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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第2章 黒花の村

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第17話 聖女セレナ、調査に来る

 聖女セレナがアシュベルへ来たのは、翌朝のことだった。


 夜明け前から、村は慌ただしかった。


 聖油を積んだ王国軍は、明日の夜にも黒曜花を焼きに来る。


 捕らわれた魔族避難民とリーベル村の住人たちは、王国西方臨時収容地にいる。


 俺たちはその救出と、黒曜花防衛を同時に考えなければならなかった。


 ノアは王国軍の巡回路を木札から読み解いていた。


 グランは聖油馬車の車輪を止めるための鉄くさびを作っている。


 バルザは古い炭焼き道の地図を広げ、森の抜け道を思い出そうとしていた。


 リュシアは黒曜花の根に触れ、境界線の弱った場所を探している。


 サナは短剣を腰に差し、何度も「私も行く」と言い、エナに止められていた。


 そんなとき、村の南側にある境界線が淡く光った。


 敵意を弾く強い光ではない。


 誰かが境界の前で立ち止まったときの、静かな反応だった。


「誰か来た」


 ノアが顔を上げた。


 俺は剣を手に取り、南側の入口へ向かった。


 リュシアも続く。


 グランは槌を持ち、サナは短剣に手をかけた。


 霧の向こうに、人影が一つ見えた。


 白い法衣。


 胸元に聖教会の紋章。


 肩まで伸びた淡い金色の髪。


 手には杖も剣もなく、代わりに白い布を結んだ短い枝を持っている。


 降伏や交渉を示す白旗の代わりだ。


「セレナ……」


 俺は思わず名前を呼んだ。


 聖女セレナ。


 勇者パーティーの癒やし手。


 王都で民衆に祈りを捧げていたはずの彼女が、ひとりでアシュベルの入口に立っていた。


 セレナは境界線の手前で足を止め、こちらを見た。


 以前より少しやつれているように見えた。


 だが、背筋は伸びている。


「レイン」


 彼女は静かに言った。


「話がしたいの」


 グランが低く唸る。


「聖女様が一人で来るとはな。罠じゃねえのか」


 ノアも杖をつきながら近づいてきた。


 セレナの目がノアに止まる。


「あなたは……王国補充兵?」


 ノアは気まずそうに視線を逸らした。


「元、かもしれません」


「元?」


「置いていかれました。勇者様の部隊に」


 セレナの顔がわずかに強張った。


 その反応は、演技には見えなかった。


 彼女は知らなかったのだ。


 ノアが捨てられたことも、ここにいることも。


「セレナ」


 俺は境界線の内側から声をかけた。


「どうしてここへ来た」


「調査よ」


「王国の命令か」


「表向きは」


 セレナは白い枝を少し持ち上げた。


「魔王復活疑惑の調査。黒い花の確認。反逆者レイン・オルディアと魔族残党の状況把握」


 サナが短剣を抜いた。


「やっぱり敵じゃない!」


 ミミがエナの後ろに隠れる。


 リクも包帯を巻いた腕を押さえながら、セレナを睨んだ。


 セレナは、魔族の子どもたちを見て目を見開いた。


「子ども……?」


「王国の保護部隊から逃げてきた子たちだ」


 俺が言うと、セレナは息を呑んだ。


「保護部隊……」


「白面神官隊だ」


 その名を聞いた瞬間、彼女の表情が明らかに変わった。


 知らない顔ではない。


 けれど、知っていても口に出せなかったものを聞かされた顔だった。


「セレナ。君は一人で来たのか」


「ええ」


「本当に?」


 セレナは少しだけ目を伏せた。


「正確には、少し離れた場所に監視役の神官兵が二人いる。けれど、この村へ入るのは私だけ」


「監視付きか」


「私が勝手に動くと思われているの」


 彼女は自嘲するように笑った。


「実際、その通りだけれど」


 グランが俺に小声で言う。


「入れるのか?」


 簡単には決められなかった。


 セレナは元仲間だ。


 何度も俺の傷を癒やしてくれた。


 だが同時に、俺が追放されたとき、彼女は何も言わなかった。


 魔王の遺体を王国へ持ち帰ろうとした勇者たちを止めなかった。


 そして今、彼女は王国の聖女としてここにいる。


 この村には、守るべきものが増えすぎていた。


 黒曜花。


 リュシア。


 ノア。


 魔族の子どもたち。


 アシュベルの村人たち。


 セレナを信じていいのか。


 俺が迷っていると、リュシアが一歩前に出た。


「境界は、彼女を拒んでいません」


「リュシア」


「攻撃意思があれば、境界は反応します。今は、ただ見ているだけです」


 セレナはリュシアを見た。


「あなたが……魔王ゼルグレイスの娘」


「はい。墓守リュシアです」


 その名乗りに、セレナはわずかに眉を動かした。


「姫ではなく、墓守なのですね」


「今の私には、その方が大切です」


 セレナはしばらくリュシアを見つめていた。


 やがて、深く頭を下げた。


「あなたのお父上を討った場に、私はいました」


 空気が凍った。


 サナがセレナを睨む。


 グランが槌を握り直す。


 リュシアの肩も小さく震えた。


 けれど彼女は、逃げなかった。


「はい」


「私は、魔王を倒すことが世界を救うことだと信じていました」


「はい」


「そして、あなたの父の遺体がどう扱われるかを、深く考えませんでした」


 セレナの声は震えていた。


「そのことを、謝って済むとは思いません。それでも、まず謝らせてください」


 彼女はもう一度、深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 リュシアは何も言わなかった。


 許します、とも。


 許せません、とも。


 ただ、黒曜花の方を見た。


 そこには、魔王の墓がある。


 謝罪を受け取るべき本人は、もう土の下だ。


「謝罪は、父ではなく死者全員に向けてください」


 リュシアは静かに言った。


「父に殺された人にも。王国に殺された魔族にも。弔われなかった人たちにも」


 セレナの顔が痛みで歪む。


「……そうですね」


 彼女は境界線の前に膝をついた。


「私は聖女です。多くの死者のために祈ってきたつもりでした。でも、祈る相手を選んでいたのかもしれません」


 その言葉に、俺は胸の奥が重くなった。


 祈る相手を選ぶ。


 弔う相手を選ぶ。


 王国はずっとそれをしてきた。


 味方の死者は英雄。


 敵の死者は素材。


 都合の悪い死者は浄化済み。


「入っていい」


 俺は言った。


 グランが驚いたように俺を見る。


「いいのか」


「境界が拒んでいない。それに、話を聞く必要がある」


 セレナは立ち上がり、ゆっくりと境界線を越えた。


 黒花の村境界が淡く光る。


 だが、弾かなかった。


 白い法衣の聖女が、魔王の墓を抱える村へ入った。


 それだけで、この場にいる全員が息を詰めた。


 セレナは共同畑へ案内されると、黒曜花の前で立ち止まった。


 彼女は花を見た瞬間、言葉を失った。


「これが……黒い花」


「ああ」


「王都では、魔王復活の兆候だと言われている」


「復活していない」


「分かるの?」


「鑑定に出ている。これは弔いの花だ」


 セレナは俺を見た。


「レイン。あなたの鑑定では、何が見えているの」


 俺は黒曜花に触れた。


 鑑定を発動する。


【対象:黒曜花】


【由来:魔王ゼルグレイスの埋葬地】


【性質:魔力毒浄化、土壌再生、死者記憶保持】


【価値:弔いの花】


【備考:死者の価値を、生者の明日へ変換する】


 俺はそのまま伝えた。


 セレナは黙って聞いていた。


 疑うでもなく、信じきるでもなく、ただ必死に受け止めようとしている顔だった。


「魔力毒を浄化している……」


「ああ。井戸も戻った。畑も芽吹いた」


 バルザが一歩前へ出た。


「聖女様。わしはアシュベルのバルザと申します。この村は十年、井戸が枯れておりました。黒曜花が咲いた翌朝、井戸に水が戻りました」


 エナも続ける。


「私の子どもたちも熱が下がりました。黒曜花の近くにいると、呼吸が楽になるんです」


 ミトが小さく手を上げる。


「麦の芽も出たよ」


 リナも頷く。


「ちっちゃいけど、緑」


 セレナは子どもたちを見た。


 それから、畑の小さな芽に目を落とした。


 聖女である彼女には、病や癒やしの気配が分かるのだろう。


 彼女は膝をつき、土に手を置いた。


 淡い白い光が彼女の手から広がる。


 聖女の祈り。


 だが、黒曜花はそれを拒まなかった。


 むしろ、白い光を静かに受け止め、黒い花びらの縁に銀色の光を強めた。


 セレナの目が見開かれる。


「拒まない……」


「何が?」


「聖教会では、魔王由来のものは聖なる祈りを拒むと教えられている。でも、この花は違う。私の祈りを壊さない。むしろ……整えている」


「整える?」


「祈りに混じった焦りや恐れを、吸い取っているみたい」


 リュシアが黒曜花を見る。


「父の花が、聖女の祈りを……」


 セレナは胸元の聖印を握りしめた。


 その手は震えていた。


「私は、何を信じてきたの……」


 誰も答えなかった。


 信じてきたものが揺らぐ瞬間に、簡単な慰めは意味を持たない。


 セレナはしばらく黒曜花を見つめていたが、やがて顔を上げた。


「調査結果として、王都に報告します。黒曜花は魔王復活の兆候ではない。土地を浄化し、人々の健康状態を改善している可能性が高いと」


「それで止まるか?」


 俺が尋ねると、セレナは苦しげに首を振った。


「止まらないと思う」


「正直だな」


「嘘をつきに来たわけじゃないから」


 セレナは立ち上がった。


「宰相と研究院は、もう黒曜花を危険物として扱う方針を決めている。勇者カイゼルも、あなたを反逆者として捕らえるつもりを変えないでしょう」


「君は、それを止められるのか」


 セレナは唇を噛んだ。


「今の私には、まだ止められない」


「なら、なぜ来た」


「確かめたかったの」


 彼女は俺をまっすぐ見た。


「あなたが本当に、魔王を復活させようとしているのか。魔族の娘と組んで王国に反逆しているのか。黒い花が、本当に災厄なのか」


「それで?」


「少なくとも、王都で聞かされている話とは違う」


 セレナの声は低かった。


「でも、それを証明しなければ、私は誰も説得できない」


「証拠ならある」


 俺は懐から、リーベル村の焼け残った記録紙を取り出した。


 セレナの目がその紙に落ちる。


「これは?」


「リーベル村の記録だ。魔族避難民を受け入れたことで、白面神官隊に焼かれた」


 セレナの顔が青ざめた。


「リーベル村……焼かれたの?」


「浄化済区域と書かれていた」


 俺は記録紙を広げた。


 焼け残った文字を、セレナが読む。


【魔族の親子三名を受け入れる】


【王国巡回兵に報告せず。村会一致】


【王国軍の一隊が来訪。避難民引き渡しを命じられる】


【拒否】


【勇者様の名を出される。命令書あり】


 セレナの手が震えた。


 俺はさらに、最後の一枚を差し出した。


【私たちは魔族ではない】


【だが、子どもを差し出す村でもない】


【勇者様が本当に英雄なら、この村を救ってほしい】


 セレナはその文を読んだまま、動けなくなった。


 長い沈黙。


 風が黒曜花を揺らす。


 やがて、彼女の目から涙が落ちた。


「私は……知らなかった」


「そうだろうな」


「でも、知らなかったでは済まない」


「ああ」


 俺は頷いた。


「済まない」


 セレナは記録紙を胸に抱いた。


 その姿は、王都のバルコニーで民衆に祈っていた聖女とは違って見えた。


 祈りの象徴ではなく、ようやく現実を見た一人の人間だった。


「リーベル村の生存者は?」


「王国西方臨時収容地にいる。魔族避難民も一緒だ。サナたちの母親もいた」


 サナが前へ出る。


「私のお母さん、見たの?」


 セレナはサナを見る。


 その表情に、また痛みが走った。


「あなたが、避難小屋から逃げた子ね」


「知ってるの?」


「白面神官隊が、魔族児童四名逃走と報告していた」


 サナの目が鋭くなる。


「捕まえるために来たの」


「違う」


「じゃあ、何で知ってるの」


「報告書を見たから」


「私たちのこと、何て書いてあった?」


 セレナは答えに詰まった。


 だが、サナは目を逸らさない。


 セレナは小さく息を吸い、正直に言った。


「魔族系未管理児童、と」


 サナの顔が歪んだ。


「名前は?」


「書かれていなかった」


「やっぱり」


 サナは震える声で笑った。


「王国は、私たちの名前なんていらないんだ」


 セレナは何も言えなかった。


 俺はサナの肩に手を置こうとして、やめた。


 彼女は今、誰かに慰められたいわけではない。


 怒る権利を奪われたくないのだ。


 リュシアが静かに言った。


「この村では、名前を聞きます」


 サナはリュシアを見た。


「死者にも、生者にも」


「……うん」


 セレナはそのやり取りを見ていた。


 そして、深く息を吐いた。


「レイン。収容地の場所を教えて」


「どうする気だ」


「調査を続ける」


「一人でか」


「聖女として、捕虜の状態を確認する権限はある。名目は作れる」


 ノアが険しい顔をした。


「白面神官隊は、聖女様にも全部は見せないと思います」


「でしょうね」


「下手に動けば、あなたも拘束されます」


「その可能性はある」


「分かっていて?」


 セレナはノアを見た。


「あなたは置いていかれたのね」


 ノアの顔が強張る。


「はい」


「ごめんなさい」


 ノアは戸惑ったように目を逸らした。


「聖女様が謝ることじゃ……」


「いいえ。私は勇者パーティーにいた。王国軍の負傷兵を癒やす役目だった。なのに、あなたが置いていかれたことを知らなかった」


「補充兵一人のことです」


「一人、ではないわ」


 セレナの声が少し強くなった。


「そう言ってしまったら、王国と同じになる」


 ノアは黙った。


 その表情に、少しだけ何かがほどけたような色が浮かんだ。


 セレナは俺へ向き直る。


「私は、収容地に行く。捕虜の状態を確認し、可能なら移送を止める」


「止められるのか」


「分からない」


「また正直だな」


「分からないことを、できるとは言えない。でも、何もしない理由にはならない」


 その言葉に、俺は少しだけ昔のセレナを思い出した。


 勇者パーティーで負傷者を癒やしていたころの彼女。


 どれだけ疲れていても、目の前に怪我人がいれば膝をついた聖女。


 その彼女が、王都の式典や勇者の隣で見えなくなっていただけなのかもしれない。


 いや、そう信じるのはまだ早い。


 彼女は王国側の人間だ。


 迷いながらも、まだ完全にこちらへ来たわけではない。


「セレナ」


「何?」


「君に見せたいものがある」


 俺は畑の端へ向かった。


 そこには、昨夜リーベル村から持ち帰った焦げた木札が置かれている。


 リュシアが黒曜花のそばに小さな石を置き、仮の弔いの場所を作ってくれていた。


「リーベル村の死者の名前だ。読めたものだけ持ってきた」


 セレナは木札の前に膝をついた。


 俺は読み上げる。


「エイダ。ロム。カイの祖父。最後の一人は、文字が焼けて読めない」


 セレナは聖印を握った。


 いつもの聖女の祈りを捧げようとしたのだろう。


 だが、途中で声が止まった。


「祈れないのか」


 俺が尋ねると、セレナは小さく首を振った。


「祈りの言葉は出る。でも、それを口にするのが怖い」


「なぜ」


「王国は、同じ聖なる言葉でこの村を焼いた」


 彼女は木札を見つめた。


「私が同じ祈りを捧げていいのか、分からない」


 リュシアが隣に膝をついた。


「祈りの言葉を、変えればいいのではありませんか」


「変える?」


「この村では、人間の祈りと魔族の祈りを混ぜていました。アシュベルの祈りです」


 バルザが近づいてきた。


「古い言葉なら、わしが覚えております」


 セレナは驚いたように彼を見る。


 バルザはゆっくりと祈りを唱え始めた。


 人間の言葉。


 魔族の言葉。


 土へ還れ。


 名を忘れない。


 眠りが次の実りとなるように。


 残された者が、明日を恐れずに済むように。


 セレナは最初、黙って聞いていた。


 やがて、その祈りに自分の声を重ねた。


 聖教会の形式とは違う。


 王都の礼拝堂で響く整った祈りでもない。


 かすれ、迷い、何度もつまずく祈りだった。


 それでも、彼女は名前を呼んだ。


「エイダ。ロム。カイの祖父。名を失った一人」


 黒曜花が静かに光る。


 焦げた木札の上に、小さな銀色の灯が浮かんだ。


 セレナが息を呑む。


「これが……死者の記憶」


「たぶん、リーベルの死者だ」


 銀色の灯は、セレナの前で少し揺れた。


 責めているのか。


 許しているのか。


 分からない。


 だが、そこにいる。


 死者は、名前を呼ばれて初めてこの村にたどり着いたように見えた。


 セレナは涙をこぼしながら、頭を下げた。


「ごめんなさい」


 今度の謝罪は、誰か一人に向けたものではなかった。


 王国が選ばなかった死者へ。


 祈りからこぼれ落ちた者たちへ。


 聖女が今まで見なかったものへ。


 その謝罪だった。


 やがて灯は、黒曜花の中へ溶けるように消えた。


 セレナはしばらく動けなかった。


 俺は待った。


 誰も急かさなかった。


 死者の前では、急ぐべきではない。


 やがて、セレナは立ち上がった。


 その目には、もう迷いだけではない光があった。


「レイン」


「何だ」


「私は、まだあなたの味方だとは言えない」


「正直だな」


「王国を捨てる覚悟も、教会を敵に回す覚悟も、まだできていない」


「ああ」


「でも、見たものをなかったことにはしない」


 彼女はリーベル村の記録紙を握りしめた。


「収容地へ行きます。捕虜の状態を確認して、聖油作戦の延期を求める」


「延期だけか」


「今の私にできる現実的な最初の一手よ」


 ノアが頷いた。


「延期できれば、こちらも動く時間が増えます」


 グランが腕を組む。


「聖女様が中から時間を稼ぐ。俺たちは外から馬車を止める。悪くねえ」


 サナがセレナを睨んだまま言った。


「お母さんを見たら、伝えて」


「何を?」


「サナたちは生きてるって」


 セレナの表情がやわらぐ。


「必ず」


「簡単に約束するの?」


 サナの声は厳しかった。


 セレナは一瞬黙り、それから頷いた。


「これは約束する。あなたたちが生きていることは、必ず伝える」


 サナはしばらく彼女を見つめていた。


 そして、小さく言った。


「破ったら、刺す」


「覚えておくわ」


 セレナは少しだけ笑った。


 その笑みには、聖女としての完璧さはなかった。


 だからこそ、少し信用できる気がした。


 村を出る前、セレナはもう一度黒曜花の前に立った。


 そしてリュシアへ向き直る。


「リュシアさん」


「はい」


「あなたのお父上のことを、私はまだ何も知りません」


「私も、知らないことばかりです」


「なら、知るところから始めたい」


 リュシアは少し驚いたようにセレナを見た。


 そして、静かにうなずいた。


「死者は、急ぎません。知ろうとする人を、たぶん待ってくれます」


 セレナはその言葉を胸に刻むように目を閉じた。


 彼女は境界線を越え、村の外へ出た。


 白い法衣の背中が、霧の中へ消えていく。


 少し離れた場所にいた監視役の神官兵が、彼女に近づくのが見えた。


 セレナは振り返らなかった。


 王国へ戻る聖女の背中は、小さく見えた。


 だが、来たときよりも弱くは見えなかった。


 ノアがぽつりと言う。


「聖女様、本当に動いてくれると思う?」


「分からない」


 俺は答えた。


「でも、彼女は見た」


「見た?」


「黒曜花も、リーベルの記録も、死者の灯も」


 俺は共同畑に咲く黒い花を見た。


「見てしまったものは、なかったことにできない」


 それは、俺自身にも言えることだった。


 魔王の遺体を鑑定した日から、俺はもう王国の物語へ戻れなくなった。


 セレナも、今日この村を見た。


 死者の名前を呼んだ。


 聖教会の祈りではなく、アシュベルの祈りで。


 なら、彼女の中でも何かが変わり始めているはずだ。


 リュシアが黒曜花に触れる。


 花びらが静かに揺れた。


「次は、死者が何を語るかですね」


「ああ」


 俺の視界に、鑑定結果が浮かんだ。


【対象:黒曜花群】


【状態:記憶保持拡大】


【新規記憶:聖女セレナの祈り】


【未来価値候補:偽りの英雄譚を揺るがす証人】


 偽りの英雄譚を揺るがす証人。


 セレナが、その候補になった。


 王国の聖女が、死者の側に耳を傾け始めた。


 それが何を変えるのかは、まだ分からない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 死者は嘘をつかない。


 そして今日、聖女セレナは初めて、その沈黙の証言に触れた。


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