第18話 死者は嘘をつかない
アシュベルを出たあと、セレナは一度も振り返らなかった。
振り返れば、足が止まると思った。
黒曜花の咲く畑。
魔王の墓。
リーベル村の死者の灯。
サナという魔族の少女の、刺すような目。
そして、レインの静かな声。
――死者は嘘をつかない。
その言葉が、胸の奥で何度も響いていた。
王国の道を歩きながら、セレナは自分の手を見た。
この手で、どれだけの兵士を癒やしてきただろう。
勇者パーティーの旅の途中、傷ついた者がいれば祈った。熱を下げ、血を止め、折れた骨をつなぎ、毒を抜いた。
聖女として、正しいことをしてきたつもりだった。
けれど、誰を癒やすかは決められていた。
王国兵。
人間の村人。
勇者に従う者。
教会が救うべきだと認めた者。
その外側にいた者たちを、セレナは見ていなかった。
魔族。
混血者。
魔王側についた者。
王国の命令に従わなかった村。
彼らが傷ついたとき、セレナはそこにいなかった。
いなかったのではない。
行かなかった。
「聖女様」
後ろを歩いていた神官兵が声をかけてきた。
王都から同行を命じられた監視役の一人だ。
「そろそろ収容地です」
「分かっています」
「先ほどの村で、何か問題はありましたか」
セレナは足を止めなかった。
「調査中です」
「黒い花は危険でしたか」
「調査中です」
「反逆者レイン・オルディアは?」
「調査中です」
同じ答えを返すと、神官兵は少し困った顔をした。
彼らはセレナの護衛ではない。
監視だ。
聖女が何を見て、何を言い、何を報告するか。
そのすべてを王都へ伝えるためにいる。
けれど、セレナはもう、彼らに簡単な答えを渡すつもりはなかった。
森を抜けると、王国西方臨時収容地が見えた。
木を切り開いた広場に、急造の柵と天幕が並んでいる。
中央には、聖油の樽を積んだ馬車が二台。
その横では、神官兵たちが白い布に術式を書き込んでいた。
さらに奥には、木と鉄で作られた檻がある。
中には人々がいた。
魔族。
混血者。
人間の村人。
手首には白い拘束具。
顔には疲労と飢え。
その中に、サナとよく似た金色の目をした女性がいた。
セレナは息を止めた。
生きている。
レインの言葉は本当だった。
「聖女様」
白い仮面をつけた神官が、天幕の前から歩いてきた。
白面神官。
教会直属の回収班を率いる者。
仮面の下の表情は見えない。
だが、その声は妙に丁寧だった。
「このような辺境まで、わざわざお越しいただき恐縮です」
「捕虜の健康状態を確認します」
セレナは前置きなしに言った。
白面神官は、わずかに首を傾げる。
「捕虜ではありません。保護対象です」
「では、保護対象の健康状態を確認します」
「現在、作戦準備中です。後ほど報告書を――」
「私は聖女です」
セレナは、静かに言葉を遮った。
「傷病者の確認を拒むのですか」
周囲の神官兵たちが顔を見合わせた。
白面神官は一拍置いて、ゆっくりとうなずく。
「拒むなど、とんでもない。どうぞ」
その声には、薄い苛立ちが混じっていた。
セレナは檻へ向かった。
近づくと、中の者たちが身をこわばらせる。
聖女の白い法衣を見て、安心する者はいなかった。
むしろ、怯えた。
その反応が、セレナの胸を刺した。
王都では、人々は彼女を見れば手を合わせた。
救いの象徴。
癒やしの聖女。
けれどここでは、同じ白が恐怖を呼んでいる。
「水は足りていますか」
セレナが尋ねると、誰も答えなかった。
檻の隅に置かれた桶は、ほとんど空だった。
幼い子どもが桶の底をなめようとして、母親らしき女性に止められている。
セレナは神官兵を振り返った。
「水を」
「規定量は与えています」
「足りていません」
「ですが、移送前の管理基準では――」
「水を」
セレナはもう一度言った。
神官兵は白面神官を見た。
白面神官は黙っている。
やがて、小さく手を振った。
「聖女様のご希望だ。水を」
兵士が不満そうに桶を運び出す。
セレナは檻の前に膝をついた。
金色の目の女性が、こちらを見ている。
サナの母親だ。
顔立ちはサナより柔らかい。
だが、目の奥にある強さは同じだった。
「あなたが、サナさんのお母様ですか」
女性の表情が変わった。
「サナを……知っているのですか」
かすれた声だった。
セレナは小さくうなずく。
「サナさん、リクさん、トトさん、ミミさんは生きています」
女性の目が大きく開かれる。
周囲の捕虜たちも息を呑んだ。
「本当に……?」
「はい。アシュベルにいます。怪我をした子もいますが、治療を受けています」
女性の唇が震えた。
声にならない息が漏れる。
彼女は両手で顔を覆い、檻の中で崩れるように膝をついた。
「生きて……いた……」
その周りで、何人かの大人たちも涙をこぼした。
逃がした子どもたちが生きている。
その知らせは、水よりも先に彼らの命を少しだけ戻したようだった。
「お母さんに伝えてほしいと言われました」
セレナは続けた。
「サナさんたちは生きている、と」
女性は何度も頷いた。
「ありがとう……ございます」
セレナは、その言葉をまっすぐ受け取れなかった。
感謝される資格が自分にあるのか、分からなかった。
この人たちを檻に入れたのは王国だ。
その王国の聖女が、伝言を届けただけで感謝される。
それは、あまりにも痛かった。
「傷を見せてください」
セレナは言った。
檻の扉を開けるよう命じると、見張りの兵士はためらった。
「危険です」
「弱った捕虜の傷を診ることが、そんなに危険ですか」
「魔族です」
「傷病者です」
セレナは言い返した。
白面神官が手を上げ、扉を開けさせる。
「聖女様のお望み通りに。ただし、こちらで監視します」
「構いません」
檻の中へ入ると、空気が重く淀んでいた。
汗。
血。
薬草も使われていない傷の匂い。
魔力封じの拘束具が発する乾いた金属臭。
セレナは最も重傷の者から診ていった。
腕を折られた男。
魔力毒に侵された少女。
背中を杖で打たれた老人。
水が足りず、唇の割れた子ども。
セレナは祈りを使った。
だが、いつものようには祈れなかった。
癒やしの言葉を口にしようとすると、アシュベルで見た焦げた木札が脳裏に浮かぶ。
王国は、同じ聖なる言葉で村を焼いた。
聖なる浄化。
聖なる保護。
聖なる管理。
名前を変えれば、傷つけることも救いになるのか。
セレナの祈りが一瞬、揺らいだ。
「聖女様?」
サナの母親が気づいたように言った。
セレナは深く息を吸う。
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
それでも、目の前の傷を放置することはできなかった。
彼女は教会で習った祈りではなく、昨夜アシュベルで聞いた祈りを思い出した。
土へ還れ。
名を忘れない。
眠りが次の実りとなるように。
残された者が、明日を恐れずに済むように。
それは死者のための祈りだった。
けれど今、生きている者を死者にしないためにも必要な祈りに思えた。
セレナの手から、淡い光がこぼれる。
傷口の熱が少しずつ引いていく。
完全に治すことはできない。
拘束具が魔力の流れを妨げている。
それでも、痛みは和らぐ。
呼吸が少し楽になる。
セレナは一人ずつ名前を聞いた。
「お名前は」
「……ラウ」
「ラウさん。傷を洗います」
「お名前は」
「ミーシャ」
「ミーシャさん。少し痛みます」
「お名前は」
「エイラ」
その名を聞いた瞬間、セレナは手を止めた。
リーベル村の記録にあった名前だ。
リーベル村長エイラ。
井戸を守るため、白面神官に抗議した女性。
目の前の女性は、額に包帯を巻き、片腕を布で吊っていた。
「あなたが、リーベル村の村長ですか」
「まだ村が残っていれば、そうでした」
エイラは静かに言った。
その声は弱い。
だが、折れてはいなかった。
「村は……」
「焼かれていました」
セレナは嘘をつかなかった。
エイラは目を閉じる。
「そうですか」
「ごめんなさい」
「聖女様が焼いたのですか」
「いいえ」
「なら、謝る相手が違います」
セレナは何も言えなかった。
エイラはゆっくりと目を開ける。
「でも、見たのですね」
「はい」
「なら、覚えていてください。リーベルは魔族の村ではありませんでした。人間だけの村でもありませんでした。ただ、逃げてきた子どもを追い出せなかった村です」
「覚えます」
「本当に?」
「はい」
エイラはセレナを見つめた。
その目は、サナの目に似ていた。
信じたいのに、信じることを恐れている目。
「なら、死んだ者の名も覚えてください」
「レインが、木札を拾っていました」
「レイン……死体鑑定士の?」
「はい」
「彼は、死者の名を拾ってくれましたか」
「読めたものだけですが」
セレナは名前を言った。
「エイダ。ロム。カイさんの祖父。最後の一人は、木札が焼けて読めなかったと」
エイラの顔が歪んだ。
「最後の一人は、ネルです」
「ネル」
「八歳でした。逃げ遅れた老人を助けに戻って……」
声が途切れる。
セレナはその名前を胸に刻んだ。
ネル。
八歳。
リーベル村で死んだ子。
公式記録には、きっと載らない名前。
浄化済区域という一言で消される名前。
「必ず伝えます」
セレナは言った。
「アシュベルの黒曜花に」
エイラはわずかに目を見開いた。
「黒曜花は、本当に咲いているのですか」
「はい」
「魔王様の墓に?」
「はい」
「では、リーベルの死者も……」
「レインが言っていました。黒曜花を望んでいると」
エイラは涙をこぼした。
「そうですか。なら、あの子たちは迷わずに済むかもしれない」
セレナは、その涙に触れることができなかった。
励ます言葉も、祈りの言葉も、軽くなってしまいそうだった。
そのとき、檻の外から声がした。
「聖女様。確認は十分でしょう」
白面神官だった。
「まだ終わっていません」
「時間です。明日の作戦準備があります」
「この人たちを作戦に使うつもりですか」
セレナは立ち上がった。
白面神官は、仮面の奥で笑ったようだった。
「保護対象を移送するだけです」
「黒曜花を焼くための盾として?」
周囲の空気が凍った。
捕虜たちが息を呑む。
神官兵たちも顔色を変えた。
白面神官の声が少し低くなる。
「どこでそのような話を」
「調査中に知りました」
「反逆者の言葉を信じるのですか」
「私は、傷を見ています」
セレナはエイラの肩を支えた。
「この人たちは保護されていない。水も治療も足りていない。魔力封じの拘束具は、傷の回復を妨げています」
「魔族の魔力暴走を防ぐためです」
「人間の村人にも同じ拘束具をつけていますね」
「魔族協力者ですから」
「協力者ではありません。避難民を受け入れた村人です」
「王国法では反逆にあたります」
「子どもを追い出さなかったことが?」
「魔族の血を持つ者は管理対象です」
セレナは、初めて白面神官の言葉をはっきりと嫌悪した。
管理対象。
保護対象。
浄化済区域。
彼らは人の名前を使わない。
名前を呼ばなければ、傷つけやすくなるからだ。
「移送を延期してください」
セレナは言った。
「捕虜の健康状態は悪く、強行すれば死者が出ます」
「聖女様が治療なさればよい」
「拘束具を外さなければ十分な治療はできません」
「外せません」
「では、移送延期を」
「できません」
白面神官は即答した。
「黒曜花焼却作戦は、勇者カイゼル様と宰相閣下の承認を得ています。聖女様の調査は参考にしますが、作戦を止める権限はありません」
「勇者様は、この状態を知っているのですか」
「報告書は上がっています」
「名前は?」
「何の」
「この人たちの名前です。報告書に、名前はありますか」
白面神官は黙った。
その沈黙が答えだった。
セレナは震える声で言った。
「名前のない報告で、人を動かすのですか」
「聖女様」
白面神官の声から、丁寧さが消えた。
「あなたは少し、反逆者の言葉に影響されすぎているようだ」
「死者と傷病者を見ただけです」
「死者は語りません」
「語ります」
セレナは即答した。
その言葉は、自分でも驚くほど強く出た。
「死者は、傷で語ります。焼けた家で語ります。残された木札で語ります。弔われなかった名前で語ります」
白面神官はしばらく沈黙した。
やがて、低く言う。
「それは死体鑑定士の思想です」
「いいえ」
セレナは首を振った。
「私が見たものです」
檻の中で、エイラが小さく頷いた。
サナの母親も、他の捕虜たちも、セレナを見ていた。
彼女は聖女だ。
王国側の人間だ。
それでも今、彼らの傷を見た。
名前を聞いた。
その事実だけは、もう消せない。
白面神官は仮面越しにセレナを見つめた。
「報告書を書いていただきます」
「もちろんです」
「黒曜花は危険。魔王復活の可能性あり。捕虜の移送は必要。そう記録していただく」
「それは虚偽です」
「聖女様」
「黒曜花は魔力毒を浄化しています。アシュベルでは井戸水が戻り、病人の状態も改善していました」
「魔族の幻術かもしれません」
「私の祈りが反応しました」
「聖女様の祈りが汚染された可能性もある」
その言葉に、周囲の神官兵たちがざわめいた。
聖女の祈りが汚染された。
それは、教会内で非常に重い意味を持つ言葉だ。
セレナは白面神官を見つめた。
「私を疑うのですか」
「調査は必要です」
「では、私も調査を続けます」
「聖女様」
「報告書は私自身の言葉で書きます」
白面神官の声が冷えた。
「後悔なさいますよ」
「すでにしています」
セレナは言った。
「もっと早く、自分の目で見なかったことを」
白面神官はそれ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙は警告だった。
セレナは檻を出る前に、サナの母親へ近づいた。
「お名前を聞かせてください」
「……ユーディア」
「ユーディアさん」
セレナはその名を繰り返した。
「サナさんたちへ、必ず伝えます。あなたが生きていることを」
ユーディアは、セレナの手を握った。
冷えた手だった。
「聖女様。あの子に言ってください」
「はい」
「逃げたことを、恥じるなと。弟たちを守ったことを、誇れと」
セレナの目に涙がにじむ。
「必ず」
「それから」
ユーディアは弱く笑った。
「ちゃんと眠れ、と」
その言葉は、母親の言葉だった。
管理対象でも、魔族残党でもない。
子どもを案じる、ただの母親の言葉。
セレナは深く頷いた。
「伝えます」
檻を出ると、白面神官が一枚の報告書を差し出した。
すでに文面の大半が書かれている。
聖女セレナの署名欄だけが空いていた。
【調査結果】
【黒曜花は魔王復活に関わる危険物と推定】
【アシュベル村は反逆者レイン・オルディアおよび魔族残党の拠点】
【捕虜移送は作戦遂行上、必要】
【聖油による焼却処置を妥当と判断】
セレナはその紙を見つめた。
整った文字。
正しい形式。
王国が望む結論。
ここに署名すれば、彼女は安全な場所へ戻れる。
王都の礼拝堂で祈り、民衆に微笑み、勇者の隣に立ち続けられる。
だが、死者の灯が脳裏に浮かんだ。
エイダ。
ロム。
カイの祖父。
ネル。
そして、檻の中で名前を呼ばれるのを待っていた生者たち。
死者は嘘をつかない。
なら、生者である自分が嘘をついてどうする。
セレナは報告書を受け取った。
白面神官が満足そうに頷く。
「署名を」
セレナは筆を取った。
そして、署名欄ではなく、本文の上から大きく線を引いた。
白面神官の気配が変わる。
「聖女様?」
セレナは新しい紙を求めた。
神官兵が戸惑いながら差し出す。
彼女は自分の手で書き始めた。
【聖女セレナによる現地調査報告】
【黒曜花に魔王復活反応は確認できず】
【アシュベルにおいて、井戸水回復、土壌改善、病人の容体改善を確認】
【黒曜花は魔力毒を浄化している可能性が高い】
【捕虜とされる者たちは健康状態が悪く、移送および作戦利用は生命を危険にさらす】
【リーベル村焼却の経緯に不審点あり】
【死者および生存者の名前を確認する追加調査が必要】
最後に、セレナは少しだけ筆を止めた。
そして、一文を加えた。
【死者は嘘をつかない】
書いた瞬間、指先が震えた。
これは、ただの報告書ではない。
王国の物語に対する反論だ。
白面神官は無言で紙を見つめていた。
仮面の奥の表情は見えない。
だが、怒っていることだけは分かった。
「その報告は、宰相閣下には届かないかもしれません」
「複写を作ります」
「握り潰されます」
「なら、何度でも書きます」
「聖女様は、ご自分の立場を理解しておられない」
「ようやく理解し始めました」
セレナは筆を置いた。
「聖女という立場が、何を見るべきだったのかを」
白面神官は一歩近づいた。
「あなたの祈りは、魔王の花に汚されたのかもしれません」
「違います」
セレナはまっすぐ答えた。
「魔王の花に触れて、ようやく汚れていたものが見えただけです」
その言葉に、近くの神官兵が目を伏せた。
誰かが息を呑む音がした。
すべての者が白面神官に従っているわけではない。
セレナは、それを感じた。
レインを見逃した神官兵がいたと言っていた。
王国の中にも、まだ迷っている者がいる。
ならば、言葉は無駄ではない。
たとえすぐに作戦を止められなくても、ひびを入れることはできる。
セレナは報告書を胸に抱いた。
「私は、この報告を王都へ送ります」
「その前に、上官確認が必要です」
「聖女の緊急調査報告に、現地神官の検閲は不要です」
「規定上は――」
「規定を持ち出すなら、捕虜の治療拒否についても正式に記録します」
白面神官は沈黙した。
セレナは初めて、彼がわずかに引いたのを感じた。
権威には、権威で対抗するしかない。
好きなやり方ではなかった。
でも今は、使えるものを使うしかない。
檻の中の人々が見ている。
その視線が、セレナの背を支えていた。
「本日の移送は延期してください」
セレナは言った。
「最低でも一日。治療と水の補給が必要です」
「作戦が遅れます」
「死者が出れば、私の報告書にそのまま書きます」
白面神官は長い沈黙のあと、低く言った。
「半日だけです」
「一日です」
「……日没まで」
「明日の夜明けまで」
互いに譲らなかった。
やがて、白面神官は舌打ちに近い息を漏らした。
「明日の昼まで」
セレナは頷いた。
「受け入れます」
完全な勝利ではない。
作戦は止まっていない。
捕虜は解放されていない。
黒曜花の危機も消えていない。
それでも、時間を得た。
アシュベルにとって、半日以上の時間は大きい。
レインたちが動く時間になる。
セレナは檻へ戻り、水と治療の指示を出した。
神官兵たちは不満げだったが、聖女の前で逆らう者はいなかった。
ユーディアが、檻の中からセレナを見ていた。
「聖女様」
「はい」
「あなたは、王国の人ですか」
セレナは答えに迷った。
少し前なら、迷わずそうだと答えただろう。
私は王国の聖女です、と。
けれど今、その言葉は簡単には出なかった。
「私は……まだ王国の人間です」
正直に答えた。
「でも、今日見たものを、王国の都合で消すつもりはありません」
ユーディアはしばらく彼女を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「なら、サナに伝えてください。私はまだ死者ではない、と」
「はい」
「だから、死者の花の前で泣くのは、まだ早いと」
セレナはその言葉を胸に刻んだ。
収容地を離れるころ、空は曇っていた。
白面神官の視線が背中に刺さる。
監視役の神官兵たちも、以前より距離を詰めてきた。
もう、セレナは疑われている。
だが、不思議と怖くはなかった。
怖さよりも、もっと大きなものが胸にあった。
怒り。
後悔。
そして、ようやく見えた責任。
森へ戻る前に、セレナは一度だけ振り返った。
檻の中の人々。
聖油の樽。
白面神官。
王国の旗。
そのすべてを目に焼きつける。
見た。
もう見なかったことにはできない。
セレナは報告書を胸元にしまい、歩き出した。
アシュベルへ戻らなければならない。
サナに母の言葉を伝えなければならない。
レインに、移送を明日の昼まで遅らせたと知らせなければならない。
そして、死者の名前をもう一つ。
ネル。
八歳。
勇者が救わなかった村で、消されかけた名前。
それを黒曜花に届けなければならない。
森の道を歩きながら、セレナは小さくつぶやいた。
「死者は嘘をつかない」
その言葉は、もうレインだけのものではなかった。
聖女セレナの祈りの中にも、深く根を下ろし始めていた。




