ。


「右側、神官兵が札を投げる!」


 俺はそれに反応し、飛んできた白い札を剣で弾いた。


 札が地面に落ちる。


 鑑定。


【対象:王国式拘束札】


【状態:発動前破損】


【目的:聖女セレナ拘束】


【現在価値:無効化済み】


 セレナの声は続く。


「サナ!」


 家の奥で、サナが顔を上げる。


「ユーディア!」


 捕虜として立たされていた母が、涙をこらえる。


「エイラ!」


 リーベル村長が拘束具の中で背筋を伸ばす。


「ネル!」


 黒曜花の上に、小さな銀色の灯が浮かぶ。


「ゼルグレイス!」


 魔王の墓から、黒銀の光が立ち上がった。


 セレナの声は、祈りではなかった。


 聖教会の形式も、王国の祝詞もない。


 ただ名前を呼ぶ声。


 だが、その声に応えるように、黒曜花の光が広がっていく。


 俺の視界に鑑定結果が浮かぶ。


【対象:聖女セレナ】


【状態:王国聖女資格、剥奪対象】


【現在価値:名前を呼ぶ聖女】


【効果:黒花の村共同体意思強化】


【効果:死者記憶安定】


【効果:生者帰属確認】


【未来価値候補:王国記録に抗う証人】


 名前を呼ぶ聖女。


 王国が裏切り者と呼ぶなら、こちらはそう呼べばいい。


 セレナは、もう王国の聖女ではないのかもしれない。


 だが、聖女でなくなったわけではない。


 むしろ今、初めて彼女は自分の祈りを見つけたのだ。


 カイゼルの斬撃が、ベルクの盾で弾かれた。


 聖剣が大きく震える。


 カイゼルは数歩後退した。


 その顔には、怒りと困惑が入り混じっている。


「なぜだ……」


 彼は聖剣を見る。


「なぜ、俺の剣が」


 俺は前へ出た。


 この瞬間しかない。


 聖剣本体が拒絶反応を示し、破片と共鳴している。


 鑑定の深度が上がっている。


 俺は境界線のぎりぎりまで踏み出し、聖剣へ手を伸ばした。


 届かない。


 だが、黒曜花の根が俺の足元から伸びた。


 ベルクの盾の破片。


 聖剣本体。


 黒曜花。


 古代循環碑。


 それらが一瞬、一本の線でつながる。


 俺は叫んだ。


「鑑定!」


 視界が白く弾けた。


【対象:聖剣アステリオス】


【分類:循環鍵】


【本来用途:過剰魔力毒の切断、暴走水脈の開放、世界楔との調律】


【現使用者:カイゼル】


【適合率:低下中】


【拒絶理由:癒やし手への攻撃、死者記憶の否定、世界楔破断事実の拒絶】


【記録開示可能】


【警告:使用者が開示を拒否】


【警告:強制開示には、聖剣破片、盾騎士の守護意思、聖女の名呼び、墓守の許可が必要】


 記録開示可能。


 強制開示条件。


 すべてそろっている。


 聖剣破片はベルクの盾にある。


 盾騎士の守護意思もある。


 聖女の名呼びもある。


 残るは、墓守の許可。


 俺はリュシアを見た。


 リュシアはすぐに理解した。


 魔王の墓の前に立ち、黒曜花へ両手を重ねる。


「墓守リュシアが許可します」


 彼女の声が響いた。


「父ゼルグレイスの死を、偽りの英雄譚に閉じ込めないために。聖剣が覚えている記録を、開いてください」


 黒曜花が一斉に開いた。


 聖剣アステリオスが、悲鳴のような音を立てる。


 カイゼルの目が見開かれる。


「やめろ!」


 彼が叫ぶ。


 だが、もう遅い。


 聖剣の光が空へ伸びた。


 黒曜花の黒銀の光と、ベルクの盾の破片、セレナの名を呼ぶ声が重なり、朝の空に一つの映像を描き始める。


 玉座の間。


 魔王ゼルグレイス。


 聖剣が止まる瞬間。


 魔王の声。


 ――切るのは私ではない。ここに溜まった毒だ。


 王国兵たちがざわめいた。


 白面神官が叫ぶ。


「見るな! 魔王の幻術だ!」


 だが、映像は止まらない。


 聖剣自身が見せている。


 魔王を殺す剣ではなかったことを。


 勇者が最後に何を選んだのかを。


 カイゼルは聖剣を握ったまま、歯を食いしばっていた。


 その顔から血の気が引いている。


 セレナは、涙を流しながら立っていた。


 王国の記録では、彼女は裏切り者の聖女になるのだろう。


 だが今、彼女の名を呼ぶ声が、聖剣の記憶を開いた。


 裏切り者。


 その言葉が、朝の空に消えていく。


 黒花の村の中で、誰かが小さく言った。


「聖女様……」


 それは、王国の聖女に向けた声ではなかった。


 名前を呼ぶ聖女に向けた声だった。


 聖剣の記憶が、王国軍の前で開かれていく。


 勇者カイゼルが、魔王を殺した本当の瞬間が。


 そして、黒花の村の戦いは、剣を交える前に、まず物語そのものを斬り始めた。


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