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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第2章 黒花の村

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第19話 聖女が祈れなくなった日

 セレナがアシュベルへ戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。


 白い法衣の裾は泥で汚れ、髪には森の枝葉が絡んでいた。


 聖女らしい清らかな姿とは言えなかった。


 けれど、彼女の顔には、王都で民衆に祈っていたころよりもずっと強い疲労と、そして覚悟があった。


 村の境界線が淡く光る。


 黒曜花は、セレナを拒まなかった。


「戻りました」


 彼女はそう言って、境界の内側へ足を踏み入れた。


 最初に駆け寄ったのはサナだった。


「お母さんは!?」


 問いは鋭かった。


 責めるようでもあり、すがるようでもあった。


 セレナは膝をつき、サナと目線を合わせた。


「生きています」


 その一言で、サナの顔が崩れた。


 だが、彼女は泣かなかった。


 泣く代わりに、両手を強く握りしめた。


「本当に?」


「はい。あなたのお母様、ユーディアさんに会いました」


「名前……」


 サナの目が揺れる。


「ちゃんと、名前を聞いてくれたの?」


「聞きました」


 セレナは静かに頷いた。


「ユーディアさんは、あなたたちが生きていると知って、とても安心していました」


 サナの唇が震えた。


「何か、言ってた?」


「逃げたことを恥じるな、と」


 セレナの声も、少し震えていた。


「弟たちを守ったことを誇れ、と。それから、ちゃんと眠れ、と」


 その瞬間、サナの顔がくしゃりと歪んだ。


「お母さんの言い方だ……」


 彼女はそれだけ言うと、膝から崩れ落ちた。


 リュシアがそっと支える。


 サナは泣かないように口を押さえたが、涙は止まらなかった。


 ミミがエナの家から走ってきて、サナに抱きつく。


 トトも、リクも、何も言わずにそばへ寄った。


 子どもたちは、そこで初めて少しだけ泣いた。


 助かったわけではない。


 母親はまだ檻の中だ。


 王国軍は明日にも黒曜花を焼きに来る。


 けれど、生きていると分かった。


 名前を呼ばれた。


 伝言が届いた。


 それだけで、子どもたちの胸に張りついていた絶望が、少しだけ剥がれたのだろう。


 俺はセレナに近づいた。


「収容地は?」


「捕虜は二十六人。あなたの偵察通りです。魔族、混血者、リーベル村の人間もいました」


「移送は?」


「明日の昼まで延期させました」


 グランが目を見開く。


「聖女様、やるじゃねえか」


「完全には止められませんでした」


 セレナは悔しそうに言った。


「でも、半日以上は稼げたはずです。水と最低限の治療も命じました」


「十分だ」


 ノアが木札の地図を広げながら言った。


「明日の昼まで捕虜が動かないなら、聖油馬車と人質の移動を分けられるかもしれない」


「白面神官は、かなり警戒しています」


 セレナは続けた。


「私の報告書も握り潰される可能性があります」


「何を書いた」


 俺が尋ねると、セレナは胸元から折り畳んだ紙を取り出した。


 泥で少し汚れている。


 だが、文字は読めた。


【黒曜花に魔王復活反応は確認できず】


【アシュベルにおいて、井戸水回復、土壌改善、病人の容体改善を確認】


【黒曜花は魔力毒を浄化している可能性が高い】


【捕虜とされる者たちは健康状態が悪く、移送および作戦利用は生命を危険にさらす】


【リーベル村焼却の経緯に不審点あり】


【死者および生存者の名前を確認する追加調査が必要】


 最後に、一文。


【死者は嘘をつかない】


 俺は、その一文から目が離せなかった。


「書いたのか」


「はい」


「危険だぞ」


「分かっています」


 セレナは苦く笑った。


「でも、書かずにはいられませんでした」


 リュシアが報告書を見つめる。


「聖教会の報告書に、その言葉を?」


「ええ」


「きっと、問題になります」


「もう問題になっています」


 セレナは顔を上げた。


「白面神官は、私の祈りが黒曜花に汚染された可能性があると言いました」


 村に緊張が走る。


 ノアが顔色を変えた。


「それ、かなり危険な言い方です。聖女様を異端扱いする前段階かもしれません」


「でしょうね」


 セレナは不思議なくらい落ち着いていた。


「でも、汚れたのは祈りではありません。祈りの使われ方です」


 その言葉を聞いて、俺はセレナの顔を見た。


 彼女の中で、何かが確かに変わっている。


 まだ王国を捨てたわけではない。


 教会を敵に回す覚悟もできていないと、昨日彼女は言っていた。


 それでも、もう以前の聖女には戻れないのだろう。


「レイン」


 セレナが俺を見る。


「リーベル村の最後の死者の名前が分かりました」


「本当か」


「ネル。八歳です」


 胸が詰まった。


 焼けた木札で読めなかった最後の一人。


 逃げ遅れた老人を助けに戻った子。


 名前が戻った。


「ネル」


 俺は声に出して繰り返した。


 黒曜花が、かすかに揺れた。


 まるで、その名を聞き取ったように。


 リュシアが黒曜花の前に膝をつく。


「弔いましょう」


 バルザも静かに頷いた。


「名が分かったなら、呼んでやらんとな」


 共同畑の端に、リーベル村の死者のための小さな石積みがある。


 エイダ。


 ロム。


 カイの祖父。


 そして、名の分からなかった一人。


 リュシアはその石積みの前に、小さな黒曜花の葉を一枚置いた。


 花そのものを摘むことはしない。


 けれど、枯れ落ちた葉なら弔いに使えると、黒曜花が許してくれたのだ。


 セレナは石積みの前に立った。


 だが、祈りの言葉が出てこなかった。


 彼女は口を開き、閉じた。


 もう一度、息を吸う。


 それでも、声は出なかった。


「セレナ?」


 俺が声をかけると、彼女は自分の喉に手を当てた。


「……祈れない」


 小さな声だった。


「祈りの言葉が、出てこないのです」


 黒曜花が静かに揺れる。


 セレナは顔を歪めた。


「教会で習った祈りを唱えようとすると、収容地の檻が浮かびます。リーベル村の焼け跡が浮かびます。浄化という言葉で村を焼いた白面神官の声が聞こえる」


 彼女は聖印を握りしめた。


「同じ言葉で、この子たちを弔っていいのか分からない」


 それは、聖女が祈れなくなった瞬間だった。


 癒やしの力を失ったわけではない。


 信仰を失ったのかどうかも、まだ分からない。


 ただ、これまで当然のように口にしてきた祈りが、もう無垢なものではなくなってしまったのだ。


 白い祈り。


 聖なる言葉。


 浄化の名。


 その下で何が行われてきたかを見てしまったから。


「無理に唱えなくていい」


 俺は言った。


 セレナは俺を見る。


「でも、私は聖女です」


「聖女だからこそ、嘘の祈りはしない方がいい」


 彼女は息を呑んだ。


 俺は石積みを見た。


「死者は嘘をつかない。なら、死者の前で生きている俺たちが嘘をつくべきじゃない」


「嘘の祈り……」


「言葉が出ないなら、出ないままでいい」


 リュシアが静かに続けた。


「墓守も、祈れない日があります」


 セレナがリュシアを見る。


「あなたも?」


「はい。父を棺に納めた夜、私は墓守なのに、父のための祈りを唱えられませんでした。言葉にしたら、本当に父が死者になってしまう気がしたから」


 リュシアは黒曜花に触れた。


「それでも、父は待ってくれました。死者は急ぎません」


 その言葉に、セレナの目が揺れた。


「死者は、急がない……」


「はい」


 バルザがゆっくりとアシュベルの古い祈りを唱え始めた。


 土へ還れ。


 名を忘れない。


 眠りが次の実りとなるように。


 残された者が、明日を恐れずに済むように。


 リュシアが魔族の言葉を重ねる。


 村人たちも、それぞれ覚えている部分だけを口にした。


 ミトとリナはたどたどしく。


 グランは低く。


 エナは涙声で。


 ノアは初めて聞く祈りに戸惑いながらも、最後の一節だけを小さく繰り返した。


 セレナは、まだ祈れなかった。


 けれど、逃げなかった。


 石積みの前に膝をつき、唇を震わせながら、ひとつずつ名前を呼んだ。


「エイダ」


 声はかすれていた。


「ロム」


 聖女の祈りではなかった。


「カイさんの祖父」


 教会の形式でもなかった。


「ネル」


 ただ、名前を呼ぶ声だった。


「ネル。八歳。逃げ遅れた人を助けに戻った子」


 黒曜花の縁が、淡く光った。


 石積みの上に、小さな銀色の灯が浮かぶ。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 そして、最後にとても小さな灯がひとつ。


 セレナは目を見開いた。


「ネル……?」


 小さな灯は、彼女の前でふわりと揺れた。


 声はない。


 姿もない。


 けれど、そこにいる。


 セレナは両手で口元を押さえた。


 涙がこぼれる。


「ごめんなさい」


 祈りではなく、謝罪だった。


「あなたの名前を、知らなかった。あなたの村が焼かれたことも、知らなかった」


 小さな灯は、責めるようには見えなかった。


 許すようにも見えなかった。


 ただ、名前を呼ばれたことに応えるように、静かに光っていた。


「これが……私にできる最初の祈りなのですね」


 セレナは震える声で言った。


「聖なる言葉ではなく、名前を呼ぶこと」


 俺は頷いた。


「たぶん、それでいい」


 リュシアも言った。


「死者は、まず名前を待っています」


 銀色の灯は、しばらく石積みの上で揺れたあと、黒曜花の中へ溶けていった。


 セレナは長いあいだ膝をついたままだった。


 誰も彼女を急かさなかった。


 聖女が祈れなくなった日。


 その代わりに、彼女は初めて、死者の名前を呼んだ。


 日が傾くころ、作戦会議が始まった。


 場所は共同畑の横。


 黒曜花と境界線を見渡せる場所だ。


 バルザの古地図、ノアの巡回路の木札、セレナが見た収容地の配置、俺の偵察記録を並べる。


 グランは聖油馬車の車輪を止める鉄くさびを三本作っていた。


 粗い作りだが、車輪の軸に噛ませればしばらく動きを止められる。


「聖油馬車は二台」


 俺は地図上に石を置いた。


「捕虜の檻は野営地奥。見張りは四人。神官兵が近くに二人」


「白面神官は、作戦前には聖油の術式準備に集中するはずです」


 セレナが言った。


「その間、捕虜側の警戒が少し薄くなる可能性があります」


「捕虜を直接逃がすには、拘束具が問題だ」


 ノアが言う。


「魔力封じの拘束具は鍵が必要です。壊そうとすると締めつける仕組みがある」


「鍵はどこにある」


「白面神官か、その副官」


 グランが舌打ちした。


「一番面倒な奴が持ってるってことか」


「別の方法があります」


 セレナが口を開いた。


「私なら、治療を理由に拘束具を一時解除させられるかもしれません」


「危険だ」


 俺は即座に言った。


「疑われている君がそれをやれば、拘束される」


「でしょうね」


「分かっていて言うのか」


「他に方法が少ないでしょう」


 セレナの声は静かだった。


「それに、私はまだ聖女という立場を使えます。使えるうちに使わなければ、ただ失うだけです」


 ノアが地図を見つめる。


「聖女様が中で時間を稼ぎ、拘束具を一部でも外す。その間に外から馬車を止める。捕虜を森側へ誘導する」


「森側の道は狭い」


 バルザが指で地図をなぞる。


「大人数で逃げるには向かん。だが、隠れる場所は多い」


「黒曜花の境界を一時的に伸ばせるか」


 俺がリュシアに尋ねると、彼女は黒曜花を見た。


「分かりません。ただ、守るべきものが増えるほど根は広がると、レインさんの鑑定に出ていました」


「ああ」


「捕虜たちがアシュベルへ向かう意思を持てば、黒曜花が道を示す可能性はあります」


「可能性か」


「はい」


 確実なものなど何もない。


 それでも、やるしかない。


 そのとき、サナが手を上げた。


「私、森の道を知ってる」


「サナ」


「小さい子たちと逃げた道。大人は通りにくいけど、見つかりにくい。お母さんたちを案内できる」


「危険だと言っただろ」


「分かってる。でも、私が一番道を知ってる」


 サナの目は真剣だった。


 泣いたあとで、少し赤くなっている。


 それでも、もう怒りだけで動こうとしているわけではない。


 母親の言葉を受け取ったからだろう。


 逃げたことを恥じるな。


 弟たちを守ったことを誇れ。


 なら今度は、自分にできることで大人たちを守りたい。


 そう思っている顔だった。


 俺は反対しようとした。


 だが、リュシアが先に口を開く。


「サナは村に残るべきです」


「どうして!」


「あなたがいなくなると、ミミたちが不安になります」


 サナの反論が止まる。


「でも、森の道は必要です。だから、あなたが地図を描いてください」


「地図……」


「はい。あなたが知っている道を、私たちに教えてください。それは待っているだけではありません」


 サナは唇を噛んだ。


 しばらく迷ったあと、小さく頷いた。


「……描く」


「ありがとうございます」


 リュシアは微笑んだ。


 サナは照れたように顔を背ける。


「別に、あなたのためじゃない」


「はい」


 作戦は少しずつ形になっていった。


 だが、問題は山ほどある。


 兵力差。


 白面神官。


 聖油。


 捕虜の衰弱。


 アシュベルへ戻ったあとの防衛。


 そして、王国から見れば、これは完全な反逆行為になる。


 セレナはそのすべてを理解している顔だった。


「セレナ」


 俺は声をかけた。


「本当にいいのか」


「何が?」


「ここから先に踏み込めば、もう調査では済まない」


「分かっています」


「君は聖女だ。王国に戻れば、まだ引き返せるかもしれない」


 セレナは少しだけ笑った。


「レイン。あなたは優しいけれど、時々残酷ですね」


「残酷?」


「戻れる場所があるみたいに言うから」


 彼女は黒曜花を見た。


「私は今日、祈れなくなりました。王国が望む聖女の祈りを、もう何も知らない顔では唱えられません」


「……」


「なら、戻る場所はもう同じ形では残っていません」


 その声は寂しそうだった。


 けれど、不思議と穏やかでもあった。


「でも、祈れなくなったから終わりではありませんでした」


 セレナは石積みを見る。


「名前を呼ぶことはできました」


「それが新しい祈りか」


「まだ分かりません」


 彼女は首を振った。


「でも、そこから始めます」


 夕暮れの光が、黒曜花の縁を銀色に染めていた。


 そのとき、村の南側の境界が鋭く光った。


 全員が顔を上げる。


 敵意のある侵入ではない。


 だが、何かが境界に触れた。


 グランが槌を構える。


 ノアが息を呑む。


 俺は剣に手をかけ、南側へ走った。


 境界線の外に、小さな矢が刺さっていた。


 矢文だ。


 王国軍のものではない。


 矢の羽は粗く、急いで作られたものらしい。


 俺は慎重に矢を抜き、結ばれた紙を開いた。


 そこには短く書かれていた。


【聖女の報告は封じられた】


【白面神官は今夜、作戦を前倒しする】


【聖油馬車は日没後に出る】


【捕虜の一部を先に移送】


【急げ】


 署名はなかった。


 だが、文字の下に、小さな印が刻まれていた。


 王国神官兵の巡回印。


 レインを見逃した中年の神官兵かもしれない。


 ノアが紙を見て顔を青くする。


「前倒し……」


 セレナの表情も変わった。


「私が移送を延期させたから、白面神官が独断で動くつもりなのかもしれません」


「日没後だと、もう時間がない」


 グランが空を見る。


 太陽は西へ傾き、赤く染まり始めていた。


 作戦会議どころではない。


 準備が終わる前に、王国が動く。


 サナが叫ぶ。


「お母さんが移されるの!?」


「一部と書いてある」


「その中にお母さんがいるかもしれない!」


 ミミが泣き出す。


 リクが壁を叩く。


 村全体が一気に緊張に包まれた。


 俺は矢文を握りしめた。


 白面神官は、セレナの動きを警戒して作戦を早めた。


 こちらに時間を与えないためだ。


 なら、もう迷っている余裕はない。


「今夜動く」


 俺は言った。


 全員の視線が集まる。


「予定より早い。準備も足りない。でも、捕虜が分けられたら助けるのがさらに難しくなる」


 ノアが苦い顔で頷く。


「移送中なら、野営地より警備は薄い可能性があります」


「聖油馬車も動くなら、同時に止める」


 グランが鉄くさびを握る。


「やるしかねえな」


 リュシアが黒曜花へ向かい、両手を重ねた。


「黒曜花に、道を願います」


 セレナも立ち上がる。


「私も行きます」


 俺は彼女を見た。


「祈れないのにか」


「はい」


 セレナは聖印を握らなかった。


 代わりに、リーベル村の報告書を胸元にしまう。


「今日は祈るためではなく、名前を呼ぶために行きます」


 その言葉に、誰も反対できなかった。


 聖女が祈れなくなった日。


 それは、彼女が無力になった日ではなかった。


 王国のために祈ることをやめ、名前のある人々のために動き始めた日だった。


 黒曜花が一斉に揺れる。


 畑の中心から、北東の森へ向かって、細い黒い光が伸びた。


 道だ。


 魔王の墓から、まだ死者になっていない人々のもとへ続く道。


 俺は剣を取り、グランは鉄くさびを背負い、ノアは杖をつきながら巡回路の木札を握った。


 サナは地面に急いで描いた森道の地図を俺へ渡す。


「絶対、戻ってきて」


「ああ」


「お母さんも連れて」


「できる限りやる」


「約束して」


 俺は一瞬、迷った。


 簡単な約束はしない。


 そう言ってきた。


 だが、サナの目は逃げなかった。


 俺も逃げるべきではないのかもしれない。


「約束する」


 サナの目が揺れた。


「お母さんを、死者の花の前で泣かせない」


 サナは唇を噛み、強く頷いた。


 日が沈みかけている。


 王国軍の聖油馬車は、もう動き出す。


 アシュベルの黒曜花は、夜の光を帯び始めていた。


 俺たちは、その黒い光を道しるべに、北東の森へ向かった。


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