第16話 勇者が救わなかった村
夜明け前の森は、白い霧に沈んでいた。
アシュベルを出るとき、黒曜花はまだ淡く光っていた。
リュシアは共同畑の前に立ち、最後まで俺を見送っていた。
「無理はしないでください」
彼女はそう言った。
俺はうなずいた。
「偵察だけだ。戦いには行かない」
「レインさんは、そう言いながら死者を見つけると立ち止まります」
「否定できないな」
「なら、立ち止まってもいいので、戻ってきてください」
その言葉は、妙に胸に残った。
戻ってきてください。
勇者パーティーにいたころ、そんなふうに言われたことはほとんどなかった。
役に立て。
遅れるな。
邪魔をするな。
カイゼルから向けられる言葉は、だいたいそんなものだった。
だが今は違う。
俺が戻るのを待つ村がある。
黒曜花の根を守る墓守がいる。
母親を待つ魔族の子どもたちがいる。
置いていかれた元王国兵が、王国式の警戒札の見分け方を教えてくれた。
俺は一人で森へ入った。
けれど、本当に一人で歩いている気はしなかった。
バルザが描いてくれた古い炭焼き道の地図を頼りに、北東へ進む。
霧は濃い。
木々の間を抜けるたび、湿った枝が外套を濡らした。
地面には落ち葉が積もっている。だが、ところどころ踏み荒らされた跡があった。
馬車の車輪跡。
重い荷を運んだ跡。
複数の兵士の靴跡。
間違いない。
王国軍はこの道を使っている。
俺は折れた枝に触れた。
鑑定を発動する。
【対象:折れた枝】
【状態:人為的破損】
【破損原因:王国軍荷馬車の接触】
【通過時刻:半日前】
【積荷反応:聖油、捕縛具、魔力封じ札】
聖油。
やはり、野営地は近い。
俺は足音を殺し、さらに森の奥へ進んだ。
しばらく行くと、木の幹に小さな白い札が打ちつけられていた。
王国式の警戒札だ。
ノアから聞いていた特徴と一致する。
白地に青い線。
中央に聖教会の簡略紋。
周囲の魔力変化を感知し、野営地へ知らせる簡易結界。
普通に触れれば、すぐにこちらの存在が知られる。
だが、札は少し古いものだった。
下半分が湿気で歪み、角に黒い染みが出ている。
死にかけている。
俺には見える。
俺は札に直接触れず、幹に残った古い傷へ指を当てた。
【対象:王国式警戒札】
【状態:稼働中、感度低下】
【設置者:神官兵】
【感知対象:魔族魔力、黒曜花反応、強い敵意】
【弱点:物理接触なしの迂回可能】
【備考:死体鑑定士の魔力は低反応】
俺の魔力は、警戒札にほとんど反応しないらしい。
喜んでいいのか、悲しむべきか分からない。
勇者パーティーで役立たずと呼ばれた低い魔力が、今は偵察に役立っている。
俺は警戒札の感知範囲を避け、木々の間を回り込んだ。
その先で、森が少し開けた。
古い炭焼き小屋が見える。
サナが言っていた場所だ。
だが、そこに野営地はなかった。
代わりに、小屋の奥へ続く道に、新しい足跡が残っている。
捕らわれた者たちは、ここをさらに奥へ移されたらしい。
俺は慎重に道を進んだ。
霧が薄くなる。
そして、突然、木々の間から開けた場所に出た。
そこに、村があった。
いや、村だったものがあった。
アシュベルよりも小さい。
十軒ほどの家。
中央に井戸。
畑だったらしい場所。
木柵。
だが、そのすべてが焼けていた。
家の壁は黒く焦げ、屋根は落ち、井戸の周りには白い灰が積もっている。
畑には、作物の代わりに黒く焼けた杭が立っていた。
村の入口には、王国の立て札がある。
そこには大きく、こう書かれていた。
【浄化済区域】
【魔族残党協力村につき、王国軍管理下に置く】
俺は立て札の前で足を止めた。
浄化済区域。
嫌な言葉だった。
焼いた、とは書かない。
滅ぼした、とは書かない。
浄化した、と書く。
名前を変えれば、罪の形も変わると思っている。
俺は灰の積もった地面に膝をついた。
まだ温かい。
焼かれてから、そう時間は経っていない。
指先で灰に触れる。
鑑定が発動する。
【対象:焼失村跡】
【旧名:リーベル村】
【状態:焼却、井戸封鎖、住居破壊】
【住民構成:人間、魔族、混血者】
【焼却理由:魔族避難民の受け入れ】
【実行部隊:王国聖教会白面神官隊、勇者追討隊後方支援兵】
【死者数:複数】
【生存者:捕縛後移送】
リーベル村。
魔族避難民を受け入れた村。
それだけで焼かれたのか。
俺は胸の奥が冷えるのを感じた。
アシュベルも同じだ。
ノアを受け入れた。
魔族の子どもたちを受け入れた。
黒曜花を守っている。
王国から見れば、十分に浄化対象なのだろう。
俺は焼け落ちた家の一つへ近づいた。
入口には焦げた木の玩具が転がっていた。
小さな馬の形をしている。
子どものものだ。
触れるか迷った。
だが、情報が必要だった。
俺はそっと木馬に触れる。
【対象:焦げた木馬】
【所有者:リーベル村の児童カイ】
【状態:半焼】
【過去価値:父が作った玩具】
【最終記憶:避難民の子と分け合う】
【現在価値:焼却証拠】
【備考:所有者は捕縛。生存可能性あり】
生きている。
少なくとも、この木馬の持ち主は生きて捕まった。
俺は少しだけ息を吐いた。
だが、安堵するには早すぎる。
捕まった先が安全とは限らない。
むしろ、研究院や人質として使われる可能性の方が高い。
村の奥へ進むと、井戸のそばに焼け残った布があった。
王国軍のものではない。
村人が使う水汲み布だ。
そこに、乾いた血が付いている。
俺は触れた。
【対象:血の付いた水汲み布】
【所有者:リーベル村長エイラ】
【状態:焼損、血液付着】
【最終行動:井戸を守るため白面神官に抗議】
【損傷原因:神官兵の杖による打撃】
【現在状態:生存、捕縛、重傷】
【移送先:西方臨時収容地】
西方臨時収容地。
やはり、捕らわれた者たちはそこへ集められている。
サナの母親だけではない。
このリーベル村の住人も。
王国は、魔族避難民を受け入れた村ごと、人質と素材にしている。
俺は立ち上がった。
そのとき、足元で何かが崩れる音がした。
焦げた床板の下に、小さな地下穴があった。
貯蔵穴だろう。
その中に、古い箱が見える。
俺は慎重に箱を引き上げた。
中には、焦げかけた羊皮紙が数枚入っていた。
村の記録。
日付と、簡単な出来事が書かれている。
文字は一部焼けて読めない。
それでも、残った部分だけで十分だった。
【魔族の親子三名を受け入れる。子どもに熱あり】
【王国巡回兵に報告せず。村会一致】
【アシュベル方面に黒い光を確認】
【勇者様が魔王を討ったとの噂】
【王国軍の一隊が来訪。避難民引き渡しを命じられる】
【拒否】
【勇者様の名を出される。命令書あり】
俺は息を止めた。
勇者様の名。
命令書。
この村を焼いた命令に、カイゼルの名前が使われている。
実際にカイゼルが直接命じたのか、後方部隊が名を利用したのかは分からない。
だが、勇者の名はこの村を救うためではなく、焼くために使われた。
次の紙をめくる。
そこには、震えた筆跡で短く書かれていた。
【私たちは魔族ではない】
【だが、子どもを差し出す村でもない】
【勇者様が本当に英雄なら、この村を救ってほしい】
文字はそこで途切れていた。
俺は紙を握りしめた。
勇者様が本当に英雄なら、この村を救ってほしい。
その願いは届かなかった。
勇者は来なかった。
いや、来たのは勇者の名を掲げた兵だった。
救うためではなく、奪うために。
焼くために。
俺の視界に、鑑定結果が浮かぶ。
【対象:リーベル村記録紙】
【状態:焼損】
【過去価値:村会記録】
【現在価値:勇者名義命令の証拠】
【未来価値候補:聖女の疑念を決定づける証言】
聖女。
セレナか。
俺は紙から目を離せなかった。
未来価値候補。
この焼け残った記録は、セレナの疑念を決定づける証言になる可能性がある。
確かに、彼女はカイゼルの横で何かを疑い始めていた。
魔王の遺体を王都へ運ぶこと。
レインを反逆者と呼ぶこと。
死者を素材にすること。
もし、この記録を彼女に見せられれば。
いや、今は先に偵察だ。
俺は記録紙を布に包み、懐にしまった。
そのとき、村の外から足音が聞こえた。
俺は反射的に焼けた家の陰に身を隠す。
複数の足音。
王国兵か。
息を潜めていると、霧の向こうから二人の神官兵が現れた。
白い外套。
腰には短剣。
手には銀の杖。
一人は若い。
もう一人は中年で、顔に疲れがにじんでいた。
「まだ調査するのですか」
若い神官兵が言った。
「ここはもう浄化済みでしょう」
「白面神官様の命令だ。焼け残りがないか確認する」
「避難民を匿っただけで村ごと焼くとは、少しやりすぎでは」
中年の神官兵が足を止めた。
「その言葉、他の者の前で言うな」
「ですが」
「魔族残党を匿えば反逆だ。そういう命令だ」
「勇者様も承認されたのですか」
中年の男は答えなかった。
沈黙。
それが答えのようにも思えた。
「上は、勇者様の名を使っている」
中年の神官兵が低く言った。
「だが、すべてを勇者様が見ているわけではない」
「では、誰が」
「知りすぎるな」
若い神官兵は口を閉じた。
彼らは井戸の周りを調べ、焼け残った家の中をのぞいて回る。
俺が隠れている家にも近づいてきた。
まずい。
逃げ道を探す。
背後には崩れた壁。
横には貯蔵穴。
剣を抜けば戦えるかもしれないが、神官兵二人を相手に無傷では済まない。騒ぎになれば野営地へ知られる。
俺は足元に転がっていた焦げた梁に触れた。
【対象:焦げた梁】
【状態:炭化、崩落寸前】
【残存価値:一時的な目隠し】
【使用可能:軽い衝撃で灰煙発生】
俺は小石を拾い、梁の端へ投げた。
軽い音。
次の瞬間、梁が崩れ、灰が大きく舞い上がった。
「何だ!」
「壁が崩れた!」
神官兵たちがそちらへ注意を向ける。
その隙に、俺は反対側の壊れた窓から外へ抜けた。
灰で喉が焼ける。
咳をこらえ、低い姿勢で井戸の裏へ回る。
見つからずに済んだ。
だが、もう長居はできない。
俺は村の外へ向かおうとして、ふと足を止めた。
井戸の向こう、焼けた畑の端。
そこに、小さな石積みがあった。
墓だ。
新しい。
焦げ跡があるが、誰かが急いで石を積んだらしい。
その前に、黒く枯れた小さな花が一本置かれている。
黒曜花ではない。
普通の野花が、火に焼かれて黒くなっただけだ。
それでも、誰かが死者に花を置いた。
俺は近づき、石積みに触れた。
【対象:簡易墓】
【埋葬者:不明】
【被葬者:リーベル村民三名】
【死因:焼却時の逃げ遅れ、煙吸引、外傷】
【埋葬状態:不完全】
【残存価値:救援要請】
【備考:死者はアシュベルの黒曜花を望む】
救援要請。
死者は黒曜花を望む。
俺の胸が詰まった。
黒曜花は、魔王の墓に咲いた花だ。
死者の記憶を抱き、土地を浄化し、弔いを形にする花。
リーベル村の死者たちも、それを求めている。
だが、俺は今ここに黒曜花を持っていない。
無理に掘り返すこともできない。
せめて、名前だけでも。
俺は石積みの周囲を探した。
近くに焦げた木札が落ちている。
そこに、かすかに名前が残っていた。
エイダ。
ロム。
カイの祖父。
最後の一つは読めない。
俺は焦げた木札を拾い、懐に入れた。
「必ず、伝える」
小さく言った。
「アシュベルに。黒曜花に。お前たちのことを」
死者は答えない。
だが、石積みのそばの焼けた花が、霧の中でわずかに揺れたように見えた。
その瞬間、遠くから角笛の音がした。
野営地の方角。
神官兵たちも顔を上げた。
「集合か」
「聖油実験の続きでしょう」
「急ぐぞ」
二人の神官兵は村を離れ、北の森へ向かった。
俺は距離を取りながら、彼らの後を追うことにした。
リーベル村の記録は得た。
だが、サナの母親たちがいる収容地の位置をまだ確認していない。
森の奥へ進むにつれ、王国軍の気配が濃くなった。
木には警戒札。
地面には馬車の跡。
枝には聖教会の白い紐。
そして、空気に独特の匂いが混じる。
油だ。
普通の油ではない。
鼻の奥を刺すような、清潔すぎる匂い。
聖油。
俺は茂みの影から、慎重に前方をのぞいた。
あった。
王国西方臨時収容地。
森を切り開いた広場に、木柵と天幕が並んでいる。
中央には聖油の樽を積んだ馬車が二台。
その横で、神官兵たちが白い布を広げ、何かの術式を描いていた。
奥には檻がある。
木と鉄で作られた簡易の檻。
その中に、人々がいた。
魔族。
混血者。
人間の村人もいる。
リーベル村の住民だろう。
皆、手首に白い拘束具をはめられている。
その中に、サナと同じ金色の目をした女性がいた。
年は三十代半ば。
疲れきった顔。
だが、背筋は折れていない。
サナの母親だと、見た瞬間に分かった。
俺は檻の位置を確認した。
見張りは四人。
神官兵が二人。
王国兵が二人。
さらに奥の天幕に、白い仮面の神官がいる。
白面神官。
彼は銀の皿の上に、黒い花びらを置いていた。
黒曜花の断片。
その上に聖油を垂らす。
白い炎が立ち上がる。
遠く離れているのに、胸の奥がざわついた。
アシュベルの黒曜花が痛んでいるのだろうか。
白面神官が何かを記録係に告げる。
距離があり、声は聞こえない。
だが、記録係の筆の動きが速い。
実験は進んでいる。
俺は近くの倒木に触れ、鑑定する。
【対象:臨時収容地周辺】
【兵力:王国兵十八名、神官兵七名、白面神官一名】
【捕虜:二十六名】
【聖油残量:馬車二台分】
【予定行動:翌夜、アシュベル黒曜花焼却作戦】
【追加目的:捕虜を村前面に配置し抵抗抑止】
【注意:聖女セレナへの報告は制限中】
聖女セレナへの報告は制限中。
王国は、セレナに何かを隠している。
やはり彼女は、まだ完全に敵ではない。
この情報を届けられれば。
いや、その前に無事に戻る必要がある。
俺はさらに観察を続けた。
捕虜たちは衰弱しているが、まだ多くは生きている。
怪我人もいる。
治療は最低限。
檻の横には水桶があるが、量は少ない。
サナの母親らしき女性が、小さな子どもに水を分けている。
自分は飲まずに。
その姿を見て、俺は拳を握った。
助けたい。
だが、今飛び出せば全員を危険にさらす。
俺一人では、檻を破ることも、聖油を止めることもできない。
必要なのは作戦だ。
村へ戻り、情報を共有する。
境界を強める。
捕虜を盾にされる前に、どうにか檻から離す方法を考える。
そのとき、背後で小枝が折れる音がした。
俺は反射的に振り返る。
そこに、若い神官兵が立っていた。
先ほどリーベル村で見た男だ。
彼も俺を見て、目を見開いた。
「誰だ……!」
声を上げられる前に、俺は動いた。
手近にあった枯れ草をつかみ、彼の足元へ投げる。
鑑定。
【対象:枯れ草束】
【状態:乾燥、聖油微粒子付着】
【使用可能:軽い煙幕】
俺は火打ち石を擦った。
小さな火花。
枯れ草が白い煙を上げる。
若い神官兵が咳き込んだ。
「くっ……!」
俺は逃げようとした。
だが、その前に彼が杖を向ける。
「待て!」
白い魔力が走り、俺の足元の地面を弾いた。
転ぶ。
背中を木の根に打ちつけ、息が詰まった。
まずい。
若い神官兵は、煙の中でこちらを見失いながらも叫ぼうとしている。
俺は剣を抜いた。
戦うしかないのか。
その瞬間、別の声がした。
「やめろ」
中年の神官兵だった。
彼は若い男の肩をつかみ、声を低くする。
「騒ぐな」
「ですが、不審者が!」
「俺には見えなかった」
若い神官兵が固まる。
「何を……」
「見えなかったと言っている」
中年の男は、こちらを一瞬だけ見た。
目が合った。
彼は俺を見ている。
確実に見ている。
それでも、わざと視線を外した。
「煙で何も見えなかった。そう報告する」
「しかし」
「お前は勇者の名で村を焼くのが正しいと思うのか」
若い神官兵は言葉を失った。
中年の男は、低く続けた。
「俺はもう、正しいと思えない」
彼は俺に背を向けたまま、足元に小さなものを落とした。
木札だ。
王国軍の巡回路が刻まれた札。
「行け」
ほとんど聞こえない声だった。
「次に見つけたら、見逃せない」
俺は迷った。
だが、今は逃げるべきだ。
俺は木札を拾い、煙に紛れて森の奥へ走った。
背後で若い神官兵の声がする。
「本当に、何もいなかったのですか」
「煙だけだ」
「でも」
「煙だけだ」
中年の声は、もうそれ以上を許さなかった。
俺は森の中を走った。
途中、何度も警戒札を避け、足跡を消し、枯れ枝を使って追跡を乱した。
息が切れる。
足が痛む。
だが、止まれなかった。
リーベル村の記録。
収容地の位置。
捕虜の数。
聖油の計画。
そして、勇者の名が救わなかった村。
持ち帰らなければならないものが多すぎた。
アシュベルへ戻るころには、太陽は傾き始めていた。
村の境界線が見えた瞬間、黒曜花がわずかに揺れた。
リュシアが共同畑から駆け寄ってくる。
「レインさん!」
「戻った」
それだけ言うと、膝が崩れた。
彼女が支えてくれる。
後ろからグラン、バルザ、ノア、サナたちも集まってきた。
サナは俺の顔を見るなり、叫んだ。
「お母さんは!?」
俺は息を整えながら、彼女を見た。
「生きていた」
サナの目が大きく開く。
「本当?」
「ああ。檻の中にいた。怪我はしているが、立っていた」
サナはその場に座り込みそうになった。
ミミが泣き出す。
リクは顔を伏せ、トトは小さく拳を握った。
俺は続けた。
「他にも捕虜が二十六人。リーベル村の住人もいる」
「リーベル村?」
バルザが反応した。
「北東の小村だ。昔、アシュベルと麦を交換していた」
「焼かれていた」
俺の言葉に、村人たちの顔色が変わる。
「魔族避難民を受け入れたからだ。王国は浄化済区域と呼んでいた」
リュシアが唇を噛む。
ノアは目を伏せた。
サナは震える声で言った。
「勇者は……助けなかったの」
俺は懐から焼け残った記録紙を取り出した。
「リーベル村の記録だ。村人は、勇者が本当に英雄なら救ってほしいと書いていた」
誰も言葉を発しなかった。
俺は記録紙をリュシアに渡す。
「でも、勇者の名は村を救うためには使われなかった。焼くために使われた」
黒曜花が、静かに揺れた。
まるで、その村の死者のためにも祈っているようだった。
グランが低く言った。
「それで、聖油は?」
「馬車二台分。明日の夜、黒曜花焼却作戦を行う。捕虜を前に立たせて、こちらの抵抗を抑えるつもりだ」
「汚ねえな」
「ああ」
ノアが顔を上げる。
「兵力は?」
「王国兵十八。神官兵七。白面神官一」
「正面からは無理だ」
「分かっている」
俺は拾ってきた木札をノアに渡した。
「だが、巡回路の札を手に入れた。見逃してくれた神官兵がいた」
「見逃した?」
「王国側にも、全員が納得しているわけじゃないらしい」
ノアは木札を見つめた。
その表情には、苦しさと、わずかな希望が混ざっていた。
王国は一枚岩ではない。
死者を素材にする国の中にも、迷っている者がいる。
それは、これからの作戦に使えるかもしれない。
だが同時に、危うい希望でもあった。
信じすぎれば、裏切られる。
疑いすぎれば、何も変えられない。
バルザが静かに口を開いた。
「リーベルの死者は?」
「簡易墓があった。三人。黒曜花を望んでいると出た」
リュシアが目を伏せる。
「黒曜花の種を、届けられるでしょうか」
「今は無理だ。でも、覚えておく」
俺は焦げた木札を取り出した。
「名前も少しだけ拾えた。エイダ、ロム、カイの祖父。最後の一人は読めなかった」
バルザは杖を握りしめた。
「名前があるなら、弔える」
「ああ」
俺は共同畑の黒曜花を見た。
「この村だけを守ればいい段階は、もう終わったのかもしれない」
誰も否定しなかった。
アシュベルは、魔王の墓を守る村として始まった。
だが黒曜花の記憶は、サナたちを導いた。
リーベル村の死者は、黒曜花を望んでいた。
捕らわれた者たちは、明日の夜、人質として連れてこられる。
王国が死者を素材にするなら。
この村は、死者の名を呼ぶ場所になるしかない。
リュシアが静かに言った。
「父は、アシュベルだけを守ろうとしたのではないのかもしれません」
「どういう意味だ」
「黒曜花の根は、守るべきものが増えるほど広がるのでしょう?」
「ああ」
「なら、父の墓は、この村だけのものではなくなっていくのかもしれません」
死者の価値を、生者の明日へ。
その言葉が、胸の奥で蘇る。
勇者が救わなかった村。
王国が焼いた村。
名前を消されそうになっている死者たち。
黒曜花は、それらを忘れないために咲いている。
俺は記録紙を握りしめた。
「明日の夜までに、捕虜を助ける作戦を立てる」
サナが立ち上がった。
「私もやる」
「危険だ」
「分かってる。でも、今度は待つだけじゃない」
その目には、もうただの怒りだけではないものがあった。
恐怖もある。
悲しみもある。
それでも、前を見ている。
俺はうなずいた。
「分かった。ただし、勝手に動くな」
「分かった」
ノアが木札を広げる。
「巡回路が分かれば、穴が見つかるかもしれない。聖油の馬車を止める方法も考えられる」
グランが槌を担ぐ。
「馬車なら、車輪を壊せば止まる」
バルザが地図を取りに戻る。
エナは捕虜を受け入れた場合の寝床と水の準備を考え始めた。
リュシアは黒曜花の前に膝をつき、静かに祈った。
アシュベルが、また動き出す。
廃村だった場所が。
魔王の墓を抱えた場所が。
勇者が救わなかった村のために、動き出す。
俺は空を見上げた。
日が沈む。
明日の夜、王国は聖油を持ってくる。
捕虜を盾にして、黒曜花を焼こうとする。
こちらには、強い兵も、城壁も、聖剣もない。
あるのは、壊れた鍬で刻んだ境界。
魔王の墓に咲く黒い花。
死者の記憶。
そして、捨てられた者たちだけだ。
それでも、やるしかない。
勇者が救わなかった村を、死体鑑定士が覚えた。
なら、その記憶を次の行動に変えなければならない。
黒曜花が、夕闇の中で静かに光っていた。
その光は、もうアシュベルだけを照らしているのではなかった。




