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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第2章 黒花の村

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第18話 死者は嘘をつかない

 アシュベルを出たあと、セレナは一度も振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まると思った。


 黒曜花の咲く畑。


 魔王の墓。


 リーベル村の死者の灯。


 サナという魔族の少女の、刺すような目。


 そして、レインの静かな声。


 ――死者は嘘をつかない。


 その言葉が、胸の奥で何度も響いていた。


 王国の道を歩きながら、セレナは自分の手を見た。


 この手で、どれだけの兵士を癒やしてきただろう。


 勇者パーティーの旅の途中、傷ついた者がいれば祈った。熱を下げ、血を止め、折れた骨をつなぎ、毒を抜いた。


 聖女として、正しいことをしてきたつもりだった。


 けれど、誰を癒やすかは決められていた。


 王国兵。


 人間の村人。


 勇者に従う者。


 教会が救うべきだと認めた者。


 その外側にいた者たちを、セレナは見ていなかった。


 魔族。


 混血者。


 魔王側についた者。


 王国の命令に従わなかった村。


 彼らが傷ついたとき、セレナはそこにいなかった。


 いなかったのではない。


 行かなかった。


「聖女様」


 後ろを歩いていた神官兵が声をかけてきた。


 王都から同行を命じられた監視役の一人だ。


「そろそろ収容地です」


「分かっています」


「先ほどの村で、何か問題はありましたか」


 セレナは足を止めなかった。


「調査中です」


「黒い花は危険でしたか」


「調査中です」


「反逆者レイン・オルディアは?」


「調査中です」


 同じ答えを返すと、神官兵は少し困った顔をした。


 彼らはセレナの護衛ではない。


 監視だ。


 聖女が何を見て、何を言い、何を報告するか。


 そのすべてを王都へ伝えるためにいる。


 けれど、セレナはもう、彼らに簡単な答えを渡すつもりはなかった。


 森を抜けると、王国西方臨時収容地が見えた。


 木を切り開いた広場に、急造の柵と天幕が並んでいる。


 中央には、聖油の樽を積んだ馬車が二台。


 その横では、神官兵たちが白い布に術式を書き込んでいた。


 さらに奥には、木と鉄で作られた檻がある。


 中には人々がいた。


 魔族。


 混血者。


 人間の村人。


 手首には白い拘束具。


 顔には疲労と飢え。


 その中に、サナとよく似た金色の目をした女性がいた。


 セレナは息を止めた。


 生きている。


 レインの言葉は本当だった。


「聖女様」


 白い仮面をつけた神官が、天幕の前から歩いてきた。


 白面神官。


 教会直属の回収班を率いる者。


 仮面の下の表情は見えない。


 だが、その声は妙に丁寧だった。


「このような辺境まで、わざわざお越しいただき恐縮です」


「捕虜の健康状態を確認します」


 セレナは前置きなしに言った。


 白面神官は、わずかに首を傾げる。


「捕虜ではありません。保護対象です」


「では、保護対象の健康状態を確認します」


「現在、作戦準備中です。後ほど報告書を――」


「私は聖女です」


 セレナは、静かに言葉を遮った。


「傷病者の確認を拒むのですか」


 周囲の神官兵たちが顔を見合わせた。


 白面神官は一拍置いて、ゆっくりとうなずく。


「拒むなど、とんでもない。どうぞ」


 その声には、薄い苛立ちが混じっていた。


 セレナは檻へ向かった。


 近づくと、中の者たちが身をこわばらせる。


 聖女の白い法衣を見て、安心する者はいなかった。


 むしろ、怯えた。


 その反応が、セレナの胸を刺した。


 王都では、人々は彼女を見れば手を合わせた。


 救いの象徴。


 癒やしの聖女。


 けれどここでは、同じ白が恐怖を呼んでいる。


「水は足りていますか」


 セレナが尋ねると、誰も答えなかった。


 檻の隅に置かれた桶は、ほとんど空だった。


 幼い子どもが桶の底をなめようとして、母親らしき女性に止められている。


 セレナは神官兵を振り返った。


「水を」


「規定量は与えています」


「足りていません」


「ですが、移送前の管理基準では――」


「水を」


 セレナはもう一度言った。


 神官兵は白面神官を見た。


 白面神官は黙っている。


 やがて、小さく手を振った。


「聖女様のご希望だ。水を」


 兵士が不満そうに桶を運び出す。


 セレナは檻の前に膝をついた。


 金色の目の女性が、こちらを見ている。


 サナの母親だ。


 顔立ちはサナより柔らかい。


 だが、目の奥にある強さは同じだった。


「あなたが、サナさんのお母様ですか」


 女性の表情が変わった。


「サナを……知っているのですか」


 かすれた声だった。


 セレナは小さくうなずく。


「サナさん、リクさん、トトさん、ミミさんは生きています」


 女性の目が大きく開かれる。


 周囲の捕虜たちも息を呑んだ。


「本当に……?」


「はい。アシュベルにいます。怪我をした子もいますが、治療を受けています」


 女性の唇が震えた。


 声にならない息が漏れる。


 彼女は両手で顔を覆い、檻の中で崩れるように膝をついた。


「生きて……いた……」


 その周りで、何人かの大人たちも涙をこぼした。


 逃がした子どもたちが生きている。


 その知らせは、水よりも先に彼らの命を少しだけ戻したようだった。


「お母さんに伝えてほしいと言われました」


 セレナは続けた。


「サナさんたちは生きている、と」


 女性は何度も頷いた。


「ありがとう……ございます」


 セレナは、その言葉をまっすぐ受け取れなかった。


 感謝される資格が自分にあるのか、分からなかった。


 この人たちを檻に入れたのは王国だ。


 その王国の聖女が、伝言を届けただけで感謝される。


 それは、あまりにも痛かった。


「傷を見せてください」


 セレナは言った。


 檻の扉を開けるよう命じると、見張りの兵士はためらった。


「危険です」


「弱った捕虜の傷を診ることが、そんなに危険ですか」


「魔族です」


「傷病者です」


 セレナは言い返した。


 白面神官が手を上げ、扉を開けさせる。


「聖女様のお望み通りに。ただし、こちらで監視します」


「構いません」


 檻の中へ入ると、空気が重く淀んでいた。


 汗。


 血。


 薬草も使われていない傷の匂い。


 魔力封じの拘束具が発する乾いた金属臭。


 セレナは最も重傷の者から診ていった。


 腕を折られた男。


 魔力毒に侵された少女。


 背中を杖で打たれた老人。


 水が足りず、唇の割れた子ども。


 セレナは祈りを使った。


 だが、いつものようには祈れなかった。


 癒やしの言葉を口にしようとすると、アシュベルで見た焦げた木札が脳裏に浮かぶ。


 王国は、同じ聖なる言葉で村を焼いた。


 聖なる浄化。


 聖なる保護。


 聖なる管理。


 名前を変えれば、傷つけることも救いになるのか。


 セレナの祈りが一瞬、揺らいだ。


「聖女様?」


 サナの母親が気づいたように言った。


 セレナは深く息を吸う。


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 それでも、目の前の傷を放置することはできなかった。


 彼女は教会で習った祈りではなく、昨夜アシュベルで聞いた祈りを思い出した。


 土へ還れ。


 名を忘れない。


 眠りが次の実りとなるように。


 残された者が、明日を恐れずに済むように。


 それは死者のための祈りだった。


 けれど今、生きている者を死者にしないためにも必要な祈りに思えた。


 セレナの手から、淡い光がこぼれる。


 傷口の熱が少しずつ引いていく。


 完全に治すことはできない。


 拘束具が魔力の流れを妨げている。


 それでも、痛みは和らぐ。


 呼吸が少し楽になる。


 セレナは一人ずつ名前を聞いた。


「お名前は」


「……ラウ」


「ラウさん。傷を洗います」


「お名前は」


「ミーシャ」


「ミーシャさん。少し痛みます」


「お名前は」


「エイラ」


 その名を聞いた瞬間、セレナは手を止めた。


 リーベル村の記録にあった名前だ。


 リーベル村長エイラ。


 井戸を守るため、白面神官に抗議した女性。


 目の前の女性は、額に包帯を巻き、片腕を布で吊っていた。


「あなたが、リーベル村の村長ですか」


「まだ村が残っていれば、そうでした」


 エイラは静かに言った。


 その声は弱い。


 だが、折れてはいなかった。


「村は……」


「焼かれていました」


 セレナは嘘をつかなかった。


 エイラは目を閉じる。


「そうですか」


「ごめんなさい」


「聖女様が焼いたのですか」


「いいえ」


「なら、謝る相手が違います」


 セレナは何も言えなかった。


 エイラはゆっくりと目を開ける。


「でも、見たのですね」


「はい」


「なら、覚えていてください。リーベルは魔族の村ではありませんでした。人間だけの村でもありませんでした。ただ、逃げてきた子どもを追い出せなかった村です」


「覚えます」


「本当に?」


「はい」


 エイラはセレナを見つめた。


 その目は、サナの目に似ていた。


 信じたいのに、信じることを恐れている目。


「なら、死んだ者の名も覚えてください」


「レインが、木札を拾っていました」


「レイン……死体鑑定士の?」


「はい」


「彼は、死者の名を拾ってくれましたか」


「読めたものだけですが」


 セレナは名前を言った。


「エイダ。ロム。カイさんの祖父。最後の一人は、木札が焼けて読めなかったと」


 エイラの顔が歪んだ。


「最後の一人は、ネルです」


「ネル」


「八歳でした。逃げ遅れた老人を助けに戻って……」


 声が途切れる。


 セレナはその名前を胸に刻んだ。


 ネル。


 八歳。


 リーベル村で死んだ子。


 公式記録には、きっと載らない名前。


 浄化済区域という一言で消される名前。


「必ず伝えます」


 セレナは言った。


「アシュベルの黒曜花に」


 エイラはわずかに目を見開いた。


「黒曜花は、本当に咲いているのですか」


「はい」


「魔王様の墓に?」


「はい」


「では、リーベルの死者も……」


「レインが言っていました。黒曜花を望んでいると」


 エイラは涙をこぼした。


「そうですか。なら、あの子たちは迷わずに済むかもしれない」


 セレナは、その涙に触れることができなかった。


 励ます言葉も、祈りの言葉も、軽くなってしまいそうだった。


 そのとき、檻の外から声がした。


「聖女様。確認は十分でしょう」


 白面神官だった。


「まだ終わっていません」


「時間です。明日の作戦準備があります」


「この人たちを作戦に使うつもりですか」


 セレナは立ち上がった。


 白面神官は、仮面の奥で笑ったようだった。


「保護対象を移送するだけです」


「黒曜花を焼くための盾として?」


 周囲の空気が凍った。


 捕虜たちが息を呑む。


 神官兵たちも顔色を変えた。


 白面神官の声が少し低くなる。


「どこでそのような話を」


「調査中に知りました」


「反逆者の言葉を信じるのですか」


「私は、傷を見ています」


 セレナはエイラの肩を支えた。


「この人たちは保護されていない。水も治療も足りていない。魔力封じの拘束具は、傷の回復を妨げています」


「魔族の魔力暴走を防ぐためです」


「人間の村人にも同じ拘束具をつけていますね」


「魔族協力者ですから」


「協力者ではありません。避難民を受け入れた村人です」


「王国法では反逆にあたります」


「子どもを追い出さなかったことが?」


「魔族の血を持つ者は管理対象です」


 セレナは、初めて白面神官の言葉をはっきりと嫌悪した。


 管理対象。


 保護対象。


 浄化済区域。


 彼らは人の名前を使わない。


 名前を呼ばなければ、傷つけやすくなるからだ。


「移送を延期してください」


 セレナは言った。


「捕虜の健康状態は悪く、強行すれば死者が出ます」


「聖女様が治療なさればよい」


「拘束具を外さなければ十分な治療はできません」


「外せません」


「では、移送延期を」


「できません」


 白面神官は即答した。


「黒曜花焼却作戦は、勇者カイゼル様と宰相閣下の承認を得ています。聖女様の調査は参考にしますが、作戦を止める権限はありません」


「勇者様は、この状態を知っているのですか」


「報告書は上がっています」


「名前は?」


「何の」


「この人たちの名前です。報告書に、名前はありますか」


 白面神官は黙った。


 その沈黙が答えだった。


 セレナは震える声で言った。


「名前のない報告で、人を動かすのですか」


「聖女様」


 白面神官の声から、丁寧さが消えた。


「あなたは少し、反逆者の言葉に影響されすぎているようだ」


「死者と傷病者を見ただけです」


「死者は語りません」


「語ります」


 セレナは即答した。


 その言葉は、自分でも驚くほど強く出た。


「死者は、傷で語ります。焼けた家で語ります。残された木札で語ります。弔われなかった名前で語ります」


 白面神官はしばらく沈黙した。


 やがて、低く言う。


「それは死体鑑定士の思想です」


「いいえ」


 セレナは首を振った。


「私が見たものです」


 檻の中で、エイラが小さく頷いた。


 サナの母親も、他の捕虜たちも、セレナを見ていた。


 彼女は聖女だ。


 王国側の人間だ。


 それでも今、彼らの傷を見た。


 名前を聞いた。


 その事実だけは、もう消せない。


 白面神官は仮面越しにセレナを見つめた。


「報告書を書いていただきます」


「もちろんです」


「黒曜花は危険。魔王復活の可能性あり。捕虜の移送は必要。そう記録していただく」


「それは虚偽です」


「聖女様」


「黒曜花は魔力毒を浄化しています。アシュベルでは井戸水が戻り、病人の状態も改善していました」


「魔族の幻術かもしれません」


「私の祈りが反応しました」


「聖女様の祈りが汚染された可能性もある」


 その言葉に、周囲の神官兵たちがざわめいた。


 聖女の祈りが汚染された。


 それは、教会内で非常に重い意味を持つ言葉だ。


 セレナは白面神官を見つめた。


「私を疑うのですか」


「調査は必要です」


「では、私も調査を続けます」


「聖女様」


「報告書は私自身の言葉で書きます」


 白面神官の声が冷えた。


「後悔なさいますよ」


「すでにしています」


 セレナは言った。


「もっと早く、自分の目で見なかったことを」


 白面神官はそれ以上、何も言わなかった。


 だが、その沈黙は警告だった。


 セレナは檻を出る前に、サナの母親へ近づいた。


「お名前を聞かせてください」


「……ユーディア」


「ユーディアさん」


 セレナはその名を繰り返した。


「サナさんたちへ、必ず伝えます。あなたが生きていることを」


 ユーディアは、セレナの手を握った。


 冷えた手だった。


「聖女様。あの子に言ってください」


「はい」


「逃げたことを、恥じるなと。弟たちを守ったことを、誇れと」


 セレナの目に涙がにじむ。


「必ず」


「それから」


 ユーディアは弱く笑った。


「ちゃんと眠れ、と」


 その言葉は、母親の言葉だった。


 管理対象でも、魔族残党でもない。


 子どもを案じる、ただの母親の言葉。


 セレナは深く頷いた。


「伝えます」


 檻を出ると、白面神官が一枚の報告書を差し出した。


 すでに文面の大半が書かれている。


 聖女セレナの署名欄だけが空いていた。


【調査結果】


【黒曜花は魔王復活に関わる危険物と推定】


【アシュベル村は反逆者レイン・オルディアおよび魔族残党の拠点】


【捕虜移送は作戦遂行上、必要】


【聖油による焼却処置を妥当と判断】


 セレナはその紙を見つめた。


 整った文字。


 正しい形式。


 王国が望む結論。


 ここに署名すれば、彼女は安全な場所へ戻れる。


 王都の礼拝堂で祈り、民衆に微笑み、勇者の隣に立ち続けられる。


 だが、死者の灯が脳裏に浮かんだ。


 エイダ。


 ロム。


 カイの祖父。


 ネル。


 そして、檻の中で名前を呼ばれるのを待っていた生者たち。


 死者は嘘をつかない。


 なら、生者である自分が嘘をついてどうする。


 セレナは報告書を受け取った。


 白面神官が満足そうに頷く。


「署名を」


 セレナは筆を取った。


 そして、署名欄ではなく、本文の上から大きく線を引いた。


 白面神官の気配が変わる。


「聖女様?」


 セレナは新しい紙を求めた。


 神官兵が戸惑いながら差し出す。


 彼女は自分の手で書き始めた。


【聖女セレナによる現地調査報告】


【黒曜花に魔王復活反応は確認できず】


【アシュベルにおいて、井戸水回復、土壌改善、病人の容体改善を確認】


【黒曜花は魔力毒を浄化している可能性が高い】


【捕虜とされる者たちは健康状態が悪く、移送および作戦利用は生命を危険にさらす】


【リーベル村焼却の経緯に不審点あり】


【死者および生存者の名前を確認する追加調査が必要】


 最後に、セレナは少しだけ筆を止めた。


 そして、一文を加えた。


【死者は嘘をつかない】


 書いた瞬間、指先が震えた。


 これは、ただの報告書ではない。


 王国の物語に対する反論だ。


 白面神官は無言で紙を見つめていた。


 仮面の奥の表情は見えない。


 だが、怒っていることだけは分かった。


「その報告は、宰相閣下には届かないかもしれません」


「複写を作ります」


「握り潰されます」


「なら、何度でも書きます」


「聖女様は、ご自分の立場を理解しておられない」


「ようやく理解し始めました」


 セレナは筆を置いた。


「聖女という立場が、何を見るべきだったのかを」


 白面神官は一歩近づいた。


「あなたの祈りは、魔王の花に汚されたのかもしれません」


「違います」


 セレナはまっすぐ答えた。


「魔王の花に触れて、ようやく汚れていたものが見えただけです」


 その言葉に、近くの神官兵が目を伏せた。


 誰かが息を呑む音がした。


 すべての者が白面神官に従っているわけではない。


 セレナは、それを感じた。


 レインを見逃した神官兵がいたと言っていた。


 王国の中にも、まだ迷っている者がいる。


 ならば、言葉は無駄ではない。


 たとえすぐに作戦を止められなくても、ひびを入れることはできる。


 セレナは報告書を胸に抱いた。


「私は、この報告を王都へ送ります」


「その前に、上官確認が必要です」


「聖女の緊急調査報告に、現地神官の検閲は不要です」


「規定上は――」


「規定を持ち出すなら、捕虜の治療拒否についても正式に記録します」


 白面神官は沈黙した。


 セレナは初めて、彼がわずかに引いたのを感じた。


 権威には、権威で対抗するしかない。


 好きなやり方ではなかった。


 でも今は、使えるものを使うしかない。


 檻の中の人々が見ている。


 その視線が、セレナの背を支えていた。


「本日の移送は延期してください」


 セレナは言った。


「最低でも一日。治療と水の補給が必要です」


「作戦が遅れます」


「死者が出れば、私の報告書にそのまま書きます」


 白面神官は長い沈黙のあと、低く言った。


「半日だけです」


「一日です」


「……日没まで」


「明日の夜明けまで」


 互いに譲らなかった。


 やがて、白面神官は舌打ちに近い息を漏らした。


「明日の昼まで」


 セレナは頷いた。


「受け入れます」


 完全な勝利ではない。


 作戦は止まっていない。


 捕虜は解放されていない。


 黒曜花の危機も消えていない。


 それでも、時間を得た。


 アシュベルにとって、半日以上の時間は大きい。


 レインたちが動く時間になる。


 セレナは檻へ戻り、水と治療の指示を出した。


 神官兵たちは不満げだったが、聖女の前で逆らう者はいなかった。


 ユーディアが、檻の中からセレナを見ていた。


「聖女様」


「はい」


「あなたは、王国の人ですか」


 セレナは答えに迷った。


 少し前なら、迷わずそうだと答えただろう。


 私は王国の聖女です、と。


 けれど今、その言葉は簡単には出なかった。


「私は……まだ王国の人間です」


 正直に答えた。


「でも、今日見たものを、王国の都合で消すつもりはありません」


 ユーディアはしばらく彼女を見つめた。


 そして、小さく頷いた。


「なら、サナに伝えてください。私はまだ死者ではない、と」


「はい」


「だから、死者の花の前で泣くのは、まだ早いと」


 セレナはその言葉を胸に刻んだ。


 収容地を離れるころ、空は曇っていた。


 白面神官の視線が背中に刺さる。


 監視役の神官兵たちも、以前より距離を詰めてきた。


 もう、セレナは疑われている。


 だが、不思議と怖くはなかった。


 怖さよりも、もっと大きなものが胸にあった。


 怒り。


 後悔。


 そして、ようやく見えた責任。


 森へ戻る前に、セレナは一度だけ振り返った。


 檻の中の人々。


 聖油の樽。


 白面神官。


 王国の旗。


 そのすべてを目に焼きつける。


 見た。


 もう見なかったことにはできない。


 セレナは報告書を胸元にしまい、歩き出した。


 アシュベルへ戻らなければならない。


 サナに母の言葉を伝えなければならない。


 レインに、移送を明日の昼まで遅らせたと知らせなければならない。


 そして、死者の名前をもう一つ。


 ネル。


 八歳。


 勇者が救わなかった村で、消されかけた名前。


 それを黒曜花に届けなければならない。


 森の道を歩きながら、セレナは小さくつぶやいた。


「死者は嘘をつかない」


 その言葉は、もうレインだけのものではなかった。


 聖女セレナの祈りの中にも、深く根を下ろし始めていた。


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